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第四十五話 若葉が伸びる頃

 小さな市が終わってから、森の家の暮らしは少し忙しくなった。


 忙しくなった、と言っても、公爵家にいた頃のような予定表に追われる忙しさではない。


 朝は畑を見て家の雑務を片付ける。

 昼は鈴飾りと茶布を作る。

 午後に町へ降りる日もある。

 ローレンスの店に品物を預け、注文を聞き、乾物屋の奥さんに茶布の大きさを相談され、薬草売りのエダに薬草袋用の目印を頼まれる。


 夕方には森の家へ戻り、畑に水をやり、翌日の準備を終わらせる。

 夜は、灯りの下でまた針を持つ。


 そういう忙しさだった。


 私の手で、私の時間が埋まっていく。

 それは不思議な感覚だった。


 公爵家にいた頃の私は、いつも誰かが決めた予定の中にいた。

 王妃教育。舞踏。語学。歴史。作法。茶会。公爵家の一部執務。王宮への訪問。婚約者としての務め。公的行事への参加。


 どれも必要なことだと言われていた。

 でも、そこに私がいる理由を、自分で決めたことはほとんどなかった。


 今は違う。


 この鈴飾りを作るかどうか。

 茶布の柄を増やすかどうか。

 畑の若葉をどのくらい間引くか。

 町へ降りる日をいつにするか。


 全部、小さなことだ。

 王国の未来に関わるようなことではない。


 けれど、その小さなことを自分で決めるたび、私は少しずつ自分の足で立っている気がした。


 市から十日後、畑の若葉はまた大きくなっていた。

 最初は頼りなかった双葉が、今は少し丸みのある葉を広げている。


 株と株の間には、風が通る。

 間引いた場所には少し余白ができ、その余白のおかげで、残った葉がのびのびして見えた。


「……大きくなったわね。」


 私はしゃがみ込み、葉の先をそっと指で撫でた。


 土の匂い。

 青い匂い。


 朝の光を受けた若葉は、まるで小さな手のひらのようだった。


 市の日に出した鈴柄の茶布が売れたことを、私はまだ時々思い出す。


 売れて嬉しかった。

 でも、少し寂しかった。


 それと同じように、この若葉も、いつか摘んで食べる。

 育てることは、手元に置き続けることではない。

 育てて、使って、また次を育てる。


 暮らしとは、そういうものなのかもしれない。


 私は小さな籠を持ってきて、外側の葉を少しだけ摘んだ。

 マーサに教わった通り、株を抜かずに、必要な分だけ。


 今夜のスープに入れる分。

 一人分。


 その言葉に、また胸が少しだけ痛んだ。

 けれど、その痛みにはもう慣れ始めていた。


 ヴィルヘルムが王都へ行ってから、もう二か月近くが過ぎている。


 最初の十日は長かった。

 夕方になるたび、耳が森の道を探していた。


 でも市が終わってからは、時間の流れが少し変わった。


 注文が入る。

 品物を作る。

 町の人が声をかけてくれる。

 朝から夜まで、やることがある。


 寂しさは消えない。

 でも、寂しさだけで一日が終わることはなくなった。


 それは、きっと良いことだ。


 台所へ戻ると、机の上には注文の控えが並んでいた。


 乾物屋の奥さんから、茶葉包み用の茶布を四枚。

 薬草売りのエダから、薬草袋につける小さな白い鈴飾りを八つ。

 八百屋の娘から、青い鈴飾りを一つ。

 古道具屋の老人から、味のある音の鈴を三つ。


 味のある音。


 ローレンスの字で書かれたその言葉を見るたび、少し笑ってしまう。

 歪んだ鈴が、今ではちゃんと商品名のようになっている。


 私は針箱を開け、白い布を手に取った。


