第四十九話 森の家の鈴
翌日、私はまた早く目を覚ました。
昨日も早かった。
……つまり、二日続けて早い。
そして今日も、別に早く起きなければならない理由はない。
ないはずだ。
けれど、目が覚めてしまったのだから仕方がない。
私は寝台の上でしばらく天井を見つめた。
昨日のことを思い出す。
畑を見てもらったこと。
香草の芽を褒められたこと。
ローレンスの店の棚を見てもらったこと。
ヴィルヘルムが薄緑の鈴をもう一つ買ったこと。
――購入者、ヴィルヘルム。
帳面にそう書いたことを思い出した瞬間、私は布団を顔の下まで引き上げた。
「……ただの帳面よ。」
誰に言い訳しているのか分からない。
でも、言わずにはいられなかった。
帳面の中くらい、殿下ではなく名前で書いてもいい。
そう思った。
思ったのに、朝になると妙に恥ずかしい。
私は布団の中で目を閉じた。
――ヴィルヘルム。
声には出さない。
心の中で呼ぶ。
それだけで胸がきゅっとなる。
本人の前で呼ぶことなど、到底できる気がしない。
まだ、殿下で精いっぱいだ。
けれど、帳面には書いてしまった。
ヴィルヘルム。
その文字を思い出すだけで、頬が熱い。
「……起きましょう。」
このままでは、布団の中で永遠に悶々としてしまう。
私は勢いよく起き上がった。
顔を洗う。火を起こす。湯を沸かす。畑を見る。
昨日と同じようで、少し違う朝。
……なぜなら今日も、ヴィルヘルムが来る。
明日も来ます、と言った。
構想も確認します、と言った。
確認が多いと思う。
けれど、三か月分ですので、と言われると、何も言い返せなかった。
ずるい。
本当にずるい。
私は台所の机に、香草袋の試作を並べた。
まだ完成していない。
小さな布袋に、乾かした香草を入れる予定だ。
虫除けや衣類の香りづけに使えるかもしれない。
エダに相談したら、まずは少量で試してみるといいと言われた。
布は生成り。
口の部分に紐を通す。
そこに小さな鈴を一つ。
強く鳴りすぎない、控えめな音のものをつける。
香り袋なのに鈴をつけるのはやはり変だろうか。
でも、森の家の鈴として作るなら、鈴があってもいい気がする。
私は試作の袋を一つ手に取り、口元を結んでみた。
ちりん。
小さく鳴る。
悪くない。
ただ、紐の色をどうするか迷っていた。
白では少し寂しい。
薄緑は可愛いが、薬草袋と似てしまう。
青は落ち着く。
灰色は大人っぽい。
くすんだ赤は少し華やか。
「……聞いてみればいいのかしら。」
言ってから、はっとした。
誰に。
――もちろん、ヴィルヘルムに。
意見を聞く。
確認してもらう。
そう思っただけで、少し楽しくなっている自分に気づいた。
以前なら、彼に見られるのは嫌だった。
口を出されるのも嫌だった。
なぜあなたに言われなければならないのですか、と思っていた。
今は、聞いてみたい。
この色はどう思いますか。
この音はどうですか。
香りは強すぎませんか。
そう聞くところを想像して、私は机に両手をついた。
「……かなり重症ね。」
先日も同じことを言った気がする。
……重症化がますます進んでいる。
昼前、マーサが来た。
昨日ほどではないが、やはり楽しそうな顔をしている。
「今日は何をしてるんだい。」
「香草袋の試作です。」
「へえ。いいじゃないか。」
マーサは机の上の小袋を一つ手に取った。
軽く鳴らす。
ちりん。
「音は控えめだね。」
「衣類や棚に入れるものなので、うるさすぎない方がよいかと。」
「いい考えだ。」
「紐の色で迷っています。」
「殿下さんに聞くんだろ。」
私は布を落としそうになった。
「なぜそうなるのですか。」
「顔がそう言ってる。」
「もう顔の話は禁止にしたいです。」
