表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
50/78

第五十話 ふたり分の昼食

 香草袋の試作は、思っていたより順調に進んだ。


 薄緑の紐のものを三つ。

 灰色の紐のものを三つ。


 小さな鈴は、音が控えめなものを選んだ。

 鳴らすと、ちりん、というより、りん、と短く響く。


 強すぎない音。

 けれど、そこにあると分かる音。


 香草袋にはちょうど良い気がした。


 机の上に並べると、少しだけ誇らしい。

 森の家の鈴は、窓辺や手綱袋だけではなく、棚や衣類の中にも入っていくのかもしれない。

 そう思うと、自分の作ったものが、また少し遠くまで歩き出したような気がした。


「贈り物・窓辺用。」


 私は薄緑の札を見た。


「棚・衣類用。」


 次に灰色の札を見る。


 この分け方は、ヴィルヘルムの案だ。


 用途を分けては。

 彼はそう言った。


 その一言のおかげで、迷っていたものがすとんと収まった。


 私は帳面を開き、今日の納品予定を書いた。


 香草袋、試作六つ。

 薄緑三つ。

 灰色三つ。


 ――ヴィルヘルム案。


 そこまで書いて、筆が止まった。


 案。

 ただの仕事の記録だ。


 そう言い訳しながらも、名前を書いただけで胸が少し跳ねる。

 私は帳面の文字をじっと見つめた。


 ――ヴィルヘルム。


 まだ声には出せない。


 本人の前で名前だけを呼ぶなんて、とてもではないが無理だ。

 それなのに、帳面の中では何度も呼んでいる。


 それが少し恥ずかしく……少し嬉しい。


「……仕事の記録です。」


 誰にともなく言い訳し、私は帳面を閉じた。


 昼前にはローレンスの店へ持っていくつもりだった。


 けれど、その前にヴィルヘルムが来る。

 昨日、そう言っていた。


 香草袋の試作を見るため。

 それは仕事の一環だ。

 それだけだ。


 私は机の上の香草袋を整えながら、ふと台所の鍋を見た。

 今日は、香草を少し入れたスープを作る予定だった。


 根菜と豆。

 それに、畑の香草をほんの少し。


 昨日、ヴィルヘルムは香草の香りを確かめて、青い香りです、と言った。


 ――青い香り。


 その言葉が気に入ってしまった。


 香草をスープに入れたら、彼は何と言うだろう。


 味が落ち着いています。

 香りが前に出すぎていません。

 豆の甘みと合います。


 きっと、そんなふうに真面目に考えてくれる。


 私は思わず笑ってしまった。

 そして、笑ったあとで気づいた。


 ――私は、彼と一緒に昼食をとるところを想像している。


 ただ味見をしてもらうだけではない。


 向かいに座って、器を二つ置いて、スープを二つよそって、彼が少し考え込むように匙を動かすところを見て、その感想を聞く。


 それを、自然に想像していた。

 私は鍋の前で固まった。


「……味見です。」


 声に出す。


「香草の味見をしていただくだけ。」


 ……言い訳としては、悪くない。


 香草袋を作るなら、香草を料理に使った時の印象も知っておいた方がよい。

 少し苦しいが、まったく関係がないわけではない。


 私は自分にそう言い聞かせながら、スープの材料を切り始めた。


 少し多めに。

 一人分ではなく。

 二人分。


 包丁を持つ手が、以前より少し慎重になる。

 指を切った日のことを思い出したからだ。


 ――ヴィルヘルムが手当てしてくれた。


 手袋を外した手。

 冷たい指。

 真剣すぎる横顔。


 触れられた指先より、なぜか胸の方が熱かった。


 思い出すと、まだ指先にその感覚が残っているような気がする。

 傷はもう跡もほとんどない。

 けれど、記憶だけは残っている。


 私は小さく息を吐き、包丁を置いた。


 今日は切らない。

 今日は落ち着いて。



 午前の終わり頃、蹄の音が聞こえた。


 今日はヴァルドだった。

 薄緑の鈴が手綱袋で小さく鳴っている。


 ヴィルヘルムは森の家の前で馬を降り、いつものように柵の外で止まった。


 けれど、以前より少しだけ表情が柔らかい。