 エダの薬草袋用の鈴飾りは、清潔に見える白がよいらしい。

 でも、真っ白すぎると汚れが目立つ。

 だから少し生成りがかった布を選ぶ。


 紐は細め。

 鈴は小さく、音も控えめ。

 薬草棚で鳴っても邪魔にならないように。


 私は一つずつ考えながら、布を切った。


 以前なら、見た目の美しさだけを考えていたかもしれない。

 今は、使う人の場所を想像する。


 エダの店の乾燥棚。

 乾物屋の奥さんが茶葉を包む手。

 八百屋の娘が腰紐につける鈴。

 古道具屋の老人の古い棚。


 ――誰かの暮らしの中に入るもの。


 そう思うと、針を通す手が自然と慎重になった。



 昼前、マーサがやって来た。

 今日も籠を抱えている。


 中には卵が三つと、少し傷のある林檎が入っていた。


「少し多めに買ってしまってね。」


「また何かいただいてしまって。」


「傷物だ。安かった。」


「傷物でも、美味しければ十分です。」


「いい答えだ。」


 マーサは台所の椅子に腰を下ろし、机の上の注文控えを見た。


「増えたねえ。」


「はい。少し驚いています。」


「少し?」


「かなり。」


「素直でよろしい。」


 マーサは白い鈴飾りの試作を一つ手に取った。

 そっと鳴らす。


「これは控えめだね。」


「薬草袋用です。あまりうるさいと困るかと思って。」


「ちゃんと相手のことを考えてるじゃないか。」


「商品ですから。」


「それだけかい?」


 マーサがにやりと笑う。

 私は少し目を逸らした。


「……使ってもらうものですから。」


「うん。それでいい。」


 マーサは鈴飾りを机に戻した。


「若葉は摘んだ?」


「少しだけ。今夜のスープに入れます。」


「もう少ししたら、まとめて収穫できるね。」


「はい。」


「次の種も考えないと。」


「次の種。」


 その言葉に、少し驚いた。


 そうか。

 今育っているものを収穫したら、終わりではない。


 また次をまく。

 畑は続く。


 私は籠の中の若葉を見た。


「何をまくのがよいでしょう。」


「もう涼しくなってくるからね。葉物を続けてもいいし、根菜の小さいのを試してもいい。あとは香草だね。料理にも使えるし、虫除けにもなる。」


「香草。」


「エダに聞くといい。あの人は詳しい。」


「そうします。」


 次の種。

 次の畑。

 次の市。

 次の注文。


 私の暮らしに、次が増えていく。

 それは嬉しい。


 嬉しいのに、ふと考えてしまう。


 ヴィルヘルムが戻る頃には、この若葉はもう収穫されているのだろう。

 次の種がまかれているかもしれない。


 夏も終わりに近付き、畑の景色も、少し変わっている。


 私の仕事も、少し増えている。

 その全部を見たら、彼は何と言うだろう。


 ――機能的です。


 いや、畑にはそれは言わないかもしれない。


 ――良いと思います。

 ――畑が、明るく見えます。


 そんなふうに言うだろうか。


 それとも、土の乾きや柵の状態を確認するのだろうか。

 私は少し笑ってしまった。


 マーサがすぐに見逃さなかった。


「何を思い出したんだい。」


「何でもありません。」


「殿下さんかい。」


「……なぜ分かるのですか。」


「顔が分かりやすい。」


「そんなはずは。」


「あるよ。」


 私は黙った。

 反論するには、自信がなかった。


 表情管理は、王妃教育で何年も徹底して習得したはずだったのに。

 たった数か月で、ここまで剥がれ落ちてしまうとは。

 私は心の中で小さく嘆息した。


 マーサは卵を棚に置きながら、何でもないように言った。


