第四十八話 森の家の案内
翌朝、私はいつもより早く目を覚ました。
窓の外は、まだ少し薄暗い。
森の向こうから朝の光がゆっくり滲み、庭の鳥除けの鈴が小さく揺れている。
いつもの音。
けれど、今日は昨日までと違って聞こえた。
昨日、ヴィルヘルムが戻ってきた。
三か月ぶりに。
約束通りに。
王都から。
私は布団の中で目を開けたまま、しばらく天井を見つめていた。
……夢ではない。
昨日、確かに彼は玄関先に立っていた。
ノクスの手綱袋には、少し色褪せた薄緑の鈴飾りが揺れていた。
私は、お帰りなさいませ、と言った。
彼は、戻りました、と答えた。
その声を思い出しただけで、胸の奥がじんと熱くなる。
私は布団を少し引き上げた。
「……落ち着きなさい。」
深呼吸しながら自分に言う。
今日は、約束の日だ。
昨日、私はヴィルヘルムに言った。
明日、町へご案内します、と。
ローレンスの店の棚。
畑の香草。
根菜の芽。
森の家の鈴。
見せたいものがたくさんある。
それだけだ。
それだけのはずだ。
なのに、胸が落ち着かない。
――好きだと認めた相手を、自分の暮らしへ案内する。
そう考えた瞬間、布団の中でじっとしていられなくなった。
私はゆっくりと起き上がり、寝台の端に座った。
「今日は、普通にすればいいのよ。」
……普通に。
畑を見せる。
町へ行く。
ローレンスの店へ寄る。
棚を見る。
戻ってくる。
それだけ。
けれど、その普通がどうしてこんなに難しいのか。
私は深く息を吐き、顔を洗った。
火を起こし、湯を沸かす。
朝食は、昨日より少し多めに食べた。
途中で胃が緊張して止まりそうになったが、ここで食べなければ、絶対にマーサに怒られる。
ヴィルヘルムにも確認される。
――食事は。
そう言われるのが、もう目に見えている。
私はパンをもう一口かじった。
「……食べています。」
まだ来ていない相手に向かって、つい返事をしてしまった。
……自分で自分が少し嫌になった。
朝食を終えると、私は畑へ出た。
香草の芽の周りの草を抜く。
根菜の畝を見る。
昨日よりほんの少し、芽がしっかりした気がする。
気のせいかもしれない。
でも、そう見える。
「今日は、見てもらうのだから。」
香草の葉に触れると、ほのかに香りが立った。
まだ弱い。
でも、確かに香る。
私は少し笑った。
「あなたも、ちゃんとしていてね。」
香草に言う。
返事はない。
当たり前だ。
けれど、葉が少し揺れた。
その時、背後から声がした。
「香草に指示をしてるのかい?」
私は思わず振り返った。
庭の柵の外に、マーサが立っていた。
籠を抱え、実に楽しそうな顔をしている。
「おはようございます。」
「おはよう。今日はずいぶん早いね。」
「いつも通りです。」
「いつもより畑の前で話しかけてる。」
「植物にも声をかけると育ちが良いと聞きました。」
「誰に?」
「……聞いた気がするだけです。」
マーサは笑った。
「今日は殿下さんを案内するんだろ。」
「はい。」
「顔がすごいね。」
「すごいとは何ですか。」
「嬉しくて困ってる顔。」
私は香草の前で固まった。
「……そんな顔はしていません。」
「してるよ。」
「していません。」
「じゃあ、そういうことにしておこうか。」
まったく信じていない。
マーサは籠の中から小さな包みを取り出した。
「これ、持って行きな。」
「何ですか。」
「干し果物。町へ行くなら途中で食べな。浮かれて昼を抜きそうだからね。」
「抜きません。」
「抜くだろう。」
「……ありがとうございます。」
受け取るしかなかった。
マーサは畑を見回した。
「根菜も出てきたね。」
「はい。まだ小さいですが。」
「見せるにはちょうどいい。育ってる途中のものは、いいものだよ。」
「完成していなくても、ですか。」
「完成したものだけ見せるより、今育ってるものを見せる方がいいこともある。」
私は畝の小さな芽を見た。
まだ頼りない。
でも、確かに育っている。
私の暮らしも、そうなのかもしれない。
