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第四十七話 帰ってきた蹄の音

 朝から、私は少しおかしかった。


 自分でも分かっていた。


 火を起こす時、薪を一本多く入れすぎた。

 湯を沸かす時、いつもより早く鍋の蓋を開けた。

 畑を見る前に玄関を掃き、玄関を掃いた後でまた畑へ行き、畑から戻ってから、今度は台所の棚を拭いた。


 棚は昨日も拭いた。

 その前の日も拭いた。


 つまり、今日どうしても拭かなければならない理由はない。

 ……ないのに、拭いた。


 ついでに器も二つ出しかけて、慌てて一つ戻した。

 ……いや、慌てる必要はない。


 一つ戻しただけだ。

 ……ただ、それだけだ。


「……今日は掃除の日だから。」


 誰もいない台所で、私はごほんと一度咳払いしてそう言った。

 声に出すと、少しだけ正当な理由に聞こえる。


 今日は掃除の日。


 だから玄関を掃く。

 棚を拭く。

 器を確認する。

 香草の芽の周りの草を抜く。

 鳥除けの鈴の紐を結び直す。

 ローレンスの店へ持っていく鈴飾りを整える。


 そして、スープの味を少し念入りに見る。


 掃除の日だから。

 ……たぶん。


 私は鍋の中を覗いた。


 根菜と豆の薄いスープ。

 香草を少しだけ入れてみた。

 まだ小さな香草なので、香りは強くない。

 けれど、湯気の中にほんのり青い匂いが混じる。


 ……悪くない。


 ――ヴィルヘルムが戻ったら、食べてもらえるだろうか。


 そう思って、私は匙を持つ手を止めた。


 まただ。

 何をしても、戻ったら、につながる。


 畑を見れば、見せたい。

 鈴を縫えば、聞かせたい。

 スープを作れば、食べてもらいたい。

 玄関を掃けば、ここに立つ姿を想像してしまう。


 私は額に手を当てた。


「……かなり重症だわ。」


 昨日、認めてしまった。


 ――私はヴィルヘルムが好きなのだと。


 気づいてしまった。

 認めてしまった。


 そのせいか、今朝から世界の見え方が少し違う。

 庭の鈴の音まで、以前より近く聞こえる。

 森の道も、妙に明るく見える。


 困った。

 本当に困った。


 好きだと認めた途端、待つことが怖いだけではなくなってしまった。


 期待してしまう。


 今日かもしれない。

 明日かもしれない。

 いや、まだ先かもしれない。


 最低三か月と言っていた。

 三か月きっかりに戻るとは限らない。


 そう何度も自分に言い聞かせる。

 でも、胸の奥は聞き分けがない。


 ――もしかしたら今日。


 その言葉が、何度も浮かんでくる。



 昼前、マーサが来た。

 玄関を開けるなり、彼女は私の顔を見て、台所を見て、棚を見て、もう一度私を見た。


「ずいぶん綺麗だね。」


「今日は掃除の日なので。」


「そうかい。」


「はい。」


「掃除の日ねえ。」


「何ですか。」


「いや。殿下さんが帰ってくるかもしれない日、じゃなくて?」


 私は手に持っていた布巾を落としかけた。


「そ、そういうわけではありません。」


「声が裏返ってるよ。」


「裏返っていません。」


「裏返った。」


 マーサは笑いをこらえもしなかった。

 私は布巾を握りしめる。


「まだ戻るとは限りません。」


「そうだね。」


「最低三か月ですし。」


「そうだね。」


「王都のお仕事もあるでしょうし。」


「そうだね。」


「ですから、今日とは限りません。」


「そうだね。」


「その、そうだね、はやめてください。」


「だって、また自分に言い聞かせてるからね。」


 先日と同じことを言われた。

 私は何も返せなくなった。


 マーサは台所の椅子に腰を下ろし、机の上に並んだ鈴飾りを見た。


「これは納品用?」