「無理だね。分かりやすいもの。」
マーサは紐を見比べた。
「私なら薄緑か灰色だね。」
「薄緑は、薬草袋と似ませんか。」
「似てもいいんじゃないかい。森の家の鈴っていうなら、薄緑は合う。」
「そうでしょうか。」
「まあ、最後は殿下さんに聞きな。」
「ですから。」
「来るんだろ、今日も。」
「……はい。」
素直に答えてしまった。
マーサはにやりと笑う。
「いい返事だ。」
「皆さん、そればかり。」
「最近のあんたは、いい返事をすることが増えたからね。」
私は少し黙った。
たしかに、そうかもしれない。
以前は否定ばかりしていた。
違います。
結構です。
必要ありません。
大丈夫です。
来なくていいです。
言葉で自分を守っていた。
今は、少しだけ受け取れるようになった。
はい。
見てください。
聞いてください。
来てください。
自分で言って、時々驚く。
私は変わった。
そしてその変化が、今は嫌ではなかった。
午後になる前に、蹄の音が聞こえた。
私は手に持っていた紐を置き、玄関へ向かった。
慌ててはいない。
たぶん。
急いでいるわけでもない。
ただ、玄関が呼んでいる気がしただけだ。
扉を開けると、森の道からヴィルヘルムがやって来るところだった。
今日はノクスだ。
額に細い白い星のある黒馬。
手綱袋には、昨日までの薄緑の鈴飾りが揺れている。
そして、ヴィルヘルムの外套の胸元近くに、昨日買った新しい薄緑の鈴が結ばれていた。
私は思わずそこを見てしまった。
ヴィルヘルムは馬を止め、静かに降りる。
「こんにちは。」
「こんにちは。」
挨拶を返しながら、視線がどうしても胸元の鈴へ行く。
ヴィルヘルムはそれに気づいた。
「部屋に、と言いましたが。」
「はい。」
「一度、持ってきました。」
「なぜですか。」
「見せた方がよいかと思いました。」
「……そうですか。」
胸が変な音を立てた。
彼は、私が作った鈴を身につけてきた。
ただ、それだけ。
それだけのことなのに。
「よく似合っています。」
言ってしまってから、私は固まった。
何を言っているのだ。
鈴が似合うとは何なのか。
私は慌てて言葉を足した。
「いえ、色が。濃紺の服に、薄緑が合っているという意味です。」
「ありがとうございます。」
ヴィルヘルムは真面目に答えた。
「私も、気に入っています。」
それは反則だ。
私は視線を逸らした。
「今日は、香草袋の試作を見ていただく予定です。」
「はい。」
「確認です。」
「はい。」
「便利な言葉ですね。」
「あなたが使うと、少し安心します。」
「どういう意味ですか。」
「……また、戻ってきた感じがします。」
昨日も似たようなことを言っていた。
私は何も返せなくなった。
ノクスを庭の脇に休ませ、水桶を用意する。
ヴィルヘルムは慣れた様子で手綱を結び、ノクスの首を撫でた。
――馬は大事。
昨日から何度も聞いた言葉を思い出し、私は少し笑った。
台所の入口までヴィルヘルムを案内する。
家の中へ完全に入るわけではない。
けれど、以前より少し近い。
玄関先と台所の境。
それが、今の私たちの距離だった。
机の上には、香草袋の試作が並んでいる。
ヴィルヘルムはそれを見て、少しだけ目を細めた。
「小さいですね。」
「香り袋ですから。」
「中に香草を?」
「はい。乾かしたものを入れます。衣類や棚に入れたり、虫除けにしたりできるそうです。」
「実用的です。」
「その言葉は、褒めていますね。」
「はい。」
「最近は分かるようになってきました。」
「それは、よかった。」
私は試作を一つ手に取った。
「迷っているのは、紐の色です。」
白、薄緑、青、灰色、くすんだ赤。
机の上に並べる。