まだ完成などしていない。
不安もある。
できないこともある。
でも、育っている途中だ。
そして今日は、その途中を見てもらう。
そう思うと、胸がまた温かくなった。
午前の半ば頃、蹄の音が聞こえた。
昨日と同じように、森の道から近づいてくる音。
けれど今日は、驚かなかった。
心臓は大きく跳ねた。
でも、怖くはなかった。
私は玄関先に立った。
――待っている。
そう自覚して、少し頬が熱くなる。
やがて、黒馬が見えた。
今日はノクスではなく、額に丸い白斑のある黒馬だった。
ヴィルヘルムは家の前で馬を止め、静かに降りた。
昨日より少しだけ旅の疲れが薄れている。
彼はまっすぐこちらを見た。
「おはようございます。」
「おはようございます。」
挨拶だけなのに、胸が鳴る。
私は慌てて視線を馬へ移した。
「今日は、ノクスではないのですね。」
「はい。昨日はノクスに長く走らせましたので、今日はアルクです。」
「アルク。」
「はい。」
馬は静かに鼻を鳴らした。
「黒馬が数頭いるのですよね。」
「はい。日によって替えています。」
「馬が可哀想だと言われたから?」
以前マーサが言ったことを思い出して、つい言ってしまった。
ヴィルヘルムは真面目に頷いた。
「それもあります。」
「そこは真面目なのですね。」
「馬は大事です。」
「マーサさんと同じことを言いますね。」
「正しい意見です。」
思わず笑ってしまった。
ヴィルヘルムの目元がほんの少し和らぐ。
それだけで、また胸が騒いだ。
いけない。
今日は案内の日だ。
……落ち着かなければ。
「では、まず畑をご覧になりますか。」
私が言うと、ヴィルヘルムは一瞬だけ黙った。
「よろしいのですか。」
「昨日、お見せすると言いました。」
「はい。」
「ですから、見てください。」
言ってから、少し強かったかもしれないと思った。
けれど、ヴィルヘルムは静かに頷いた。
「見ます。」
その声が、昨日と同じくらいまっすぐだった。
ヴィルヘルムはアルクを庭の脇へ移し、水桶の近くにつないだ。
黒馬は水を飲み、満足そうに鼻を鳴らした。
「帰るまで、ここで休ませます。」
「往復四時間ですもんね。」
「はい。」
「馬は大事ですから。」
「はい。」
あまりにも真面目に返されて、また笑いそうになった。
私はそれをごまかすように、畑へ向かった。
以前なら、彼が後ろについてくるだけで身構えていた。
監視されているようで、何を見られているのか分からなくて、落ち着かなかった。
今も少し緊張する。
でも、嫌ではない。
むしろ、見てほしい。
この気持ちは、やはりかなり危うい。
「こちらが、最初の葉物を収穫した畝です。」
私は畑の前でしゃがんだ。
「もう根元近くまで取りました。最後は少し硬くなりましたが、スープに入れれば食べられました。」
「無駄なく使われたのですね。」
「はい。マーサさんに教わりました。」
「良い判断です。」
「判断というより、食べ物を無駄にしたくなかっただけです。」
「それも判断です。」
相変わらず、少し真面目すぎる。
でも、その真面目さが懐かしい。
「そして、こちらが次の種です。小さな根菜だそうです。まだ芽が出たばかりです。」
私は畝を指した。
小さな芽。
土の間から、頼りなく顔を出している。
ヴィルヘルムは膝をついた。
今日は動きやすい濃紺の服を着ている。
それでも、地面に膝をつけば汚れる。
彼は気にしなかった。
指先で土に触れ、芽をじっと見る。
「間隔が綺麗です。」
「マーサさんに紐を張ってもらいました。」
「水は。」
「やりすぎないようにしています。昨日は土の表面が乾いていましたが、中は少し湿っていたので控えました。」
言ってから、自分で少し驚いた。
こんな説明ができるようになっている。
三か月前の私は、土の表面と中の湿り具合など分からなかった。
ヴィルヘルムがこちらを見た。
「よく見ていますね。」
「……はい。」
褒められた。
ただそれだけで、胸が温かくなる。
私は慌てて香草の畝へ視線を移した。