 いや、私がそう見たいだけかもしれない。


「こんにちは。」


「こんにちは。」


 挨拶を返すだけで、胸の奥がくすぐったくなる。

 どうして以前の私は、平気な顔でこの人と話せていたのだろう。


 ……いや、平気ではなかったのかもしれない。

 ただ、腹を立てたり、警戒したり、言い返したりすることで、自分の中の何かを見ないようにしていただけなのかもしれない。


 そう考えると、少し落ち着かなくなった。

 私は慌てて机の上を示す。


「香草袋、できました。」


 ヴィルヘルムの視線が机へ移る。


「もう?」


「手が進みましたので。」


 彼は少しだけ目を細めた。


「無理をされたわけでは。」


「していません。」


 即答してから、私は少し笑った。


「今日は本当です。」


 ヴィルヘルムが、ほんの一拍遅れて頷いた。


「……そうですか。」


 その遅れに、私は気づいてしまった。

 以前なら気にしなかっただろう。


 けれど今は、その一拍が妙に可愛らしく見える。

 いつもならすぐに、はい、と返す人が、少し戸惑った。


 ――私が笑っただけで。


 そのことに気づいてしまって、私は自分の頬が熱くなるのを感じた。


 ――可愛い。


 今、私はそう思ったのだろうか。


 ヴィルヘルムを。

 あの、氷のように冷静で、無表情で、何でもそつなくこなす人を。


 可愛い、と。


 危ない。

 これはかなり危ない。


 私は咳払いをして、香草袋を一つ手に取った。


「薄緑は贈り物や窓辺用、灰色は棚や衣類用にしました。」


「分かりやすいです。」


「ヴィルヘルム殿下の案です。」


 そう言ってから、私は少しだけ言葉を飲み込んだ。

 ヴィルヘルム。

 殿下をつけたから、まだ大丈夫。


 けれど名前を口にしただけで、心臓が跳ねた。


 彼も少しだけ視線を上げたように見えた。

 私が名前を言ったことに、気づいたのだ。


 そのことにまた頬が熱くなる。


「私の案というほどではありません。」


 彼は静かに答えた。


 けれど、その声はほんの少しだけ低かった。

 低いのに、落ち着かない声。


 ……もしかして、照れているのだろうか。


 そう思った瞬間、私の方が慌ててしまった。


「いえ、助かりました。ローレンスさんもきっと分かりやすいと言ってくださると思います。」


「それなら、よかった。」


 彼は香草袋を手に取った。

 薄緑の紐を指先で撫でる。


 その仕草が丁寧で、私はつい見てしまう。


 長い指。

 剣を持つであろう手。

 書類をさばくであろう手。

 私の指を手当てしてくれた手。


 そして今、私の作った小さな香草袋を、壊れ物のように扱っている手。


 私は視線を逸らした。


 ……見るところが多すぎる。


 恋を自覚する前の私は、いったいこの人のどこを見ていたのだろう。


 顔も、手も、声も、仕草も、全部こんなに落ち着かないものだっただろうか。

 それとも、気づいていなかっただけだろうか。


 鍋が小さく音を立てた。


 私は我に返る。


「スープが。」


 慌てて台所へ向かう。鍋の蓋を少しずらすと、香草の青い匂いがふわりと立った。

 ヴィルヘルムもそれに気づいたようだった。


「香草を使われましたか。」


「はい。」


「スープに?」


「はい。」


 ここだ。

 言うなら今だ。


 味見をしていただけませんか。


 ただ、それだけの言葉。

 なのに、喉の手前で止まる。


 誘う。

 食事に誘う。


 以前もお礼として昼食を出したことはある。


 けれど、今日は違う。

 看病への礼でもない。

 怪我の手当てへの礼でもない。


 ただ、食べてもらいたい。

 一緒に食べたい。


 そういう気持ちがある。

 だから言いづらい。


「……あの。」


 私は鍋の前で言った。


「はい。」


「香草の、味見をしていただけませんか。」


 言えた。

 言ってしまった。


 ヴィルヘルムは少しだけ瞬きをした。


「私が?」


「はい。」


「よろしいのですか。」


「味見です。」


「味見。」