「マーサさんは薄緑か灰色と言っていました。」
「マーサ殿の意見は的確です。」
「そこまで信頼しているのですか。」
「はい。」
「私もそう思います。」
言ってから、二人で少しだけ黙った。
同じ人を同じように信頼している。
それが、妙に嬉しかった。
ヴィルヘルムは一つずつ紐を見た。
そして、薄緑と灰色を指した。
「薄緑は、森の家の鈴らしい印象になります。灰色は、香草袋として落ち着きます。」
「では、どちらがよいでしょう。」
「用途を分けては。」
「用途?」
「贈り物や窓辺に置くものは薄緑。棚や衣類に入れるものは灰色。」
私は目を瞬いた。
「なるほど。」
「選べると、買う方も用途を考えやすいかと。」
「商人のようですね。」
「ローレンス殿ほどではありません。」
「ローレンスさんなら、札を二つ作りますね。」
「用途別に。」
「はい。」
私は思わず笑った。
ヴィルヘルムも、ほんの少し目元を和らげる。
その表情を見ると、胸が温かくなる。
私は机の上の札用の紙を取った。
「贈り物・窓辺用。」
書いてみる。
字が少し細い。
ローレンスの太い商売の字とは違う。
「棚・衣類用。」
もう一枚書く。
ヴィルヘルムが横から見ていた。
「分かりやすいです。」
「私の字でも?」
「はい。」
「ローレンスさんの字の方が商売向きです。」
「あなたの字は、丁寧です。」
「それは褒めていますか。」
「褒めています。」
まただ。
また素直に受け取りそうになる。
私は顔が熱くなるのをごまかすために、香草袋を鳴らした。
ちりん。
小さな音。
「音は、もう少し控えめな方がいいでしょうか。」
「いいえ。このくらいがよいと思います。」
「なぜですか。」
「探しものをする時に、聞こえる方が便利です。」
「実用的、ですね。」
「はい。」
「……あなたのことは褒めていません。」
「承知しています。」
そんなやり取りをしていると、玄関の外から声がした。
「レベッカ、いるかい。」
ローレンスだった。
私は顔を上げる。
「はい。」
ローレンスは店の小さな包みを抱えて、玄関先から中を覗いた。
そして、台所の入口に立つヴィルヘルムを見て、片眉を上げた。
「おや。これは邪魔したかな。」
「していません。」
私は即答した。
少し早すぎたかもしれない。
ローレンスは楽しそうに笑う。
「そうかい。ならいい。」
「何かご用ですか。」
「乾物屋の奥さんから、茶布の追加注文。あと、古道具屋の爺さんから、灰色の味のある音を二つ。」
「また灰色ですか。」
「気に入ってるんだろうね。あと、香草袋の話をエダから聞いた人がいる。試作品ができたら見たいそうだ。」
「本当ですか。」
「ああ。だから、少し早めに持ってこられるか聞きに来た。」
私は机の上の試作品を見た。
まだ完成ではない。
でも、今日ヴィルヘルムと話して、方向は決まった。
薄緑と灰色。
用途別。
札も作る。
「三日後なら、試作品をいくつか持っていけると思います。」
「無理は?」
「しません。」
答えると、ローレンスが少し驚いたように目を細めた。
「いい返事だね。」
「……最近よく言われます。」
「そうだろうね。」
ローレンスの視線が、ちらりとヴィルヘルムへ向いた。
「殿下さんの確認も済んだのかい。」
「はい。」
ヴィルヘルムが真面目に答える。
「用途別にする案を出しました。」
「ほう。なかなか商売が分かってきたじゃないか。」
「レベッカ嬢の仕事ですので。」
何気ない言葉だったのだと思う。
けれど、私は胸を突かれたように感じた。
レベッカ嬢の仕事。
私の仕事。
その言葉を、彼が自然に言った。
誰かの慈善でも、監視対象への手慰みでもない。
私の仕事として。
ローレンスも少しだけ表情を和らげた。
