第五十一話 近すぎる午後
香草袋は、思っていた以上に評判がよかった。
最初に灰色を買ってくれたエダは、翌日にはもうローレンスの店へ追加注文を出していた。
薬草棚用に灰色を三つ。
乾燥棚の目印用に薄緑を二つ。
それから、乾物屋の奥さんも茶葉棚に入れたいと言って、灰色を二つ頼んでくれた。
さらに、宿屋の女将が客室の戸棚に入れたいと、薄緑を一つ。
合計で八つ。
小さな仕事としては、かなり多い。
嬉しい。
とても嬉しい。
けれど、問題があった。
香草が足りない。
畑の香草はまだ若い。
全部摘んでしまうわけにはいかない。
エダに相談したところ、乾燥用に使える香草を少し分けてもらえることになった。
その代わり、森の家で干して、香りを見ながら量を調整してみるとよいと言われた。
つまり今日は、香草を干す日だ。
朝から私は、台所の机に香草の束を並べていた。
エダからもらったもの。
自分の畑から少しだけ摘んだもの。
種類ごとに香りが違う。
青く爽やかなもの。
少し甘いもの。
葉を揉むと、すっと鼻に抜けるもの。
台所の中は、森と薬草店のあいだのような匂いになっていた。
「これは、少し強いわね。」
私は葉を一枚指で揉み、香りを確かめた。
強すぎるものは、香草袋に入れる量を少なくしなければならない。
衣類に香りが移りすぎても困る。
棚に入れて、そこだけ薬草店のようになっても困る。
何事もほどほどが大事だ。
そう考えて、少し笑ってしまった。
ほどほど。
今の私に一番足りないものかもしれない。
ヴィルヘルムのことになると、最近私はまったくほどほどではない。
昨日の昼食。
台所に座ったヴィルヘルム。
向かい合って食べた香草のスープ。
可愛いと思ってしまった横顔。
……少し照れたような声。
――忘れるには少し惜しいので。
思い出した瞬間、私は香草を握る手に力を入れすぎた。
葉が少し潰れる。
「……いけない。」
私は慌てて手を緩めた。
香草に罪はない。
ヴィルヘルムが、あんなことを言うのが悪い。
いや、違う。
私が勝手に動揺しているだけだ。
昨日からずっと、思い出しては顔が熱くなる。
もう、何度目か分からない。
私は一度深呼吸をした。
香草の香りが胸に入る。
……少し落ち着く。
落ち着いたところで、私は台所の天井近くを見上げた。
香草を干すためには、紐を張る必要がある。
台所の梁から梁へ。
あるいは窓辺から棚の上へ。
マーサに相談したら、日が入りすぎない風通しのいい場所がいいと言われた。
ならば、台所の入口近くの梁がよさそうだ。
問題は、高いこと。
私は椅子を持ってきて、その上に立った。
紐を持ち、梁へ手を伸ばす。
届かない。
もう少し。
少し背伸びすれば届く。
私は足先に力を入れた。
「……っ。」
届きそうで、届かない。
なぜこの家の梁は、こんなに微妙な高さなのだろう。
いや、私が少し足りないだけかもしれない。
あと少し。
ほんの少し。
その時、外から蹄の音が聞こえた。
私は椅子の上で固まった。
来た。
ヴィルヘルムだ。
昨日、明日も来ると言っていた。
香草袋の売れ行きを聞かせてください、と。
心臓が跳ねる。
けれど今、私は椅子の上で、片手に紐を持ち、背伸びしている。
かなり間抜けな姿だ。
下りるべきだ。
そう思った。
思ったのに、足元が少しぐらついた。
「あ。」
椅子が小さく揺れる。
私は慌てて梁に手を伸ばした。
けれど、掴めない。
次の瞬間、玄関の方から扉が叩かれる音がした。
「レベッカ嬢。」
ヴィルヘルムの声。
私は返事をしようとした。
だが、椅子がもう一度ぐらつく。
「だ、大丈夫です。」
何も大丈夫ではない声が出た。
扉の向こうで一瞬、沈黙があった。
「今の声は、大丈夫ではありません。」
当然の判断だった。
私は椅子の上で紐を握りしめる。
「少し高いところにいるだけです。」
「下りてください。」
「今、下ります。」
そう言って足元を見た瞬間、椅子がまた揺れた。
床が少し遠く見える。
――ああ、まずい。
そう思った時には、扉が開いていた。
鍵はかけていなかった。
最近、昼間は少し油断している。
ヴィルヘルムが台所の入口に立った。
状況を一瞬で見たのだろう。
椅子の上の私。
手に持った紐。
机に並んだ香草。
高い梁。
そして、ぐらつく椅子。
彼の表情が、ほんのわずかに変わった。
「動かないでください。」
低い声だった。
私は反射的に止まる。