「香草袋を作るなら、香草を料理に使った時の印象も確認した方がよいかと。」


 言ってから、自分でも少し苦しくなった。


 香草袋とスープの味見。

 まったく関係がないわけではない。

 けれど、そこまで強く結びつける必要もない。


 ――本当は、ただ一緒に食べたいだけだ。


 私は匙を置く手に力を入れた。


 ヴィルヘルムは何かを考えるように黙っていた。


 いつもなら、ここで必要な確認です、と真面目に答えただろう。

 けれど今日は、その言葉を待つのが少しだけ惜しくなった。


「……いえ。」


 私は小さく息を吸った。


「それもあるのですが。」


 ヴィルヘルムが顔を上げた。

 青い目が、まっすぐこちらを見る。

 その視線に胸が跳ねた。


 けれど、私は逃げなかった。


「一緒に、昼食をとっていただきたいのです。」


 言ってしまった。


 台所が、急に静かになった気がした。

 鍋の中でスープが小さく音を立てている。


 庭では鳥除けの鈴が鳴った。

 ちりん。

 ヴィルヘルムは、すぐには答えなかった。


 彼はいつも返事が早い。

 はい。

 承知しました。

 問題ありません。

 そんなふうに、すぐに答える人だ。


 けれど今は、一拍遅れた。

 そのほんの少しの遅れが、なぜか私の胸を熱くした。


「……よろしいのですか。」


 ようやく出た声は、いつもより少し低かった。


「はい。」


「家の中に。」


「はい。」


 私は台所の椅子を一つ引いた。


「今日は、こちらへどうぞ。」


 ヴィルヘルムの視線が、椅子へ落ちた。

 それから私へ戻る。


 まるで、境界線を本当に越えてよいのか、最後に確かめているようだった。


 私は少しだけ笑った。


「私が招いています。」


 その言葉に、彼の表情がかすかに揺れた。


「……承知しました。」


 そう答えた彼は、いつもの氷のような王子ではなかった。

 少しだけ戸惑った、年相応の青年の顔をしていた。


 それが、ひどく可愛らしく見えてしまって、私は慌てて鍋の方を向いた。


 十八歳。

 十九歳の私より一つ下の青年。

 普段は完璧な王子にしか見えない彼が、私の言葉一つで表情を崩す。


 ――可愛い。


 また思ってしまった。


 だめだ。

 本当にだめだ。


 この人を可愛いと思い始めたら、もう自分がどこへ向かうのか分からない。


 私はスープを器によそいながら、必死で平静を装った。


 しかし、背後で椅子が小さく引かれる音がしただけで、また胸が鳴った。

 ヴィルヘルムが、私の台所に座っている。


 玄関先ではない。

 敷居の向こうでもない。

 私の家の中に。

 私が招いた席に。


 そのことが、どうしようもなく嬉しかった。


 深皿を二つ並べる。

 茶器も二つ。

 匙も二つ。

 ふたり分の昼食。


 台所の机は小さい。

 向かい合って座ると、思っていたより近かった。


 近い。

 近すぎる。

 けれど、今さら椅子を離すのも変だ。


 私は器を置きながら、できるだけ落ち着いた声を出した。


「熱いので、気をつけてください。」


「はい。」


 いつもの返事。

 けれど、彼の声もどこか硬い。

 その硬さに、私は少しだけ安心した。


 緊張しているのは私だけではないのかもしれない。


 そう思うと、胸がふわりと軽くなる。


「いただきます。」


 彼はそう言って、匙を取った。

 丁寧な所作。

 静かな顔。

 私は自分の器を見つめているふりをしながら、ちらりと彼を見る。


 やはり、綺麗な人だと思った。

 以前から知っていたはずだ。


 整った顔立ち。

 淡い金髪。

 青い瞳。

 冷たいほど端正な顔。


 でも今は、ただ綺麗なだけではない。


 匙を持つ手が少し慎重で、香草の匂いを確かめるようにわずかに目を伏せて、私が見ていることに気づいたのか、ほんの少しだけ視線を揺らして。


 その全部が、妙に人間らしく見えた。


 ずっと大人びていて、冷静で、私よりずっと遠い場所にいる人のように思っていた。

 けれど今、私の台所でスープを前に少し緊張している彼は、どこか年相応に見えた。