「こちらが香草です。料理にも使えて、虫除けにもなるそうです。乾かせば香り袋にもできるとエダさんが。」
私は葉にそっと触れた。
「まだ弱いですが、香ります。」
ヴィルヘルムは少し身を寄せた。
近い。
以前より、少し近い。
いや、香りを確かめるためだ。
それだけだ。
彼は葉に触れず、私の指先の近くで香りを確かめた。
「青い香りです。」
「はい。スープに少し入れると、味が明るくなります。」
「明るく。」
「……変な表現でしょうか。」
「いいえ。」
ヴィルヘルムは顔を上げた。
「あなたの料理の言葉は、以前より増えました。」
「そうでしょうか。」
「はい。」
「褒めていますか。」
「褒めています。」
「それならよいです。」
自分で言ってから、少し笑ってしまう。
以前なら、褒められても否定した。
そんなことはありません、と言った。
今は、少しだけ受け取れる。
それは、私が変わったからなのだろうか。
それとも、この人の言葉を受け取りたいと思っているからだろうか。
ヴィルヘルムは畑全体を静かに見た。
柵。
鳥除け。
支柱。
畝。
香草。
小さな芽。
そして、家。
「ここは、もうあなたの場所なのですね。」
彼が低く言った。
私は顔を上げる。
「そう見えますか。」
「はい。」
その返事が、あまりに静かで、胸の奥にまっすぐ落ちた。
ここは、もう私の場所。
最初は、ただ生きるための場所だった。
でも今は違う。
ここには、私の朝がある。
私の畑がある。
私の仕事がある。
町へ続く道がある。
――そして今日、見てほしかった人がここにいる。
「……はい。」
私は小さく頷いた。
「少しずつですが、そうなりました。」
言ってから、胸が温かくなった。
ヴィルヘルムは何も急かさず、ただ静かに頷いた。
「良い場所です。」
それだけで、私は泣きそうになるほど嬉しかった。
その後、私たちは町へ向かった。
アルクは森の家の庭脇に残した。
水桶のそばで静かに草を食んでいる。
「置いていって大丈夫ですか。」
「はい。慣れています。」
「賢い馬ですね。」
「はい。」
「また馬を褒めています。」
「馬は大事です。」
「本日二度目です。」
「何度でも言えます。」
私は思わず笑ってしまった。
ヴィルヘルムと並んで森の道を歩く。
正確には、私は少し前を歩き、彼が斜め後ろを歩く。
それでも、以前より近い。
森の道を二人で歩くのは、久しぶりだった。
三か月前、彼はこの道を毎日往復していた。
片道二時間。
往復四時間。
……今考えても、やはりおかしい。
でも、そのおかしさが、今は少しだけ嬉しい。
この人は、来てくれていたのだ。
何度も。
何度も。
――そして今日も、戻ってきてくれた。
町の入口に近づくと、通りが少し賑やかになった。
ローレンスの店の前では、乾物屋の奥さんが荷を運んでいる。
古道具屋の老人が椅子に座り、杖を膝に置いている。
子どもたちが、店先の鈴を見ている。
ヴィルヘルムが来ると、何人かがちらりとこちらを見た。
そして、自然に会釈をした。
「殿下さん、戻ったのかい。」
古道具屋の老人が声をかけた。
私は少しひやりとした。
だが老人の調子は、いつも通りだった。
この町の人たちは、ヴィルヘルムが高貴な人だとは分かっている。
でも、本当に第三王子だとは思っていない。
殿下、という呼び方も、半ばあだ名のようなものになっている。
高貴で、無口で、馬に乗っていて、やたら丁寧な人。
町の人たちの認識は、おそらくその程度だ。
ヴィルヘルムは静かに頭を下げた。
「戻りました。」
「森の家の鈴、評判だよ。」
「聞いています。」
「聞いてるならいくつか買っていきな。あんた、布飾りを一つしか持ってないだろ。」
私は思わず老人を見た。
ヴィルヘルムも少しだけ目を瞬いた。
「一つでは足りませんか。」
「足りんね。音と色は、場所ごとに変えるもんだ。」
老人は得意げに言った。
「棚には灰色の鈍い音。部屋には茶色の軽い音。机には白の割れた音。人にはそれぞれ音がいる。」
独特だ。