「そうだね。これはレベッカの仕事だ。」
二人にそう言われ、私は何も言えなくなった。
ローレンスはそれ以上からかわず、注文の控えを置いて帰っていった。
彼が去ったあと、台所には小さな静けさが残った。
机の上には、香草袋。
札。
紐。
小さな鈴。
ヴィルヘルムはその一つを手に取り、静かに鳴らした。
ちりん。
「良い音です。」
「ありがとうございます。」
「町で、また評判になります。」
「そうでしょうか。」
「はい。」
「ずいぶん断言しますね。」
「良いものなので。」
私は手元の布を見つめた。
こんなふうに褒められることに、まだ慣れていない。
でも、逃げたくはなかった。
「……嬉しいです。」
小さく言った。
ヴィルヘルムがこちらを見る。
「褒められるのは、まだ少し慣れません。でも、嬉しいです。」
言ってしまってから、また頬が熱くなった。
けれど、これは言ってよかった気がした。
ヴィルヘルムは、少しだけ目を伏せた。
「もっと慣れてください。」
「命令ですか。」
「願望です。」
「願望。」
「はい。」
会話がしづらい。
そう言おうとして、やめた。
今日は、それを言うには胸が温かすぎた。
午後、ヴィルヘルムは一度公爵領館へ戻ると言った。
用事があるらしい。
「今日はもう戻れないかもしれません。」
「そうですか。」
少し残念に思った。
思った瞬間、自分で分かってしまった。
――残念なのだ。
午前中会えただけでは、足りないと思っている。
……重症どころではない。
「では、明日ですね。」
私は何とか普通の声で言った。
ヴィルヘルムは玄関先で少しだけ止まった。
「明日も、伺います。」
「はい。」
「香草袋の試作を、もう一度。」
「三日後にはローレンスさんの店へ持っていく予定です。」
「では、その前に確認を。」
「確認が多いです。」
「はい。」
「……認めましたね。」
「三か月分ですので。」
また言われた。
私は笑ってしまった。
「便利な言葉になっています。」
「使いすぎには注意します。」
「ぜひそうしてください。」
ヴィルヘルムはノクスの手綱を取った。
胸元の薄緑の鈴が小さく揺れる。
昨日買った鈴。
私の作った鈴。
「それ、本当に部屋につけるのではなかったのですか。」
私が聞くと、彼は少しだけ鈴に触れた。
「今日は、持っていたかったので。」
息が止まった。
どうしてこの人は、時々そういうことを言うのだろう。
私は何も返せなかった。
ヴィルヘルムは静かに頭を下げた。
「また明日。」
「……はい。また明日。」
――また明日。
その言葉を言えることが、こんなにも嬉しい。
私は玄関先で、彼が森の道へ消えるまで見送った。
薄緑の鈴が、馬の歩みに合わせて小さく鳴る。
ちりん。
遠ざかる音。
でも、寂しくない。
明日また聞ける音。
私は台所へ戻り、机の上の香草袋を見た。
薄緑と灰色。
用途別。
ヴィルヘルムがくれた案。
私は帳面の横に、小さく書き足した。
贈り物・窓辺用。
棚・衣類用。
その下に、今日の覚え書きを書く。
ヴィルヘルム確認済み。
書いてから、固まった。
殿下ではなく、また名前で書いている。
昨日に続いて、二度目。
……もう、完全にわざとだ。
私はしばらくその文字を見つめた。
――ヴィルヘルム。
帳面の中の名前。
心の中の名前。
いつか、声に出して呼ぶ日が来るのだろうか。
そう考えた瞬間、胸が苦しいほど熱くなった。
「……まだ無理。」
小さく呟く。
でも、いつか。
いつか、呼べたら。
私はそう思って、帳面をそっと閉じた。
外では鳥除けの鈴が鳴っている。
森の家の鈴。
町へ広がっていく鈴。
彼の胸元で揺れていた鈴。
今日は、その全部が少しだけ甘く聞こえた。




