第四十四話 はじめての小さな市
小さな市の朝は、思っていたより早く始まった。
夜明け前、まだ森の空が薄い藍色を残している頃、私は目を覚ました。
眠れなかったわけではない。むしろ、昨日は早めに寝た。
けれど、目が覚めた瞬間から胸の奥がそわそわしていた。
今日は市の日だ。
初めて、自分の作ったものを自分で並べる日。
そう思うと、寝台の中でじっとしていられなかった。
私はゆっくり起き上がり、まず窓を開けた。
朝の空気が入ってくる。夏でも朝だけは涼しい。
草の匂い。土の匂い。森の匂い。
庭では、鳥除けの鈴がまだ静かに揺れていた。
小さな音。
いつもの音。
もちろん蹄の音はしない。
それでも、今日はその静けさに沈み込んでいる暇はなかった。
「……頑張らないと。」
火を起こす。湯を沸かす。パンを少し温める。薄いスープを飲む。
市の日に空腹で倒れるわけにはいかない。
私はそう自分に言い聞かせながら、いつもより少し多めに食べた。
正確には、いつもより少し多めに食べようと努力した。
半分ほどで胃が緊張に負けそうになったが、そこでマーサの顔が浮かんだ。
食べな。
……絶対にそう言う。
ヴィルヘルムなら、食事は、と確認してくるだろう。
私は眉を寄せた。
「……今日は来ないでしょうに。」
来るはずがない。
王都にいる。
会議、執務、式典、きっと忙しくしているに違いない。
なのに、こんな時にも思い出す。
腹立たしい。
でも、その腹立たしさは、もう鋭くはなかった。
私は最後の一口を飲み込み、器を置いた。
机の上には、昨日から準備していた品物が並んでいる。
鈴飾り、茶布、値札、色印。
鳴らして選べます、の札、茶葉包みにも、の札。
小銭袋、マーサの台布。
そして、売るかどうか迷っていた鈴柄の茶布も。
私はその茶布を手に取った。
小さな鈴。
若葉。
細い線。
……離れていても、つながっているような線。
これは売り物だ。
小さな市に出すために作ったものだ。
そう思うのに、手放すことを考えると、少し惜しくなった。
でも、売り物として作ったのなら、売り場に並べるべきだ。
誰かがこれを見て、いいと思ってくれるかもしれない。
私は少し迷い、結局その茶布を籠に入れた。
「売れたら、それはそれで良いことよ。」
声に出してみる。
少しだけ、胸が痛んだ。
けれど、私は籠に布をかけ、玄関へ向かった。
玄関を開けると、ちょうどマーサが坂の下から上がってくるところだった。
籠を片手に、もう片方の手には小さな折りたたみ椅子を持っている。
「早いね。」
「目が覚めてしまいました。」
「緊張してる顔だ。顔が硬い。」
「していません。」
「してるよ。」
「……少しだけ。」
「少しだけなら上出来。」
マーサは笑い、私の籠を覗き込んだ。
「忘れ物は?」
「昨日、三度確認しました。」
「じゃあ、今もう一度確認する。」
「四度目です。」
「市の日は五度でもいい。」
結局、玄関先で一つずつ確認することになった。
鈴飾り、茶布、値札、色札、小銭袋、台布、予備の紐。
そして、針と糸。
「針と糸も必要ですか。」
「その場で紐がほどけるかもしれないだろ。」
「なるほど。」
「あと、水。」
「水?」
「あんた、緊張すると飲むのを忘れそうだから。」
完全に見抜かれている。
私は素直に水の入った小瓶を追加した。
森の道を下りる時、朝の光が少しずつ木々の間から差し込んできた。
町へ向かう道は、いつもより明るく感じる。
いや、私が緊張していて、すべてがはっきり見えているだけかもしれない。
マーサは横を歩きながら、何でもない調子で言った。
「今日は全部売ろうと思わなくていい。」
「そうなのですか。」
「そうだよ。初めての市は、顔を覚えてもらうだけでも十分。」
「顔を。」
「あんたが作ってるって知ってもらう。どういう音があるか知ってもらう。茶布の使い方を見てもらう。それが次につながる。」
次。
その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。