 そのことに気づいた瞬間、胸がきゅっと鳴った。


 ――可愛い。

 ――かっこいい。


 困る。

 全部同時に来る。


 私は匙を握りしめた。

 以前の私は、どうやってこの人と普通に話していたのかしら。

 思い出せない。


 ヴィルヘルムはスープを一口飲んだ。

 私は思わず息を止めた。


 彼は少し考えてから言った。


「以前より、味が落ち着いています。」


 私は瞬きをした。


「落ち着いています?」


「はい。塩が前に出すぎていません。豆の甘みと、香草の香りが残っています。」


「……褒めていますか。」


「褒めています。」


「褒め方が調味料みたいですね。」


 つい言ってしまった。

 ヴィルヘルムは匙を持ったまま、少しだけ黙った。


「調味料。」


「いえ、分かりにくいという意味ではなく。とても具体的です。」


「具体的すぎましたか。」


「いいえ。」


 私は自分の器を見た。


「嬉しいです。」


 素直に言う。

 言えた。

 ヴィルヘルムがこちらを見る。


 青い目が、静かに揺れた。


「それなら、よかった。」


 その声が柔らかくて、私はますます顔が熱くなった。


 食事は静かに進んだ。

 ときどき、香草の話をする。


 乾かし方。

 入れる量。

 香りの強さ。

 根菜に合うか。

 豆に合うか。

 魚にはどうか。


 そんな暮らしの話。


 王宮の政治でも、断罪の過去でも、監視でもない。


 ただ、スープの話。

 香草の話。

 次に作る料理の話。


 それが、どうしようもなく幸せだった。


「魚に香草は合うでしょうか。」


 私が聞くと、ヴィルヘルムは少し考えた。


「合うと思います。ただ、香りが強いものは少量の方がよいかと。」


「魚料理もお詳しいのですか。」


「詳しいというほどではありません。ただ、食べられるものを選ぶ必要があった時期が長かったので。」


 言葉は穏やかだった。

 けれど、その奥にある十年を思うと、私は匙を止めた。


 以前なら、そこで何も聞けなくなったかもしれない。

 あるいは、踏み込んではいけないと自分に言い聞かせただろう。


 でも今日は、少し違った。


「では。」


 私はゆっくり言った。


「これからは、選ばなくてもよいものをお出ししたいです。」


 ヴィルヘルムが顔を上げた。


「選ばなくてもよいもの?」


「はい。安全かどうか、食べられるかどうかではなく、美味しいかどうかだけ考えられるものを。」


 言ってから、少し恥ずかしくなった。

 大きなことを言った気がする。

 私はまだ料理が得意というほどではない。

 焦がすこともある。

 塩加減に迷うこともある。


 でも、そう思ったのだ。

 彼に、ただ美味しいかどうかだけ考えて食べてほしい。


 ヴィルヘルムは黙っていた。

 長い沈黙。

 私は不安になりかけた。


 けれど、彼の目元がほんの少し赤くなっているように見えた。


 気のせいだろうか。


「……楽しみにしています。」


 ようやく彼は言った。

 声が少し低かった。


 その声を聞いた瞬間、私の胸が弾んだ。


 照れている。

 たぶん。

 きっと。


 ああ、もう。

 そんな顔をしないでほしい。

 そんな声を出さないでほしい。


 もっと見たくなってしまう。


 私は慌ててスープを飲んだ。


 熱かった。


「熱い。」


 思わず呟くと、ヴィルヘルムが少し身を乗り出した。


「大丈夫ですか。」


「大丈夫です。」


 反射的に答えてから、私は笑ってしまった。


「今の大丈夫は本当です。」


「そうですか。」


 ヴィルヘルムも少しだけ笑った。

 ほんの少し。

 本当にわずかに。


 でも、笑った。


 私はその顔を見て、胸がぎゅっと苦しくなった。


 こんな顔をする人だったのだ。

 こんなふうに笑える人だったのだ。

 以前の私は、どうして気づかなかったのだろう。


 いや、気づけなかったのだ。

 彼も隠していた。

 私も見ないようにしていた。


 でも今は、見えてしまう。


 隠れていたものが、少しずつ。