でも、何となく説得力がある。
ヴィルヘルムは真面目に頷いた。
「検討します。」
「検討じゃなく買いな。」
老人は笑った。
私は少し恥ずかしくなりながら、ローレンスの店へ入った。
ローレンスは奥から出てきて、ヴィルヘルムを見るなり片眉を上げた。
「おや。殿下さん、本当に戻ったんだね。」
「はい。」
「三か月ぴったりとは律儀なことで。」
「約束しましたので。」
その言葉に、胸が小さく鳴った。
約束。
私との約束。
ローレンスはこちらをちらりと見た。
私は慌てて棚の方へ向かう。
「こちらです。」
窓辺の小さな木箱。
森の家の鈴。
茶葉包みの布。
鳴らして選べます。
札が並んでいる。
鈴飾りは、昨日補充したばかりだ。
薄緑。白。青。灰色。くすんだ赤。
茶布は三枚。
茶葉包み用の縦長のものも、試作品として一枚置いている。
私は棚の前で立ち止まり、少し緊張しながら言った。
「ここです。」
ヴィルヘルムは、しばらく何も言わなかった。
棚を見ている。
札を見ている。
鈴を見ている。
ローレンスの太い字も。
小さな値札も。
私の作ったものも。
その沈黙が長くて、私は少し不安になった。
「……あの。」
「はい。」
「何か変でしょうか。」
「いいえ。」
ヴィルヘルムは静かに言った。
「ここに、あなたの仕事があるのですね。」
胸がいっぱいになった。
「はい。」
「森の家の鈴。」
彼は札を読んだ。
「良い名前です。」
「ローレンスさんが勝手に。」
「勝手ではないよ。」
ローレンスが横から言った。
「町の人たちがそう呼び始めたんだ。森の家の鈴って。」
「町の人が。」
「そう。あんたが作ってるって分かるからね。」
私は何も言えなくなった。
ヴィルヘルムが、棚の前で膝を少し折った。
薄緑の鈴を一つ、手に取る。
鳴らす。
ちりん。
少し澄んだ音がした。
彼が持っている薄緑の布飾りと同じ色。
けれど、鈴が付いている。
それから、彼はもう一つその横にあった鈴も手に取った。
さきほどより少し高めの音が鳴った。
「音が違います。」
「はい。同じ薄緑でも、鈴ごとに少し違います。」
「こちらは、明るい音です。」
「そうですね。」
「買います。」
即答だった。
私は瞬きをした。
「布飾りは、もう持っているでしょう。」
「鈴が付いたものは持っていません。それに、一つでは足りないそうです。」
「古道具屋のおじいさんの言葉を採用したのですか。」
「説得力がありました。」
「本当に買うのですか。」
「はい。」
「では、正価で、一つだけです。」
「もちろんです。」
ヴィルヘルムは懐から硬貨を出した。
私は手を出しかけて、少しだけためらった。
彼から硬貨を受け取る。
以前は、彼から何かを受け取るたびに心が乱れた。
忍ばされた金貨。
買い戻された装飾具。
高級なものと分かる手袋。
高価なものと、自分の生活の差。
でも今は、少し違う。
これは私の仕事だ。
彼が正価で買う。
私は売る。
その関係は、少しだけ対等に近い。
私は硬貨を受け取った。
「ありがとうございます。」
「こちらこそ。」
「なぜあなたがお礼を言うのですか。」
「欲しいものを買えましたので。」
「……また会話がしづらいです。」
「戻ってきた感じがします。」
ローレンスが横で噴き出した。
「三か月で、ずいぶん空気が変わったね。」
私は固まった。
「空気?」
「いや、いいんだ。殿下さん、三か月でずいぶん遅れを取ったね。」
ヴィルヘルムがローレンスを見る。
「遅れ、ですか。」
「こっちの話だよ。」
「説明を。」
「しないよ。」
ローレンスは楽しそうだった。
私は顔が熱くなり、棚の鈴を整えるふりをした。
店の外から、子どもが声をかける。
「森の家の人、今日も鈴ある?」
「あります。」
私は反射的に答えた。
――森の家の人。
以前なら、少し戸惑ったかもしれない。
でも今は、その呼び方も悪くないと思える。
私は子どもに青い鈴を見せ、音を鳴らした。
その間、ヴィルヘルムは少し離れたところから見ていた。
子どもが帰った後、彼は静かに言った。