「はい。ローレンスさんの店へ。午後に持っていく予定です。」


「今日も行くのかい。」


「ええ。棚の在庫が少し減っているそうなので。」


「ふうん。」


「何ですか。」


「いや、店に行けば、森の道の途中まで出られるからねえ。」


「……違います。」


「何も言ってないよ。」


「言ったも同然です。」


 マーサは楽しそうだった。

 私はまったく楽しくない。


 好きだと認めた翌日に、これほど顔に出るものだろうか。

 ……出ているのだろう。


 マーサがあまりにもすぐ見抜くのだから。


 私は話題を変えるように、畑の話をした。


 根菜の芽がようやく出始めたこと。

 香草が少し香るようになったこと。

 次の市に向けて、香草袋も作れないか考えていること。


 マーサはきちんと聞いてくれた。

 聞きながら、時々にやりと笑った。


 たぶん私が何を話しても、今日はだめなのだ。

 全部、ヴィルヘルムへつながって見えるに違いない。



 昼食のあと、私は籠を持って町へ降りた。


 森の道は、初秋のやわらかい光に包まれている。

 葉の色は大分濃くなり、足元の草も少し伸びている。


 三か月前、この道はもっと知らない場所だった。


 今は違う。


 どの石が少しぐらつくか。

 どの枝が風で音を立てるか。

 どのあたりで鳥の声が聞こえるか。


 少しずつ分かっている。


 私はこの道を、何度も歩いた。

 一人で。

 マーサと。

 町へ向かって。

 森の家へ帰って。


 そして、夕方には何度もこの道の先へ耳を澄ませた。


 今日は、耳を澄ませない。

 そう決めていた。


 期待しすぎると、夕方が苦しくなる。


 だから今日は、普通に納品へ行く。

 普通に帰る。

 普通に畑を見る。

 普通に夜を迎える。


 そうするつもりだった。



 ローレンスの店は、いつも通りだった。


 窓辺の小さな棚には、森の家の鈴が並んでいる。

 少し減っている。

 それを見ると、胸がふわりと明るくなった。


「来たね。」


 ローレンスが帳簿から顔を上げた。


「納品です。」


「助かるよ。昨日、味のある音がまた売れた。」


「古道具屋の方ですか。」


「いや、今度は宿屋の女将だ。裏口の戸につけるらしい。開け閉めですぐ分かるからって。」


「そんな使い方もあるのですね。」


「鈴はどこでも鳴るからね。」


 どこでも鳴る。

 私は籠から鈴飾りを出した。


 灰色を三つ。

 白を二つ。

 薄緑を二つ。

 青を一つ。


 ローレンスが一つずつ見て、棚に並べていく。


 薄緑を置く時、私はどうしても目で追ってしまった。

 あの色は、今も少し特別だ。

 王都へ向かった鈴の色。


 ヴィルヘルムが、必要ですと言った色。


「今日は、落ち着かない顔だね。」


 ローレンスが言った。


「……皆さん、顔の話ばかりしますね。」


「分かりやすいからね。」


「そんなに?」


「かなり。」


 私は棚の端を見つめた。


「まだ、戻るとは限りません。」


「何の話だい。」


「……。」


「殿下さんのことだね。」


 聞き返したくせに。

 ローレンスは軽く笑った。


「三か月と言っていたんだったか。」


「はい。でも、最低三か月です。」


「そうだね。」


「ローレンスさんまで。」


「いや、事実だ。」


 ローレンスは棚の札を直した。


「ただ、殿下さんは約束を軽く扱う人ではなさそうだけどね。」


 胸が鳴った。


「……そうでしょうか。」


「そうだろう。少なくとも、あの人は必要のないことを言わない。逆に言えば、戻ると言ったなら、それはかなり重い。」


 必要のないことを言わない。


 たしかに、そうだ。


 言葉が足りない。

 でも、言ったことは軽くない。


 ――戻ります。

 ――確認してください。

 ――必ず。


 あの声が蘇る。

 私は胸の前で手を握った。