 食後、私は器を片づけようとした。

 ヴィルヘルムが立ち上がりかける。

 私は首を振った。


「座っていてください。」


「しかし。」


「今日は、お客様です。」


 そう言うと、彼がまた少し固まった。


「客。」


「はい。私が招いた、お客様です。」


「……そうですか。」


「そうです。」


 ヴィルヘルムは静かに座り直した。

 その様子が、どこか素直で、また胸がくすぐられる。


 王族で、恐ろしく有能で、何を考えているのか分からなくて、時々腹が立つほど冷静な人。

 でも、私の台所でお客様と言われて、少し戸惑って座り直す十八歳の青年。


 その両方が同じ人なのだ。


 私は器を水に浸しながら、思わず口元が緩むのを止められなかった。


「何か。」


 ヴィルヘルムが聞いた。


「いいえ。」


「笑っていました。」


「笑っていません。」


「笑っていました。」


「……少しだけです。」


「理由を聞いても?」


「聞かないでください。」


 私がそう言うと、彼はそれ以上聞かなかった。

 その代わり、少しだけ残念そうに見えた。


 そんな顔をされると困る。

 ……とても困る。


「いずれ。」


 私は思わず言った。

 ヴィルヘルムがこちらを見る。


「いずれ、お話しします。」


 何を。

 自分でも分からない。

 けれど、口から出てしまった。


 彼は少しだけ目を伏せた。


「待ちます。」


 静かな声。

 その一言が、胸に落ちた。


 ――待ちます。


 彼はそう言ってくれる人なのだ。

 私は器を洗う手を止めないまま、小さく頷いた。



 午後、香草袋をローレンスの店へ持っていくことになった。

 ヴィルヘルムも同行するという。


「午後のお仕事はよろしいのですか。」


「少し調整しました。」


「夜に回していませんか。」


 つい聞いてしまう。

 彼は一瞬だけ視線を逸らした。


「少しだけ。」


「やっぱり。」


「本当に少しです。」


 その言い方が少し子どもっぽく聞こえて、私はまた笑いそうになった。


「では、無理はしないでください。」


「はい。」


「私が心配します。」


 言ってから、自分で驚いた。

 自然に出た。


 ――私が心配します。

 以前なら絶対に言わなかった。


 ヴィルヘルムも完全に動きを止めた。

 それから、ゆっくりこちらを見る。

 青い目が、驚いたように揺れている。


 私は一気に恥ずかしくなった。


「いえ、あの。倒れられても困りますし。」


「はい。」


「馬にも迷惑ですし。」


「はい。」


「公爵領館の方にも。」


「はい。」


「……私にも。」


 最後は、ほとんど消えそうな声だった。

 でも、言ってしまった。

 ヴィルヘルムは黙っていた。


 私は顔を上げられない。


 沈黙が長い。

 長すぎる。

 何か言ってほしい。

 いや、何も言わないでほしい。


 どちらなのか、自分でも分からない。


 やがて、彼が低く言った。


「気をつけます。」


 その声は、いつもよりずっと優しかった。

 私はますます顔を上げられなくなった。



 香草袋の包みは私が持った。


 ヴィルヘルムは何も言わなかった。

 ただ、森の道で少し道が悪い場所に来ると、自然に手を差し出した。


 以前なら、結構です、と言っただろう。

 今日は、少し迷った。


 そして、そっとその手を取った。


 手袋越しの手。

 しっかりしていて、温かい。


 ヴィルヘルムの指が、ほんの少しだけ強くなった気がした。

 けれどすぐに、慎重な力に戻る。


 私は足元を見るふりをした。


 心臓がうるさい。


 手を借りただけ。

 道が悪かっただけ。

 それだけ。


 それだけなのに、どうしてこんなに苦しいほど嬉しいのだろう。


 ほんの数歩で平らな道に出た。


 手を離さなければならない。

 私はそう思った。


 思ったのに、手が少し遅れた。

 ヴィルヘルムも、すぐには離さなかった。


 一瞬。

 本当に一瞬だけ。


 手袋越しの指が触れ合ったままだった。


 それから、どちらからともなく離れる。


