第四十六話 三か月目の鈴
ヴィルヘルムが王都へ発ってから、もうすぐ三か月が経つ。
最初は、一日が長かった。
夕暮れになるたびに森の道へ耳を澄ませ、蹄の音がしないことを何度も確認してしまった。
そんな自分が嫌で、悔しくて、みっともないと思った。
けれど、季節は私の気持ちに関係なく進んだ。
若葉は夏の強い日差しを浴びてぐんぐん育った。
最初の葉物は何度か食卓に上がり、最後には根元近くまで収穫した。
空いた畝には、マーサに教わりながら次の種をまいた。
小さな根菜と、香草。
香草は、薬草売りのエダに相談して選んだ。
料理にも使え、虫除けにもなり、乾かせば小さな香り袋にもできるもの。
そんなふうに説明されると、ただの草が宝物のように思えた。
畑の隅では、その香草の芽が少しずつ伸びている。
まだ頼りない。
けれど、土にしがみつくようにして立っている。
その姿を見るたび、私は少し励まされた。
私も、こうして立ってきたのだと思う。
頼りなくても。
風に揺れても。
根を伸ばすように。
鈴飾りと茶布の仕事は少しずつ増えていった。
乾物屋の奥さんには、改良した茶葉包み用の茶布をさらに追加で頼まれた。
エダには、薬草袋につける白い鈴飾りをあれからも何度か納めた。
古道具屋の老人は、相変わらず「味のある音」の鈴ばかり探して買っていく。
荷運びのトマスの妹は、くすんだ赤の鈴を気に入ってくれたらしく、今度は友人の分も欲しいと手に取ってくれた。
ローレンスの店には、私の小さな棚ができた。
棚といっても、窓辺に置かれた木箱を少し綺麗にしただけのものだ。
けれど、そこには鈴飾りと茶布が並んでいる。
ローレンスが手書きで、札をつけてくれた。
茶葉包みの布。
森の家の鈴。
鳴らして選べます。
最初にそれを見た時、私はしばらく声が出なかった。
森の家の鈴。
その名前は、少し恥ずかしかった。
でも、とても嬉しかった。
森の家。
私の家。
私の場所。
そこから生まれた鈴。
そう呼んでもらえた気がしたからだ。
今、私の暮らしには、やることがたくさんある。
朝、火を起こす。畑を見る。香草の芽を確認する。鳥除けの鈴を直す。
町へ降りる。注文を聞く。針を持つ。帳面をつける。
夕方に水をやる。夜に明日の段取りを考える。
忙しい。
けれど、苦しくはない。
以前の私は、何かに追われるように頑張っていた。
失敗しないため。
期待に応えるため。
笑われないため。
失望されないため。
今は違う。
自分の暮らしを続けるために動いている。
誰かの役に立つものを作るために手を動かしている。
その違いは、小さいようで、とても大きかった。
その日の朝、私は畑の香草の芽を見ていた。
葉はまだ細い。
でも、指で触れると、ほんの少し香りが立った。
「本当に香るのね。」
思わず笑ってしまう。
まだこんなに小さいのに。
ちゃんと自分の匂いを持っている。
私もそうだろうか。
まだ頼りなくても、私らしいものを持てているだろうか。
――ヴィルヘルムが戻ったら、この香草を見せたい。
そう思った瞬間、胸が温かくなった。
もう驚かなかった。
最近は、何かあるたびにそう思う。
新しい注文が入った時。
鈴柄の茶布がうまく刺せた時。
スープの味が少し良くなった時。
畑の芽が出た時。
鳥除けの紐を綺麗に張り直せた時。
私は、彼に見せたいと思う。
話したいと思う。
聞いてほしいと思う。
そして、それだけではなくなっていることにも、気づいている。
――会いたい。
もう、その言葉から目を逸らせなくなっていた。
会いたい。
ヴィルヘルムに。
ただ報告したいからではなく。
確認してほしいからでもなく。
彼の声を聞きたい。
玄関先に立つ姿を見たい。
あの少し失礼な確認を、また聞きたい。
食事は。
熱は。
無理は。
――大丈夫という言葉の信用が下がっています。
そう言われたら、今度こそ文句を言う。
……でも、たぶん笑ってしまう。
そんなふうに想像するだけで、胸の奥が柔らかくなる。
私はしゃがんだまま、香草の芽を見つめた。
「……困ったわね。」
小さく呟く。
困っている。
本当に困っている。
だって、これはもう、かなり危うい。
面倒な知り合いを待っているだけではない。
監視役の帰還を待っているだけでもない。
約束を守るかどうか確認したいだけでもない。