「……はい。」


 ローレンスはそれ以上からかわなかった。

 その代わり、小さな包みを一つ渡してくれた。


「乾物屋の奥さんから。前の茶布のお礼だそうだ。少しだけいい茶葉だって。」


「そんな。」


「受け取っておきな。贈り物を断ると、次に頼みにくくなる。」


「そういうものですか?」


「そういうものだ。」


 私は包みを受け取った。


 少しいい茶葉。

 今の自分には、贅沢品だ。


 以前ならありふれたものだったはずなのに、今は小さな紙包みが宝物のように見える。


 ――これでお茶を淹れたら、ヴィルヘルムは何と言うだろう。


 ……また、考えてしまった。


 ローレンスは気づいていたかもしれないが、何も言わなかった。



 町を出る頃、空は夕方へ傾き始めていた。


 私は籠を抱え、森の道へ入った。

 今日は風が穏やかだ。

 枝の音も少ない。

 鳥の声も遠い。


 だから余計に、道が静かだった。


 私は歩きながら、自分に言い聞かせた。


 今日は戻らないかもしれない。

 それでもいい。

 待つことに許可はいらない。


 戻らなかったとしても、明日また同じ一日を過ごすだけだ。


 畑を見る。

 針を持つ。

 仕事をする。

 町へ行く。


 私はちゃんと暮らせる。

 そう、私は暮らせる。


 ヴィルヘルムが戻っても、戻らなくても。


 ――いや、戻らないと困る。


 私は足を止めた。


 困る。

 今、自然にそう思った。


 戻らないと、困る。

 何が困るのだろう。


 軟膏を返せないから。

 市の話をできないから。

 香草を見せられないから。

 森の家の鈴の棚を見てもらえないから。


 違う。

 それだけではない。


 会えないからだ。


 ヴィルヘルムに会えないから、困る。


 私は唇を噛み、少しだけ笑ってしまった。


 もう、隠しようがない。


 好きだと認めると、心はこんなにも分かりやすくなるのか。


 そして、分かりやすくなりすぎて、困るのか。


 私は再び歩き出した。


 森の家が見えてくる。

 庭の鳥除けの鈴が鳴る。

 いつもの音。


 私は玄関前で一度立ち止まり、扉に手をかけた。


 その時だった。


 遠くから、音がした。

 私は動きを止めた。


 最初は、風だと思った。

 枝が揺れた音。

 荷車の音。


 あるいは、自分が期待しすぎて作り出した幻。


 そう思った。


 でも、違った。


 音は、規則正しかった。


 土を踏む、重い音。

 遠くから近づいてくる音。


 ――蹄の音。


 心臓が、一度大きく跳ねた。


 私は振り返った。


 森の道。

 夕方の光が差し込む道の奥。

 まだ姿は見えない。


 けれど、音は確かに近づいてくる。


 蹄の音。

 蹄の音だ。


 どこか急ぐような、蹄の音。


 私は籠を抱えたまま、立ち尽くした。


 足が動かない。


 逃げる必要などないのに。


 駆け寄ればいいのか。

 待てばいいのか。

 玄関先に立つべきなのか。

 笑えばいいのか。

 平静を装うべきなのか。


 分からない。

 何一つ分からない。


 ただ、胸の奥がいっぱいになっていく。


 ――戻ってきた。

 ――本当に。

 ――約束を守って。


 蹄の音が近づく。

 やがて、森の道の向こうに黒馬の姿が見えた。


 ノクスだった。

 額に細い白い星。


 手綱袋には、薄緑の鈴飾りが揺れている。

 少し色褪せて見える。

 旅の埃もついているだろう。


 それでも、ちゃんとそこにあった。


 そして、馬上にはヴィルヘルムがいた。


 濃紺の旅装。

 いつもより少し疲れた顔。

 淡い金髪は風に乱れ、外套の端には道中の埃がついている。


 けれど、背筋は伸びていた。

 青い目が、まっすぐこちらを見る。


 私は息を忘れた。


 ――会いたかった。