 何も言わない。

 けれど、何もなかったわけではない。


 私たちは少しだけ無言で歩いた。

 森の道に、二人分の足音が続く。


 蹄の音ではない。

 歩く音。

 並んで帰る音。


 それが、こんなに穏やかで、こんなに落ち着かないものだとは知らなかった。



 町へ着くと、ローレンスの店はいつものように人の出入りがあった。


 香草袋を見せると、ローレンスはすぐに棚へ並べた。


「いいね。薄緑と灰色で分けたのか。」


「はい。用途別にしました。」


「殿下さんの案だよね?」


「……はい。」


 私は正直に答えた。

 ローレンスの目が楽しそうに細まる。


「へえ。共同制作だね。」


「違います。」


 否定したものの、以前ほど強くは言えなかった。

 ヴィルヘルムは横で真面目に言った。


「レベッカ嬢の仕事です。私は少し意見を述べただけです。」


 レベッカ嬢の仕事。

 その言葉を聞くと、やはり胸が温かくなる。


 ローレンスも少しだけ表情を和らげた。


「そうだね。これはレベッカの仕事だ。」


 そこへ、薬草売りのエダがやって来た。


「できたの?」


「はい。試作品ですが。」


 私は一つ手渡した。

 エダは香草袋を手に取り、香りを確かめる。


「いいわね。強すぎない。」


「香草の量は少なめにしました。」


「棚に入れるなら、このくらいがいいわ。鈴も小さいから邪魔にならない。」


 エダは薄緑と灰色を見比べた。


「私は灰色を一ついただくわ。」


「ありがとうございます。」


 試作品が売れた。

 すぐに。


 私は驚いて、少し遅れて礼を言った。

 エダは笑った。


「こういうものは、使ってみないと分からないからね。良かったら薬草棚用に追加で頼むわ。」


「はい。」


 ヴィルヘルムが隣で静かに見ていた。


 私は硬貨を受け取り、小銭袋へ入れる。

 軽い金属の触れ合う音。

 この音にも、少し慣れてきた。


 でも、やはり嬉しい。


 ローレンスが言った。


「ほら、共同制作、早速売れた。」


「違います。」


「違います。」


 今度はヴィルヘルムと声が重なった。


 私は思わず彼を見る。

 ヴィルヘルムも私を見ていた。


 一拍遅れて、ローレンスが笑い出した。


「息ぴったりじゃないか。」


「違います。」


「違います。」


 また重なった。


 今度こそ、私は何も言えなくなった。

 ヴィルヘルムも視線を逸らした。

 その耳が、ほんの少し赤く見えた。


 見間違いだろうか。

 いいえ、たぶん違う。


 私はそれに気づいてしまい、胸の奥で何かが跳ねた。


 ――可愛い。


 また思った。

 ……もうだめだ。


 私はローレンスの店の棚を見つめ、必死に平静を装った。



 帰り道、香草袋の包みは少し軽くなっていた。

 灰色が一つ売れたからだ。


「売れました。」


 私はつい言った。


「はい。」


 ヴィルヘルムが答える。


「早かったです。」


「良い品でしたので。」


「……ありがとうございます。」


「こちらこそ。」


「またあなたがお礼を言うのですね。」


「あなたの仕事を見られたので。」


 いつもより少し柔らかい声。

 ……どう返せばいいのか分からなくなる。


 私は森の道を見ながら、小さく言った。


「今日は、誘ってよかったです。」


 言ってから、足が止まりそうになった。


 誘って。

 昼食に。

 味見という理由ではなく。


 ――誘ってよかった。

 言ってしまった。


 ヴィルヘルムも少しだけ足を緩めた。


「私も、誘っていただけてよかった。」


 静かな声。

 あまりに静かで、胸の奥まで届いてしまう。


 私は顔を上げられなかった。


「味見は、言い訳でした。」


 そう言ってみる。

 すると、ヴィルヘルムは少しだけ黙った。


「分かっていました。」


「え?」


 思わず顔を上げる。

 彼は前を向いたままだった。

 でも、頬が少し赤い。


「分かっていたのですか?」


「途中から。」


「途中から……」


「最初は、本当に香草の確認だと思いました。」