今日で全部決まるわけではない。
売れ残っても終わりではない。
次がある。
森の家で暮らすようになってから、私は少しずつその考え方を覚えている。
町に着くと、すでに通りはいつもより賑やかだった。
パン屋の前には焼きたての丸パンが並び、乾物屋は袋に入った豆や茶葉を小分けにしている。
古道具屋の老人は、椅子や古い鍋をゆっくり店先へ出していた。
焼き菓子を売る親子は、布を敷いた箱の上に小さな菓子を並べている。
ローレンスの店の前には、約束の木台が出ていた。
ローレンスが腕を組んで待っている。
「来たね。」
「おはようございます。」
「顔が硬い。」
「硬くありません。」
「硬いよ。」
マーサと同じことを言う。
私は返す言葉を失った。
ローレンスは笑いながら、台を指した。
「まずは布を敷こう。」
マーサの生成りの台布を広げる。
古い木台の傷が、布の下に隠れる。
その上に、鈴飾りを色別に並べる。
薄黄色。
青。
灰色。
くすんだ赤。
茶色。
薄緑。
白。
歪んだ音の鈴は、古道具屋の老人の言葉を思い出して、小さな籠に分けた。
札には「味のある音」とローレンスが書いてくれた。
私は最初、「歪んだ音」と書こうとしたのだが、ローレンスに止められた。
商売では、言い方が大事らしい。
茶布は右側に並べる。
双葉柄。
若葉柄。
鈴柄。
茶葉包みにも、の札をそっと添える。
最後に、鳴らして選べます、の札を中央に置いた。
並べ終えると、木台の上が思ったより華やかになった。
王宮や公爵家の飾り台とは違う。
高価ではない。
完璧でもない。
でも、色があり、音があり、手の跡がある。
私は少し離れて眺めた。
「……どうでしょう。」
「いいじゃないか。」
マーサが言った。
「ちゃんと市の店だ。」
ローレンスも頷く。
「立派な商品になったね。」
胸が少し熱くなった。
商品。
私の作ったもの。
私の店。
ほんの小さな木台一つ分だけれど、確かにそこにあった。
市が始まると、最初に来たのは子どもたちだった。
「鳴らしていいって書いてある。」
「どれが一番大きい音?」
「これ変な音!」
「こっちは高い!」
鈴が次々に鳴る。
ちりん。
からん。
りん。
少し掠れた音。
澄んだ音。
低い音。
思ったより賑やかで、私は一瞬固まった。
マーサが横で小さく言う。
「笑って。」
「え。」
「怖い顔だと子どもが逃げる。」
私は慌てて口元を緩めた。
笑えているだろうか。
分からない。
だが、子どもたちは気にせず鈴を鳴らしている。
そのうち、昨日の男の子が母親と一緒に来た。
「あ、これ!」
男の子は薄黄色の鈴飾りを指さした。
母親が少し笑う。
「昨日からずっと言っていたのよ。夜に怖くなったら、窓辺で鈴が鳴るから大丈夫だって。」
「それは、嬉しいです。」
本当に嬉しかった。
私は薄黄色の鈴飾りを手に取った。
「こちらは、音が少し柔らかいです。強い風で鳴っても、あまり大きすぎません。」
母親は鈴を鳴らした。
軽い音が響く。
「いいわね。これをください。」
「ありがとうございます。」
私は鈴飾りを布で包み、受け取った硬貨を小銭袋に入れた。
最初の音。
市で初めて売れた音。
胸の奥に、小さな灯りがともった。
次に来たのは、荷運びのトマスだった。
大きな体を少し屈めるようにして、くすんだ赤の鈴飾りを探している。
「妹さん用ですね。」
「はい。この前言ってたやつ、あります?」
「こちらです。赤ですが、少し落ち着いた色にしました。鈴も低めの音です。」
私はくすんだ赤の鈴飾りを差し出した。
トマスは鳴らして、少し笑った。
「これなら母にも怒られなさそうです。」
「妹さんが気に入ってくださるといいのですが。」
「気に入りますよ。前のやつも喜んでましたし。こういうの、あいつ好きなんで。」
妹の話をする時の顔が、とても優しかった。
私はそれを見るだけで、少し胸が温かくなった。
誰かを思って選ばれる鈴。
そういうものを作れたのだ。