 その言葉が、胸の中で弾けた。


 ヴィルヘルムは家の前で馬を止めた。

 ゆっくりと降りる。


 手綱を取り、ノクスの首を軽く撫でる。


 それから、いつものように柵の外で止まろうとした。


 私は思わず一歩踏み出した。


「……殿下。」


 声が震えた。

 ヴィルヘルムの動きが止まる。


「レベッカ嬢。」


 その声。

 三か月ぶりの声。

 低く、静かで、少しだけ掠れていた。


 私は唇を開いた。

 何を言えばいいのか、ずっと考えていたはずだった。


 市のこと。

 畑のこと。

 香草のこと。

 森の家の鈴のこと。

 軟膏のこと。


 話したいことはたくさんあった。


 でも、最初に出た言葉は、それではなかった。


「お帰りなさいませ。」


 言ってしまった。

 言った瞬間、自分でも驚いた。


 お帰りなさい。


 この家に。

 この場所に。

 私の前に。


 戻ってきた人へ言う言葉。


 ヴィルヘルムは、完全に動きを止めた。

 青い目が、わずかに揺れる。


 まるで、その一言を受け止める場所を探しているようだった。


 長い沈黙。

 でも、嫌な沈黙ではなかった。


 鳥除けの鈴が鳴る。

 薄緑の鈴も、ノクスの手綱袋で小さく揺れる。


 ヴィルヘルムはゆっくり、深く息を吸った。

 そして、静かに頭を下げた。


「戻りました。」


 その言葉で、胸の奥がほどけた。


 本当に戻ってきた。

 約束は守られた。

 私は、待っていてよかったのだ。


 ――喜んでいいのだ。


 そう思った瞬間、目の奥が熱くなった。


 泣いてはいけない。

 いや、泣いてもいいのかもしれない。


 でも今泣いたら、何を言っているのか分からなくなる。


 私は必死に息を整えた。


「三か月、でしたね。」


「はい。」


「本当に、三か月で。」


「遅れましたか。」


「いいえ。」


 私は首を振った。


「いいえ。戻ってきてくださいました。」


 それだけで十分だった。

 ヴィルヘルムは戻ってきた。

 王太子には選ばれなかったのだろう。

 そうでなければ、こんなふうに森の家へ戻って来られるはずがない。

 王太子になる人が、旅装のまま、真っ先にこんな古い家へ来るはずがない。


 彼は王都に置かれなかった。

 公爵領へ戻ってきた。

 この町へ。

 この森の家へ。


 ――私の前へ。


 胸が一気に軽くなった。


 嬉しい。

 嬉しい。

 どうしようもなく嬉しい。


 私はその喜びに、ほとんど目が眩みそうだった。


 これからも会える。


 明日も。

 明後日も。

 前のように、玄関先で確認をして、畑を見て、町へ行って、面倒なやり取りをして。


 その未来が、ぱっと目の前に広がった気がした。


 ヴィルヘルムは私を見ていた。

 何か言いたそうで、でも言えない顔。

 けれど私は、今はその表情の意味まで考えられなかった。


 ただ、戻ってきてくれたことが嬉しかった。


「お変わりは。」


 彼が言った。

 私は思わず笑いそうになった。

 三か月ぶりの最初の確認が、それなのか。


 けれど、その不器用さすら懐かしかった。


「変わりました。」


 私は答えた。

 ヴィルヘルムの眉がわずかに動く。


「どこか悪く?」


「違います。」


 私は籠を抱え直した。


「畑が変わりました。仕事も増えました。町に、私の小さな棚ができました。鈴飾りも茶布も売れました。香草も芽を出しました。根菜も、ようやく。」


 言葉が次々に出てくる。

 止まらなかった。


「乾物屋の奥さんが茶布を使ってくれて、エダさんが薬草袋に鈴をつけてくれて、古道具屋のおじいさんは歪んだ鈴ばかり選ぶのです。ローレンスさんが『味のある音』と書いてくださって。市では、子どもが窓辺につける鈴を買ってくれました。あと、森の家の鈴という札ができました。」