ヴィルヘルムはすぐに近づいてきた。
椅子の脚を片手で押さえ、もう片方の手をこちらへ伸ばす。
「下りられますか。」
「下りられます。」
「手を。」
私は少し迷った。
けれど、もう意地を張る場面ではない。
私は彼の手を取った。
手袋越しの手。
しっかりしている。
椅子の上から下りるだけなのに、妙に緊張する。
ヴィルヘルムの手に支えられ、一歩下りる。
その瞬間、足が少しもつれた。
「きゃ。」
小さな声が漏れる。
ヴィルヘルムの腕が、私の背に回った。
近い。
あまりにも近い。
胸元に、濃紺の服。
少し薬草の匂い。
それから、彼の外套に残る風の匂い。
私は息を止めた。
倒れたわけではない。
ただ、支えられただけ。
それなのに、全身が一気に熱くなる。
「……大丈夫ですか。」
頭上から声がした。
いつもの確認のようで、違う。
声が少しだけ硬い。
彼も驚いたのかもしれない。
私は背中に回った腕を意識しすぎて、すぐには返事ができなかった。
「レベッカ嬢。」
「だ、大丈夫です。」
「本当に?」
「本当に。」
彼はすぐに手を離した。
あまりに慎重に。
まるで触れていたこと自体を詫びるように。
――その律儀さが、今は少しだけ惜しいと思ってしまった。
私は自分に驚く。
惜しい?
今、惜しいと思ったの?
危ない。
これは、またかなり危ない。
私は慌てて椅子の方を向いた。
「椅子が、少し不安定だっただけです。」
「そのようですね。」
「紐を張ろうとしていました。」
「見れば分かります。」
「香草を干すためです。」
「はい。」
「高くて、少しだけ。」
「届かなかった。」
「……はい。」
素直に認めると、ヴィルヘルムは椅子を見て、それから梁を見上げた。
「私が張ります。」
「いえ、そこまでしていただくわけには。」
「椅子にもう一度乗られるよりは、その方がよいです。」
正論だった。
反論しづらい。
私は紐を握ったまま黙った。
ヴィルヘルムは少しだけ首を傾げる。
「嫌ですか。」
「嫌ではありません。」
即答してしまった。
早すぎた。
ヴィルヘルムの目が、ほんの少し揺れる。
私も自分の返事に動揺した。
「……ただ、申し訳ないと思っただけです。」
「なら、問題ありません。」
彼は手を差し出した。
「紐を。」
私は紐を渡した。
彼は椅子に乗ることなく、少し手を伸ばしただけで梁に届いた。
私はそれを見て、ほんの少しだけ唇を尖らせた。
「背が高いのですね。」
「そうでしょうか。」
「届いています。」
「届きます。」
「私には届きませんでした。」
「……はい。」
そこで、なぜかヴィルヘルムが少し困った顔をした。
私が拗ねたように聞こえたのかもしれない。
「不便でしたか。」
「少し。」
「次から、呼んでください。」
自然に言われた。
――次から。
その言葉に胸が跳ねる。
次がある。
彼は当たり前のようにそう言った。
「では、次から。」
私は少し小さな声で答えた。
ヴィルヘルムの手が、紐を梁に結ぶ途中でわずかに止まる。
それから、少しだけ遅れて返事が来た。
「はい。」
その一拍の遅れ。
――まただ。
彼がほんの少し戸惑う瞬間。
冷静な仮面が緩む瞬間。
そこに、十八歳の若者らしさが見える。
私はその小さな隙を見つけるたび、胸がきゅっとなる。
どうしてこんなに可愛いのだろう。
どうしてこんなに、かっこいいのに、可愛いのだろう。
以前の私は、この人を何だと思っていたのか。
敵。
監視役。
冷たい王子。
何を考えているか分からない人。
たしかに、そうだった。
でも今は違う。
高い梁に紐を結びながら、私の「次から」に少しだけ反応する人。
そういう顔をする人。
私はそれを知ってしまった。
ヴィルヘルムは紐を張り終えると、軽く引いて強さを確かめた。
「これでどうでしょう。」
「綺麗です。」
私は素直に言った。
ヴィルヘルムがこちらを見る。
「綺麗?」
「はい。結び目が。」
「結び目。」
「とても整っています。」
彼は一瞬、何とも言えない顔をした。
褒められると思っていなかったのかもしれない。
……それがまた、少し可愛かった。
「……ありがとうございます。」
声がいつもより小さい。
私は思わず笑ってしまいそうになり、慌てて香草の束を手に取った。
「では、干していきます。」
「手伝います。」
「結べますか?」
「結べます。」
即答だった。
少しだけむっとしたように聞こえた。
私は瞬きをする。