乾物屋の奥さんは、茶布をじっくり見ていた。
「茶葉を包むなら、これくらいの大きさがいいね。」
「小さいでしょうか。」
「いや、ちょうどいい。少し上等な茶葉を分ける時に使うなら、この鈴柄がいい。」
「鈴柄ですか。」
「ええ。若葉柄も可愛いけど、鈴柄は贈り物っぽい。」
贈り物っぽい。
その言葉は少し意外だった。
私は茶布を一枚手に取る。
鈴と若葉。
細い線。
離れていてもつながっているような線。
乾物屋の奥さんは、それを丁寧に広げた。
「これ、いただくわ。」
一番迷っていた茶布だった。
売るかどうか悩んだもの。
私は一瞬だけ手が止まった。
マーサが横で見ている。
ローレンスも何も言わない。
これは売り物だ。
誰かが気に入ってくれた。
……なら、手放していい。
私は茶布を畳み、紙で包んだ。
「ありがとうございます。」
乾物屋の奥さんは微笑んだ。
「こっちこそ。今度、うちの茶葉をこれで包んでみるよ。見栄えが良かったら、またお願いするかもしれない。」
「はい。ぜひ。」
少し寂しい。
でも、それより大きく嬉しい。
私の作ったものが、誰かの店に並ぶかもしれない。
誰かの贈り物になるかもしれない。
そう思うと、胸が弾んだ。
古道具屋の老人は、しばらく他の店を見てから、ゆっくり戻ってきた。
「味のある音はどれだい。」
私は小さな籠を差し出した。
「こちらです。」
老人は一つずつ鳴らした。
ちりん。
りん。
少し掠れた音。
低く短い音。
その中から、灰色の鈴飾りを選んだ。
「これだな。」
「その音でよろしいのですか。」
「音が少し曲がっている。いい。」
「曲がっているのが、いいのですか。」
「ああ。まっすぐな音は外で鳴る。曲がった音は家の中に残る。」
よく分からないようで、少し分かる気もした。
老人は杖をつきながら硬貨を置いた。
「これは、うちの古い棚につける。」
「棚に?」
「引き出しを開けるたび鳴るようにな。忘れ物が減る。」
そんな使い方もあるのか。
私は思わず笑ってしまった。
「良い使い方だと思います。」
「だろう。」
老人は満足そうに頷き、灰色の鈴飾りを大事そうに懐へ入れた。
午前中の間に、鈴飾りは予想以上に売れた。
茶布も二枚売れた。
途中で私は、何度か値段を言い間違えそうになった。
一度、硬貨を受け取り損ねて台の上に落とした。
からりん、と硬貨が跳ね、子どもたちが笑った。
恥ずかしかった。
けれど、誰も責めなかった。
マーサが横で「落ち着きな」と言い、ローレンスが「最初はそんなものだ」と言った。
失敗しても、終わりではない。
私は少しずつ、そのことを体で覚えていく。
昼頃、パン屋の娘が母親と妹を連れて来た。
「薄緑、まだありますか?」
「はい。こちらです。」
薄緑の鈴飾りを見せると、妹の方が目を輝かせた。
「これ、森みたい。」
「森みたい?」
「うん。葉っぱの色。」
その言葉に、胸が少し揺れた。
――森の色。
あの人が王都へ持っていった色。
私は微笑むよう努めた。
「ありがとうございます。」
パン屋の妹は薄緑を一つ選び、母は青い鈴飾りを選んだ。
薄緑がまた一つ、誰かの手に渡る。
そのことが、少し不思議だった。
薄緑はヴィルヘルムだけの色ではない。
森の色。
葉の色。
この町の誰かの窓辺にも、腰紐にも、籠にもつく色。
そう思うと、少しだけ胸が軽くなった。
午後になると、人の流れが少し落ち着いた。
私は水を飲み、マーサが持たせてくれた小さなパンをかじった。
「食べな。」
「食べています。」
「もう一口。」
「はい。」
完全に子ども扱いだ。
でも、朝よりずっと緊張は解けていた。
台の上を見る。
鈴飾りは、半分近く減っている。
茶布も四枚売れた。
小銭袋は、朝よりずっと重い。
重い。
私の仕事の重みだ。
私はそっと袋を持ち上げた。
からり。
硬貨が鳴る。
その音を聞いた瞬間、ふいに思った。
見せたい。
この台を。
この鈴を。
この重くなった小銭袋を。
ヴィルヘルムに。