私は、あの人が戻ってくる日を、指折り数えそうになっている。
今日は何日目。
あと何日。
正確な帰還日は分からないのに、三か月という言葉を目安にして、心が勝手に日を数えている。
それは、とても危ないことのように思えた。
期待することは怖い。
信じることも怖い。
戻ると言われても、戻れないことはある。
約束が破られることもある。
私は、それを知っている。
それなのに。
私は、待っている。
待つことを、やめられなくなっている。
昼前、マーサが来た。
最近は毎日ではない。
私が少しずつ自分でできるようになったからだ。
それでも、三日に一度は様子を見に来てくれる。
今日は籠の中に、少し固くなったパンと干した豆が入っていた。
「根菜、芽は出たかい。」
「まだです。香草の方は伸びてきました。」
「香草は早いからね。」
マーサは庭へ回り、畑を見た。
「いいね。ちゃんと育ってる。」
「はい。」
「水もやりすぎてない。」
「気をつけています。」
「偉いじゃないか。」
褒められた。
以前なら、褒められるとすぐに緊張した。
もっとやらなければ。
次も失敗できない。
そう思った。
でも、今は少しだけ素直に受け取れる。
「ありがとうございます。」
「うん。今のはいい顔だ。」
「また顔ですか?」
「顔だよ。人間、顔に出る。」
「……私はそんなに分かりやすいでしょうか。」
「最近は特にね。」
私は少し嫌な予感がした。
マーサは畑の縁に腰を下ろし、香草の芽を見ながら言った。
「もうすぐ三か月だね。」
胸が跳ねた。
……やはり来た。
「はい。」
「戻る頃だね。」
「正確には分かりません。」
「そうだね。」
「王都のご都合もありますし。」
「そうだね。」
「三か月と言っても、最低三か月と仰っていました。」
「そうだね。」
「ですから、三か月きっかりに戻るとは限りません。」
「そうだね。」
マーサは全部、同じ調子で受け止める。
私は少しだけ唇を尖らせた。
「その、そうだね、は何ですか。」
「あんたが自分に言い聞かせてるから、相槌を打ってる。」
「……。」
「本当は、三か月経ったら戻ってきてほしいんだろ。」
あまりにまっすぐ言われて、私は言葉を失った。
頬が熱い。
庭なのに、逃げ場がない。
「それは。」
「違う?」
「……違いません。」
言ってしまった。
マーサはにやにやしなかった。
ただ、少し優しい顔で頷いた。
「そうかい。」
「でも、期待しすぎるのは。」
「怖い?」
「はい。」
「期待しなければ傷つかない、ってやつだね。」
「……そうです。」
マーサは畑の土を少し指でつまんだ。
「種をまく時も、似たようなもんだよ。」
「種?」
「芽が出なけりゃがっかりする。でも、芽が出るかどうか分からないからって、まかなきゃ何も育たない。」
私は香草の芽を見た。
細くて頼りない。
けれど確かに育っている。
「待つのも、少し似てる。」
マーサは言った。
「戻ってくると信じることは、種をまくみたいなもんだ。芽が出る保証はない。でも、まかなきゃ育たないものもある。」
「……難しいですね。」
「難しいよ。暮らしはだいたい難しい。」
「でも、鍋や商売や畑で、何でも説明できますよね。」
「長く生きてるからね。」
マーサは立ち上がった。
「あんたは、待ってていいと思うよ。」
「いいのでしょうか。」
「誰かを待つくらい、許可はいらない。」
胸の奥に、言葉が落ちた。
――誰かを待つくらい、許可はいらない。
私はずっと、許可を求めてきたのかもしれない。
喜んでいいのか。
寂しがっていいのか。
会いたいと思っていいのか。
待っていいのか。
誰に許しを求めていたのだろう。
母に。
父に。
公爵家に。
王宮に。
過去の自分に。
それとも、断罪の日に悪女として切り捨てられた自分に。
でも、マーサは簡単に言った。
――許可はいらない。
私は畑の前で、しばらく何も言えなかった。
午後、ローレンスの店へ納品に行った。
白い鈴飾り五つと、茶葉包み用の茶布六枚。
ローレンスは一つずつ確認し、満足そうに頷いた。
「仕上がりが安定してきたね。」
「そうでしょうか。」
「ああ。前より縫い目が柔らかい。」
「柔らかい?」
「最初の頃は、失敗しないようにって力が入りすぎてた。今は使う人に合わせて作ってる感じがする。」