これは、負けず嫌い、なのだろうか。
彼がカイエンと共に学院に入るまでは、王宮で同じ師から教えを仰ぐことも多かった。
何度かそう感じたことがあったと、急に懐かしくなる。
「では、こちらをお願いします。」
私は笑って香草の束と細い紐を渡した。
ヴィルヘルムは受け取ると、真剣な表情で束をまとめ始めた。
剣や書類なら、きっと何でも器用にこなすのだろう。
だが、細い香草の茎を束ねるのは勝手が違うらしい。
最初の束は、少しきつく結びすぎて葉が潰れた。
次の束は、逆に緩すぎて茎が抜けた。
ヴィルヘルムの眉が、ほんの少し寄る。
私は見ないふりをした。
見ないふりをしたが、見ていた。
「……難しいですね。」
彼が低く言った。
私は我慢できず、少し笑ってしまった。
「殿下にも、できないことがあるのですね。」
言った瞬間、ヴィルヘルムがこちらを見た。
少しだけ、悔しそうだった。
「練習すればできます。」
ああ。
今のは、かなり可愛い。
私は香草の束を持ったまま、胸を押さえたくなった。
もちろん押さえない。
ただ、何でもない顔をする。
「では、練習しましょう。」
「はい。」
「きつすぎると葉が潰れます。緩すぎると落ちます。」
「はい。」
「真ん中より、少し茎寄りを結ぶとまとまりやすいです。」
「はい。」
真剣。
とても真剣。
ヴィルヘルムは香草の束を、まるで重要な書類でも扱うように見つめている。
その横顔が整っていて、少し眉間に皺が寄っていて、でも手元は香草と格闘している。
かっこいいのに、可愛い。
可愛いのに、やっぱりかっこいい。
私は、もう自分の心をどう扱えばいいのか分からなかった。
しばらくして、ヴィルヘルムは三つ目の束を結び終えた。
今度は綺麗だった。
茎は潰れていない。
束も抜けない。
結び目も整っている。
「できました。」
彼が言った。
声は静かだが、少しだけ誇らしげだった。
私は束を受け取って確かめる。
「上手です。」
自然に言った。
その瞬間、ヴィルヘルムの動きが止まった。
え。
私は顔を上げる。
彼は私を見ていた。
ほんの少しだけ、目元が赤い。
「……もう一度、言ってください。」
今度は私が固まった。
「え?」
「い、え。」
彼はすぐに視線を逸らした。
「何でも、ありません。」
「今、もう一度と言いました。」
「聞かなかったことに。」
「難しいです。」
私がそう返すと、彼は少しだけ困ったような顔をした。
その顔がまた可愛い。
だめだ。
本当にだめだ。
私は手元の香草の束を見た。
上手です。
もう一度言うだけ。
それだけなのに、どうしてこんなに恥ずかしいのか。
でも、彼が待っている。
少しだけ気まずそうに。
少しだけ期待しているように。
私は小さく息を吸った。
「……上手です。」
声が小さくなった。
けれど、聞こえたはずだ。
ヴィルヘルムは、しばらく黙っていた。
それから、ほんの少しだけ目を伏せた。
「……ありがとうございます。」
静かな声。
でも、どこか嬉しそうだった。
胸がきゅんと音を立てた気がした。
こんな感覚を、私は知らない。
日本で生きていた頃にも。
レベッカとして王宮にいた頃にも。
誰かを褒めて、その人が少し照れて、それを見てこんなに嬉しくなるなんて。
知らなかった。
私は香草の束を紐に吊るした。
葉が小さく揺れる。
香りがふわりと立つ。
台所の天井近くに、少しずつ香草の列ができていく。
その隣で、ヴィルヘルムがまた束を結ぶ。
さっきよりずっと上手い。
負けず嫌いで、飲み込みが早い。
いかにも彼らしい。
私は作業をしながら、時々彼の手元を見た。
そのたびに、彼は少しだけ慎重になる。
見られていることに気づいているのだろう。
それがまた可愛かった。
「……見られると、結びにくいです。」
やがて彼が言った。
私は驚いて顔を上げた。
「見ていましたか?」
「……かなり。」
「すみません。」
「いいえ。」
「では、見ないようにします。」
「それは。」
彼が言いかけて、止まる。
「それは?」
「……少し、惜しいです。」
まただ。
どうしてそういうことを言うのか。
私は顔を背けた。
「ヴィルヘルム殿下。」
「はい。」
「そういう言い方は、よくありません。」
「よくない?」
「こちらが困ります。」
「困らせるつもりは。」
「なくても困ります。」
「……すみません。」
謝られてしまった。
いや、そうではない。
謝ってほしいわけではない。