 言いながら、自分でも少し早口だと分かった。

 でも止まらない。

 三か月分の話が、胸の中から溢れてくる。


「それから、茶葉をいただきました。良い茶葉です。私が買えるものよりずっと良いものです。ですから、もし、お時間があるなら。」


 そこまで言って、私は急に我に返った。


 何を言っているのだろう。

 旅から戻ったばかりの人に。

 疲れているかもしれないのに。

 仕事があるかもしれないのに。


 私は顔が熱くなるのを感じた。


「い、いえ、あの。お疲れでしょうし、今日は。」


「時間はあります。」


 即答だった。

 私は顔を上げた。


 ヴィルヘルムはまっすぐこちらを見ていた。


「あります。」


 二度言った。

 まるで、自分にも言い聞かせるように。


「よろしければ、聞かせてください。」


 胸が鳴った。


 ――聞かせてください。


 三か月、ずっと話したかった。

 聞いてほしかった。


 その言葉を、彼がくれた。


 私は何とか頷いた。


「では、玄関先で。」


「はい。」


「中ではありません。」


「はい。」


「旅装のままですし、まずノクスを。」


「先に馬を休ませます。」


 彼はそう言って、ノクスを柵のそばへ移した。

 庭の端に簡単な水桶を置くと、ノクスは静かに水を飲んだ。

 薄緑の鈴が揺れる。

 私はどうしてもそれを見てしまう。


 ヴィルヘルムが気づいた。


「鈴は、無事です。」


「……少し色褪せましたね。」


「旅をしましたので。」


「王都まで、本当に持っていったのですね。」


「必要でしたから。」


 同じ言葉。

 でも、今聞くと胸が苦しくなる。


「なぜ、必要だったのですか。」


 聞いてしまった。


 ヴィルヘルムは一瞬だけ黙った。

 その沈黙に、何か深いものがある気がした。

 でも、彼は静かに答えた。


「戻る場所を、忘れないためです。」


 息が止まった。


 戻る場所。


 森の家。

 ここ。


 ――私のいる場所。


 そう思っていいのだろうか。

 思ってしまいそうになる。


 私は視線を逸らした。


「……大げさです。ただの布飾りです。」


「だからよいのです。」


「会話がしづらいです。」


「久しぶりに聞きました。」


 ヴィルヘルムの目元が、ほんの少し和らいだ。

 私はその顔を見て、胸がいっぱいになった。


 ――ああ、好きだ。


 昨日認めた言葉が、今度はもっと自然に胸の中へ落ちた。


 ――私はこの人が好きだ。

 ――戻ってきてくれて嬉しい。


 そのことを、もう否定したくなかった。


 ノクスを休ませたあと、ヴィルヘルムは玄関先に立った。

 以前と同じ場所。

 敷居の手前。


 けれど、同じではない。

 三か月前より、少し近く感じる。


 私は台所へ入り、湯を沸かした。

 器を二つ出す。

 今度は戻さない。


 乾物屋の奥さんにもらった茶葉を少しだけ使う。

 自分で買える精一杯の茶よりも、さらに良い香りがした。


 王宮の茶には到底及ばないだろう。

 それでも、今の私には大切なものだ。


 私の仕事がつないでくれた茶葉。

 町の人がくれた茶葉。

 森の家の茶。

 私は慎重に湯を注いだ。


 玄関先へ持っていくと、ヴィルヘルムは両手で受け取った。


「ありがとうございます。」


「熱いです。」


「はい。」


「落とさないでください。」


「はい。」


「三か月ぶりでも返事ばかりですね。」


「……すみません。」


「いえ、少し安心しました。」


 言ってから、私は固まった。


 安心しました。

 あまりにも素直に出てしまった。


 ヴィルヘルムの手が、器を持ったままわずかに止まる。


 私は慌てて視線を逸らした。


「いえ、確認の調子が戻ったという意味です。」


「はい。」


「便利な返事ですね。」


「……今は、助かっています。」


 彼の声が少し柔らかい。

 私はますます落ち着かなくなった。


 彼は茶を一口飲んだ。

 静かに。

 とても丁寧に。


「良い香りです。」


「乾物屋の奥さんからいただきました。茶布のお礼だそうです。」


「茶布が役に立ったのですね。」


「はい。」


 私はそこで、三か月の話を始めた。


 小さな市のこと。

 最初に売れた薄黄色の鈴。

 トマスの妹のくすんだ赤。

 古道具屋の老人の味のある音。

 エダの薬草袋。

 乾物屋の茶葉包み。

 ローレンスの棚。

 森の家の鈴という札。


 ヴィルヘルムは、ほとんど口を挟まずに聞いた。

 ただ、時々短く相槌を打つ。


「はい。」


「それは良いですね。」


「実用的です。」


「その表現は、褒めています。」


「分かっています。」


「本当に?」


「今回は。」


 話しているうちに、私は笑っていた。

 三か月分の寂しさが、話すことで少しずつほどけていく。


 ヴィルヘルムは戻ってきてくれた。

 約束通り。

 私のところに。


 ――そして、これからもきっと。


 恋を認めた私は、それをもう素直に喜んでいた。