「町の人たちに、馴染んでいますね。」
「そうでしょうか。」
「はい。」
「最初は、どうしていいか分かりませんでした。」
「はい。」
「今も分からないことは多いです。でも、聞けば教えてくださる方がいます。間違えても、次はこうすればいいと言ってくれる方がいます。」
「はい。」
「私は、ここでたくさん失敗しました。でも、終わりにはなりませんでした。」
言葉にしながら、自分でも胸が少し熱くなった。
「それが、とても不思議です。」
ヴィルヘルムは、しばらく黙っていた。
そして、低く言った。
「終わりにならなくて、よかった。」
その声は静かだった。
けれど、とても深く聞こえた。
私は顔を上げた。
「……はい。」
うまく言葉が出てこなかった。
それでも、今はその一言だけで十分な気がした。
ヴィルヘルムは新しく買った薄緑の鈴を手の中で見た。
「この鈴も、大切にします。」
そう言われると、また胸がいっぱいになった。
店を出る頃、ローレンスが私に小さく言った。
「レベッカ。」
「はい。」
「良かったね。」
それだけだった。
私は一瞬、何を指しているのか分からないふりをしようとした。
けれど、できなかった。
「……はい。」
小さく答える。
ローレンスは少し笑った。
「いい返事だ。」
帰り道、私たちはまた並んで森の道を歩いた。
薄緑の鈴が二つになっている。
一つは王都まで旅をした布飾り。
もう一つは、彼の手の中にある新しい鈴飾り。
「どこにつけるのですか。」
「部屋に。」
「公爵領館の?」
「はい。」
「時々、鳴らしてください。」
「はい。」
「飾るだけでは、鈴が退屈します。」
「退屈。」
「マーサさんの言い方がうつりました。」
「良い影響です。」
「……またそれです。」
ふたりで森の道を歩く。
昨日まで蹄の音がしなかった道。
今日、帰ってきた人と歩く道。
胸がずっと温かかった。
森の家へ着くと、夕方の光が畑に落ちていた。
アルクは庭の脇で静かに待っていた。
ヴィルヘルムが近づくと、小さく鼻を鳴らす。
「良い子で待っていましたね。」
私が言うと、ヴィルヘルムは真面目に頷いた。
「はい。賢い馬です。」
「本日三度目の馬への賛辞です。」
「もっと言えます。」
「もう十分です。」
私は笑った。
ヴィルヘルムも、ほんの少しだけ目元を和らげた。
それから彼は、柵の外で立ち止まり、もう一度畑を見た。
「明日も来ます。」
彼が言った。
私は頷く。
「はい。」
「町の棚は確認しました。次は、香草袋の試作を。」
「まだ構想中です。」
「構想も確認します。」
「確認が多いです。」
「三か月分ですので。」
それは、ずるい言い方だった。
私は何も言えなくなった。
ヴィルヘルムは静かに頭を下げた。
「今日は、案内をありがとうございました。」
「こちらこそ、見てくださってありがとうございました。」
「見られてよかった。」
昨日と同じ言葉。
でも、今日は少し柔らかかった。
彼はアルクに乗り、森の道へ戻っていく。
手綱袋の薄緑が揺れる。
そして彼の手の中にも、もう一つの薄緑の鈴がある。
そう思うと、胸が少し弾んだ。
私は玄関先で見送った。
見えなくなるまで。
音が遠ざかるまで。
それでも、寂しさは昨日までとは違った。
明日も来る。
そう言ってくれた。
私はその言葉を信じている。
信じていいのだと思っている。
台所へ戻ると、器は一つだけだった。
今日はお茶を出していない。
でも、不思議と胸は温かかった。
私は机の上に帳面を開き、今日の売上を書いた。
薄緑の鈴飾り、一つ。
購入者、ヴィルヘルム。
書いてから、思わず手が止まった。
殿下ではなく。
ヴィルヘルム。
名前だけを書いてしまった。
慌てて消そうとして、やめた。
……帳面の中くらい、いいだろう。
私は小さく息を吐き、帳面を閉じた。
外では鳥除けの鈴が鳴っている。
森の家の鈴。
私の暮らしの音。
そこに、彼の持つ鈴の音が、また一つ増えた。
そのことが、どうしようもなく嬉しかった。