私は香草の束を持ったまま、言葉を探した。
「……嫌では、ありません。」
やっと言えた。
ヴィルヘルムがこちらを見る。
私は香草に視線を落としたまま続けた。
「困りますが、嫌ではありません。」
言ってしまった。
香草の匂いが強い。
顔が熱い。
心臓がうるさい。
ヴィルヘルムは何も言わなかった。
しばらくして、低い声が落ちた。
「……分かりました。」
本当に分かったのかは分からない。
でも、彼の声も少しだけ揺れていた。
その揺れに、また胸が温かくなる。
午後の光が、台所の窓から差し込んでいた。
香草の束が、紐に並んで揺れる。
緑。
灰色がかった葉。
少し銀色の細い葉。
それぞれ香りが違う。
ヴィルヘルムが結んだ束も、私が結んだ束も、同じ紐に並んでいる。
それが、妙に嬉しかった。
「こうして見ると。」
私は言った。
「はい。」
「森の家というより、薬草屋みたいです。」
ヴィルヘルムは台所を見回した。
梁に並ぶ香草。
机に置かれた小袋。
鈴。
紐。
帳面。
「良いと思います。」
「そうですか?」
「はい。暮らしが広がっているように見えます。」
また、そういうことを言う。
私は香草の束を整えながら、小さく笑った。
「褒め方が少し上手くなりましたね。」
ヴィルヘルムが瞬きをした。
「そうでしょうか。」
「はい。」
「……練習しました。」
私は手を止めた。
「練習?」
「王都で。」
「褒め方を?」
「いえ。言葉を選ぶ練習を。」
胸が、少しだけ締めつけられた。
三か月。
王都。
彼が何をしていたのか、私は詳しくは知らない。
でも、その中で言葉を選ぶ練習をしていたのだろうか。
私に何かを言うために。
そう思ってしまいそうになる。
私はそれをそのまま受け取るのが怖くて、少し軽く返した。
「成果が出ています。」
ヴィルヘルムが、また一拍遅れて答える。
「それは、よかった。」
嬉しそうだった。
とても小さく。
でも、確かに。
私はその表情を見て、胸の奥が柔らかくほどけるのを感じた。
香草を干し終える頃には、台所が青い香りで満ちていた。
ヴィルヘルムの結んだ束は、最初の二つを除けば、とても綺麗だった。
潰れた葉の束は、私が料理用に分けた。
「失敗作です。」
彼が少しだけ悔しそうに言う。
「失敗ではありません。料理用になりました。」
「用途変更ですか?」
「はい。」
「……便利な言葉、ですね。」
「今日は私が使います。」
そう言うと、彼が少し笑った。
私はその顔を見て、また息が詰まりそうになった。
笑うと、年相応に見える。
いや、年相応より少し幼く見えるかもしれない。
ずっと張り詰めてきた人が、ほんの少しだけ力を抜いた顔。
その顔を見られたことが、宝物のように思えた。
夕方が近づき、ヴィルヘルムは帰る支度をした。
ノクスは庭の脇で静かに待っている。
私は玄関先まで見送った。
「今日は、ありがとうございました。」
私が言うと、ヴィルヘルムは首を横に振った。
「こちらこそ。香草を結ぶ練習になりました。」
「練習熱心ですね。」
「……次は、もっと綺麗にできます。」
やはり負けず嫌いだ。
私は笑ってしまった。
「では、次もお願いします。」
言ってから、少し固まる。
次も。
また言ってしまった。
でも、ヴィルヘルムは静かに頷いた。
「はい。次も。」
その言葉に、胸が温かくなる。
次がある。
今日だけではない。
明日も。
その先も。
そう信じられることが嬉しかった。
「また明日。」
彼が言った。
「はい。また明日。」
ノクスが歩き出す。
薄緑の鈴が揺れる。
遠ざかる音を聞きながら、私は玄関先に立っていた。
今日の私は、何度も困った。
近くて困った。
可愛くて困った。
かっこよくて困った。
嬉しくて困った。
困ることばかりなのに、胸の奥はずっと温かい。
台所へ戻ると、梁には香草の束が並んでいた。
私が結んだもの。
ヴィルヘルムが結んだもの。
少し不格好な最初の束。
綺麗に結べた最後の束。
私はその一つにそっと触れた。
香りが立つ。
青くて、少し甘い。
「上手です。」
小さく呟いた。
――もう一度言ってください。
彼の声が蘇る。
私はその場で顔を覆った。
だめだ。
本当に、だめだ。
けれど、どうしようもなく幸せだった。
外では鳥除けの鈴が鳴っている。
その音に混じるように、天井近くの香草がかすかに揺れた。
森の家には、またひとつ、ふたりで作ったものが増えてしまった。