「……。」


「ですが。」


「ですが?」


「……嬉しかったので。」


 今度こそ、私の足が止まった。

 ヴィルヘルムも止まる。


 森の道に、静けさが落ちる。

 彼は少しだけ視線を下げた。


「……気づかないふりをしました。」


 それは、ずるい。

 とてもずるい。


 私は何も言えなくなった。


 王子らしくない。

 冷静でもない。


 どこか不器用で、少し照れていて、十八歳の青年らしい告白にも似た言葉。


 それを聞いて、胸が苦しいほど甘くなった。


「……そういうことを言われると、困ります。」


 私はようやく言った。

 ヴィルヘルムがこちらを見る。


「困る?」


「……嬉しくなってしまうので。」


 言ってしまった。


 今日の私は、一体どうしてしまったのだろう。

 でも、もう言ってしまった。


 ヴィルヘルムは完全に黙った。

 青い目が揺れる。


 そして、ほんの少しだけ目を逸らした。


「それは。」


「はい。」


「……私も困ります。」


「なぜですか?」


「……嬉しいので。」


 もう無理だった。


 私は顔を両手で覆いたくなった。


 でも包みを持っているからできない。

 だから代わりに、少し早足で歩き出した。


「帰りましょう。」


「……はい。」


 彼も歩き出す。

 少し遅れて、隣に並ぶ。


 森の道に、二人分の足音が続く。

 ……私の心臓の音の方が、よほど大きかった。


 森の家へ戻ると、ヴァルドが待っていた。

 ヴィルヘルムが首を撫でると、ヴァルドは小さく鼻を鳴らした。


「今日も良い子で待っていましたね。」


 私が言うと、ヴィルヘルムは満足そうに頷いた。


「はい。」


「今日は馬への賛辞を控えめにします。」


「なぜですか?」


「私が少し嫉妬しそうなので。」


 言ってしまった。


 冗談のつもりだった。

 軽く言ったつもりだった。


 けれど、ヴィルヘルムが完全に固まった。

 私も固まった。


 沈黙。

 鳥除けの鈴が鳴る。


 顔が、一気に熱くなる。


「い、今のは冗談です。」


「……は、い。」


「本当に。」


「はい。」


「忘れてください。」


「……難しいです。」


「努力してください。」


「……努力します。」


 彼があまりにも真面目に答えるので、私は顔を覆いたくなった。


 どうしてこんなことを言ったのか。

 でも、言ってしまったものは戻らない。


 ヴィルヘルムは少しだけ視線を落とした。

 そして、驚くほど小さな声で言った。


「忘れるには、少し惜しいので。」


 私は息を止めた。

 何も言えなかった。


 ヴィルヘルムもそれ以上は言わなかった。

 ただ、ヴァルドの手綱を取り、いつものように深く頭を下げた。


「明日も、伺います。」


「……はい。」


「香草袋の売れ行きを聞かせてください。」


「はい。」


 もう、軽口も出てこない。

 ……胸がいっぱいだった。


「では、明日。」


 私は言った。


「はい。また明日。」


 ヴィルヘルムはヴァルドに乗り、森の道へ戻っていった。


 薄緑の鈴が揺れる。

 音が遠ざかる。


 私は玄関先に立ったまま、しばらく動けなかった。


 ――嫉妬しそう。

 ――忘れるには、少し惜しい。

 ――嬉しかったので。

 ――私も困ります。


 思い出すだけで、顔が熱い。


 私は両手で頬を押さえた。


「……何をしているの、私は。」


 でも、嫌ではなかった。


 恥ずかしい。

 とても恥ずかしい。


 けれど、幸せだった。


 台所へ戻ると、机の上には二つの器が置かれている。


 ふたり分の昼食。

 香草のスープ。

 空になった器。


 私はそれを見て、小さく笑った。


「……また、作りましょう。」


 誰に言うでもなく呟く。

 でも、たぶん、明日来る人のために。


 外では、森の家の鈴が小さく鳴っていた。


 その音が、今日はふたり分の昼食の余韻のように聞こえた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