「手紙は来ないんだね。」


 胸が、少しだけ止まった。


「はい。」


「まあ、王都のことだ。簡単には出せないのかもしれないね。」


「そうでしょうか。」


「そうだろうね。」


 マーサは軽く言った。

 でも、その声には少しだけ含みがあった。


 私はそれに気づいたが、深くは聞かなかった。

 聞いたところで、マーサはきっと「さあね」と言うだけだろう。


 ヴィルヘルムから手紙は来ない。

 それは、最初から分かっていた。


 彼は、戻ると言った。

 預かった軟膏を受け取りに来ると言った。

 でも、手紙を書くとは言っていない。


 それに、王都の事情は私には分からない。

 私に手紙を送ることが、彼の立場にとって良くないこともあるのかもしれない。


 そう思う。

 思うのに、時々、郵便の荷が町に着くと、少しだけ期待してしまう。


 ローレンスの店へ行った時、何も言われないと、少しだけ落ち込む。

 馬鹿みたいに。


 彼は約束をくれた。

 私はそれ以上を求められる立場にはいない。


 それなのに。

 ……やめよう。


 私は針を手に取った。


 手を動かす。

 それが一番いい。



 午後、私は町へ行った。

 注文の確認と、納品するにはまだ早いが、茶布の大きさについて乾物屋の奥さんと相談するためだ。


 ローレンスの店に入ると、彼は帳簿を見ていた。


「ちょうどよかった。エダから伝言だ。」


「エダさんから?」


「ああ。薬草袋の鈴、六つじゃなくて八つにしてほしいそうだ。」


「増えたのですか。」


「市で見た客が、薬草袋につけるのはいい考えだって言ったらしい。ついでに二つ頼まれたとか。」


「まあ。」


 嬉しい。

 でも、少し焦る。


 八つ。

 作れる。

 作れるはずだ。


 でも茶布もある。

 鈴柄の追加もある。


「無理なら納期を伸ばせばいい。」


 ローレンスがすぐに言った。

 私は顔を上げる。


「まだ何も言っていません。」


「無理します、と言う顔だった。」


「皆さん、私の顔を読みすぎです。」


「読まれる顔をしてるんだよ。」


 ひどい。

 でも、また反論しづらい。


「納期は、二日延ばしていただいてもよいでしょうか。」


 私は少し迷ったあと、そう言った。

 ローレンスの表情が少し和らぐ。


「いい判断だ。」


「そうでしょうか。」


「ああ。続ける仕事は、無理して受けるより、ちゃんと納める方が大事だ。」


「続ける仕事。」


「そう。今回だけじゃないんだから。」


 今回だけではない。

 その言葉が、胸に残った。


 小さな市で終わりではない。

 売れたら終わりではない。


 続く。

 続ける。


 私はここで、続けていけるのかもしれない。


 ローレンスは帳簿に納期を書き直した。


「それと、手紙はないよ。」


 突然言われて、私は固まった。


「……何のことでしょう。」


「何のことかね。」


 ローレンスは帳簿を閉じた。


「今日、郵便の荷が来たからね。おまえさんが聞く前に言っておく。」


「聞くつもりはありませんでした。」


「そうかい。」


「……本当に。」


「うん。」


 完全に信じていない顔だった。

 私は少し顔が熱くなった。


「手紙など、来るとは思っていません。」


「そうだね。」


「王都はお忙しいでしょうし。」


「そうだね。」


「そもそも、手紙を送るような間柄ではありません。」


 言ってから、胸が痛んだ。

 自分で言った言葉なのに。


 手紙を送るような間柄ではない。

 その通りだ。


 私は何なのだろう。

 