ローレンスの言葉に、少し胸が熱くなった。
自分では分からない変化を、誰かが見ていてくれる。
それは、少し照れくさいけれど、嬉しい。
「ありがとうございます。」
「エダも喜ぶよ。あと、乾物屋の奥さんが次の市にも出してほしいって言ってた。」
「次の市。」
「ああ。月末にもう一度ある。」
「出した方がよいでしょうか。」
「出たいかどうかだね。」
出たいかどうか。
私は少し考えた。
前なら、売れるかどうか、失敗しないかどうかを先に考えていた。
でも今は、最初に浮かんだのは別のことだった。
また、やってみたい。
「出たいです。」
口に出すと、思ったよりはっきりした声だった。
ローレンスは笑った。
「なら出よう。」
「はい。」
「殿下さんが戻る頃には、森の家の鈴はもっと有名になってるかもしれないね。」
不意打ちだった。
私は固まった。
ローレンスは帳簿に目を落としている。
わざとなのか、自然なのか分からない。
「……そうでしょうか。」
「少なくとも、この町ではね。」
「戻ったら。」
私はそこで言葉を止めた。
戻ったら、見てもらいたい。
また思った。
もう何度目だろう。
ローレンスは顔を上げずに言った。
「話すことが増えるね。」
「はい。」
今度は、素直に答えた。
ローレンスの手が少し止まる。
それから、彼は小さく笑った。
「いい返事だ。」
帰り道、空は高かった。
季節は秋に向かって少し進み、風の匂いも変わっている。
森の葉は色を変え始め、日差しは以前より柔らかい。
三か月前、私はこの道をもっと不安な気持ちで歩いていた。
今も不安はある。
でも、同じではない。
私には帰る家がある。
畑がある。
仕事がある。
町に、名前を呼んでくれる人がいる。
そして、戻ってきてほしい人がいる。
そのことを考えた時、私は足を止めた。
森の道は静かだ。
蹄の音はしない。
でも、その静けさに向かって、私は心の中で呟いた。
――早く、帰ってきて。
言葉にした瞬間、胸が震えた。
会いたい。
帰ってきてほしい。
私の暮らしを見てほしい。
私の話を聞いてほしい。
そばに、いてほしい。
ただの安心でもない。
ただの習慣でもない。
私は、あの人を待っている。
あの人だから、待っている。
私は唇を噛んだ。
認めてもいいのだろうか。
いや、もう認めるしかないのだ。
胸が締めつけられるような、温かくなるような、早くなるような。
「全部あなたのせいですよ、殿下。」
つい、口が開いてしまう。
「私がこんなにも――」
言葉が、喉の奥まで上がってきた。
けれど、まだ声にはならなかった。
怖かった。
その言葉に名前を与えた瞬間、何かが変わってしまう気がした。
でも、もう自分にも隠し切れなかった。
――私は、ヴィルヘルムが好きなのだ。
道の途中で、私は立ち尽くした。
気づいてしまった。
認めてしまった。
風が吹く。
鳥除けの鈴が遠くで鳴る。
森の家の方から聞こえる音。
その音に背中を押されるように、私はまた歩き出した。
ぐちゃぐちゃになった頭と、早鐘を打つ心臓をごまかすように、足が速くなる。
気づけば、私は走っていた。
本当は、ずっと前から。
きっと、ずっとずっと前から。
顔を上げる。
視界がぼやけた。
誰も来ない茶会の席に、何気ない顔で座ってくれたあなた。
議論で噛みつく私を、面白そうに見ていたあなた。
父に頬を打たれ、恥ずかしさと悔しさで顔を上げられなかった私を、立ち上がれるまでその背で隠してくれたあなた。
私の髪を不器用に褒めて、少しだけ頬を染めていたあなた。
そして、服が汚れるのも構わず、土に膝をついたあなた。
――ああ。
――そうだ。
――気づかないふりをしていただけだ。
ずっとひとりだと思っていた。
誰にも望まれていないのだと思っていた。
愛されることを求めることさえ、間違いなのだと思っていた。
けれど、違った。
違ったのだ。
――あなたはずっと、そこにいてくれた。
これが恋でなくて、何だというのだろう。
気づいた。
気づいてしまった。
空が青いということくらい、当たり前に。
私の中に。
私のそばに。
それは、ずっとあったのだ。
視界が滲んだ。
悲しみの涙ではない。
――ただ、恋しい。
――どうしようもなく、恋しい。
そう思った。