 鳥除けの鈴が鳴る。

 話し終える頃、外はすっかり夕方になっていた。


 薄緑の鈴も、風に小さく揺れる。

 ヴィルヘルムは空になった器を見つめ、それから静かに言った。


「あなたは、本当にこの場所を育てたのですね。」


 胸の奥を、まっすぐ押されたようだった。


 ――この場所を育てた。


 私は森の家を見た。


 古い玄関。

 拭いた棚。

 台所の机。

 庭の畑。

 鳥除けの鈴。

 香草の芽。

 町へつながる道。


 最初は、ただ生きるための場所だった。


 雨漏りもして、柵も壊れて、梯子は危なくて、畑は小さくて、何もかも心細かった。


 ――でも今は違う。


 この場所は、少しずつ私の暮らしになった。


 そして、そのことを見てほしかった人が、今ここにいる。


 私は喉の奥が詰まった。


「……見ていただきたかったのです。」


 小さく言った。

 ヴィルヘルムがこちらを見る。


「あなたに。」


 言ってしまった。

 もう取り消せない。

 でも、取り消したくもなかった。


 ヴィルヘルムの青い目が、静かに揺れた。

 長い沈黙。

 それから彼は、ひどく慎重に言った。


「見られて、よかった。」


 その言葉で、私は泣きそうになった。

 でも、泣かなかった。

 代わりに、少しだけ笑った。


「まだ全部ではありません。」


「はい。」


「ローレンスさんの店の棚も見ていただきたいですし、畑の香草も、根菜の芽も。次の市もあります。」


「見ます。」


「すぐ返事をしますね。」


「見たいので。」


 あまりにもまっすぐ言われて、私は言葉に詰まった。


 頬が熱い。

 たぶん、かなり赤い。

 でも、もう隠しきれない。


 好きだと気づいた心は、思ったより正直だった。


「では、明日。」


 私は言った。


「明日、町へご案内します。」


「はい。」


「お忙しくなければ。」


「時間を作ります。」


「無理はしないでください。」


「……はい。」


「その間は何ですか。」


「少し、懐かしく。」


「何がですか。」


「あなたにそう言われることが。」


 私はまた何も言えなくなった。


 三か月。

 彼にとっても、短くはなかったのだろうか。


 そう思うだけで、胸がじんと熱くなる。


 やがて、ヴィルヘルムは器を返し、深く頭を下げた。


「今日は、戻った報告だけにするつもりでした。」


「そうなのですか。」


「はい。」


「では、長く引き止めてしまいましたね。」


「いいえ。」


 彼は静かに言った。


「引き止められたかったので。」


 息が止まった。


 何を言うのだ、この人は。

 三か月ぶりに戻ってきて、どうしてそんなことを言うのか。


 以前なら、会話がしづらいです、と返せた。

 でも今は、その言葉が出てこない。


 胸がいっぱいで。

 苦しくて。

 嬉しくて。


 私はただ、器を両手で握った。


「……明日、来てください。」


 小さく言った。


 ヴィルヘルムは、目を伏せた。

 それから、頷いた。


「伺います。」


「約束です。」


「はい。」


「守ってください。」


「必ず。」


 ――必ず。


 その言葉を聞いて、私は安心した。


 安心してしまった。


 彼が戻ってきた。

 王都から。

 三か月で。

 約束通りに。


 ――それなら、きっと大丈夫。


 そう思った。


 疑う理由など、どこにもなかった。


 ヴィルヘルムはノクスの手綱を取った。

 帰る前に、もう一度こちらを見る。


「明日、伺います。」


「はい。」


「ローレンス殿の店と、畑を。」


「はい。」


「確認します。」


「そこは確認なのですね。」


「はい。」


「久しぶりですから、許します。」


「ありがとうございます。」


 薄緑の鈴が揺れる。

 蹄の音が、森の道へ遠ざかっていく。


 でも、もう朝のような寂しさではなかった。


 帰ってきた蹄の音。

 戻ると約束した人の音。

 明日また来ると言った人の音。


 私は玄関先に立ったまま、しばらくその音を聞いていた。


 やがて森の道が静かになっても、胸の中にはまだ鈴の音が残っていた。


 彼が戻ってきた。

 約束は守られた。


 喜んでいい。

 私は、この人が帰ってきて嬉しい。


 好きな人が、私の場所へ帰ってきてくれた。

 明日も来てくれる。


 私はその幸福な答えを、疑いもせず抱きしめた。


 扉を閉め、台所へ戻る。


 机の上には、器が二つ並んでいる。

 三か月ぶりの、二つの器。


 それを見た瞬間、また少しだけ泣きそうになった。


 でも、やっぱり泣かなかった。


 代わりに、私は小さく笑った。


「……明日も、掃除しなくては。」


 今日は掃除の日だった。

 明日も、きっと掃除の日になる。


 私はそう言い訳をしながら、空になった器を大切に洗った。

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