 監視対象。

 面倒な知り合い。

 彼が心配だと言ってくれた人。

 戻ると約束してくれた人。


 ……でも、手紙をもらうような間柄ではない。


 そう考えると、急に店の中の音が遠くなった。


 ローレンスは少しだけ黙った。

 そして、いつもの軽い調子を少しだけ落として言った。


「手紙がなくても、約束がなくなったわけじゃない。」


 私は目を上げた。


「……はい。」


「戻ると言ったんだろ。」


「はい。」


「なら、今はそれで十分にしておきな。」


「十分。」


「十分じゃない日もあるだろうけどね。」


 ローレンスはそう言って、帳簿を棚に戻した。


 マーサもローレンスも、時々とてもずるい。


 慰めすぎない。

 否定もしない。


 ただ、今立てる場所を示してくる。


 私は小さく頭を下げた。


「ありがとうございます。」


「礼を言われることじゃないよ。ほら、乾物屋へ行くんだろ。」


「はい。」


 乾物屋の奥さんとの相談は、思ったより楽しかった。


 茶葉を包むには、茶布の大きさを少し変えた方がよいらしい。

 四角いままではなく、少しだけ縦長にすると包みやすい。

 紐を別につけると高くなるので、端を折り込んで結ぶ方がよい。

 柄は中央ではなく、包んだ時に見える角に置く。


 なるほど、と思うことばかりだった。

 私は夢中でメモを取った。


「ずいぶん真剣ね。」


 乾物屋の奥さんが笑った。


「使いやすいものにしたいので。」


「いい心がけだね。」


「でも、私一人では分からないことが多くて。」


「だから聞けばいいのよ。使う人に。」


 使う人に聞く。

 それも、今までの私にはあまりなかった考え方だった。


 王妃教育では、正解は先に決まっていた。

 けれど、暮らしの道具の正解は、人によって違う。


 使う人に聞く。

 その積み重ねで、少しずつ良くなる。


 私は茶布の試作を作り直すことにした。

 手間は増える。

 でも、嫌ではなかった。


 森の家へ戻る頃には、空が少し曇っていた。

 夕方の風はやわらかく、季節が少し進んだことを感じさせる。


 私は畑に水をやる前に、空を見上げた。

 雲の流れが早い。

 雨が降るかもしれない。

 薪の場所を移動させておいた方がいい。

 そう思いながら、庭の端へ向かった。


 以前なら、空を見て生活を考えることなどなかった。


 雨が降るか。

 風が強いか。

 土が乾いているか。

 夜は冷えるか。


 今は、そういうことを気にする。

 暮らしが、体に少しずつ入ってきている。


 私は薪を抱え、台所へ運んだ。

 その途中で、ふと森の道を見た。


 静かだった。

 蹄の音はしない。

 当たり前。

 もう何度も自分に言った言葉。


 でも今日は、その静けさに向かって、別の言葉が浮かんだ。


 ――会いたい。


 私は足を止めた。

 薪が腕の中で少し崩れそうになる。


 ――会いたい。


 今、確かにそう思った。


 話したい、ではなく。

 見せたい、でもなく。

 確認してほしい、でもなく。


 ただ、会いたい。


 ヴィルヘルムに。


 面倒な知り合いに。

 確認ばかりする失礼な人に。

 傷物の鈴を王都へ持っていった人に。

 私の食事を、温かいと言った人に。


 ここに戻りたいと言った人に。


 ――会いたい。


 胸の奥が、静かに熱くなった。


 私はしばらくその場に立っていた。


 風が吹く。

 鳥除けの鈴が鳴る。


 私はゆっくり息を吐いた。


「……そう。」


 声が震えないように、少しだけ低く言う。


「会いたいのね。」


 認めると、思ったより苦しくなかった。

 少し怖い。

 でも、思ったより自然だった。


 会いたい。


 それは、悪いことではないのかもしれない。


 誰かに会いたいと思うこと。

 戻ってきてほしいと思うこと。

 話したいことを抱えて待つこと。


 それは、弱さだけではないのかもしれない。


 私は薪を抱え直し、台所へ戻った。



 その夜、若葉のスープを作った。

 一人分。


 けれど、以前より上手くできた。

 塩加減も悪くない。若葉の香りも、ちゃんと残っている。

 私は器を一つだけ机に置いた。


 一つだけ。


 それを見ても、今日は前ほど寒くは感じなかった。


 一人分の食卓。

 でも、話したいことがある食卓。


 いつか、もう一度二つ並べる日が来るかもしれない。


 来るといい。


 私は匙を持ち、スープを一口飲んだ。


 温かい。

 自分で作った味。

 森の家の味。


 私は小さく頷いた。


「戻ったら、また作りましょう。」


 誰に言うでもなく呟く。

 言ってから、また少し顔が熱くなった。


 ――戻ったら。


 その言葉を、私はだんだん怖がらなくなっている。


 それが良いことなのか、危ういことなのかは分からない。

 でも、今はその言葉を胸に置いておきたかった。



 夜、針仕事を終えて帳面を開いた。


 注文の数。

 納期。

 材料。

 売上。


 その下に、今日の覚え書きを書く。


 茶布は少し縦長に。

 柄は包んだ時に見える角へ。

 薬草袋の鈴は八つ。

 

 そして、その下に、少し迷ってから小さく書いた。


 会いたいと思った。


 書いてすぐ、私は帳面を閉じた。


 心臓が少しうるさい。

 誰に見せるわけでもない帳面なのに。


 でも、消さなかった。


 外では鳥除けの鈴が鳴っている。

 蹄の音はしない。


 でも、もう聞こえない音を探して泣きそうになるだけではなかった。


 私は、会いたいと思った。


 その気持ちを抱えたまま、明日も起きる。


 火を起こす。

 畑を見る。

 針を持つ。

 町へ行く。

 暮らしていく。


 そして、戻る日を待つ。


 ――待つことは、ただ止まることではない。


 私は今日、ようやくそれを少しだけ知った。

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