――戻ったら確認してください。
そう言ったのは私だ。
でも、本当は今すぐ見てほしかった。
ちゃんとできました、と言いたかった。
売れました、と言いたかった。
茶布も、鈴飾りも、町の人が手に取ってくれました、と。
私はここで、ちゃんと進んでいます、と。
そう思った瞬間、胸の奥がきゅっと痛んだ。
マーサが横から私を見た。
「どうした。」
「いえ。」
「疲れた?」
「少し。」
「嘘だね。」
「……どうして分かるのですか。」
「疲れた顔じゃない。見せたい人がいない顔だ。」
私は息を止めた。
マーサは何でもないように、台の上の鈴を整えている。
「そういう顔をしてた。」
「……。」
「いいじゃないか。戻ったら見せれば。」
「戻ったら。」
「そう。戻ったら。」
戻ったら。
その言葉は、いつも少し怖い。
でも今日は、少し支えにもなった。
戻ったら見せる。
この売上を。
市の話を。
乾物屋の奥さんが茶布を買ってくれたこと。
古道具屋の老人が歪んだ鈴を選んだこと。
子どもが夜の窓辺につけると言ってくれたこと。
トマスが妹にまた贈ると言ったこと。
薄緑の鈴が、森みたいと言われたこと。
全部、話せるだろうか。
話したい。
その言葉が、胸の中にはっきり浮かんだ。
会いたい、ではない。
まだ、そこまでは。
ただ、話したい。
見せたい。
聞いてほしい。
それだけだ。
それだけのはずだ。
市が終わる頃、夕方の光が町の通りを柔らかく染めていた。
最後に売れたのは、白い鈴飾りだった。
買ったのは、薬草売りの未亡人エダだった。
彼女は薬草を小さな袋に詰めて売っていて、いつも落ち着いた灰色の服を着ている。
「薬草袋につける目印にしようと思って。」
「目印ですか。」
「ええ。似た袋が多いからね。白い鈴なら、乾燥棚でもすぐ分かる。」
「なるほど。」
「音も小さいし、ちょうどいい。」
エダは鈴飾りを手に取り、優しく鳴らした。
「薬草の匂いの中に、鈴の音があるのも悪くないわ。」
薬草。
軟膏。
ヴィルヘルムが預けた紙包み。
ふいに思い出したが、今は胸を押さえるほどではなかった。
「ありがとうございます。」
私は白い鈴飾りを包んだ。
エダは硬貨を置き、少しだけ私の顔を見た。
「無理はしないことね。手仕事をする人は、指と目を大事にしないと。」
「はい。」
また言われた。
私は少し笑った。
町の人たちは、なぜこんなに私の無理を心配するのだろう。
いや、理由は分かっている。
たぶん、私は無理をする顔をしているのだ。
市が終わると、台の上は朝とは別の景色になっていた。
鈴飾りはかなり減った。
茶布も残り三枚。
味のある音の籠は空になった。
値札は少しずれている。
台布には、鈴の小さな跡や、硬貨を置いた跡が残っていた。
私はしばらくそれを眺めた。
「終わったね。」
マーサが言った。
「はい。」
「どうだった。」
私はすぐには答えられなかった。
楽しかった。
緊張した。
恥ずかしかった。
嬉しかった。
疲れた。
見せたかった。
たくさんの気持ちが混ざって、言葉にならない。
それでも、私は小さく言った。
「……また、やりたいです。」
マーサは満足そうに笑った。
「なら成功だ。」
ローレンスも頷く。
「売上も成功だよ。」
小銭袋を渡される。
朝よりずっと重い。
私は両手で受け取った。
この重さを、忘れたくないと思った。
森の家へ戻る頃には、空は茜色になっていた。
籠は朝より軽い。小銭袋は重い。足は少し疲れている。
でも、心は不思議と温かかった。
家に着くと、まず畑を見に行った。
若葉は夕暮れの光の中で静かに揺れている。
鳥除けの鈴が鳴った。
「売れたわ。」
私は畑に向かって言った。
「鈴も、茶布も。ちゃんと。」
若葉が風に揺れる。
返事のようだった。
台所に入り、机の上に小銭袋を置く。
からり、と硬貨が鳴った。
その横に、預かった軟膏の紙包みがある。
私はそれを見た。
「……戻ったら、話すことが増えたわ。」
呟いてから、少しだけ顔が熱くなった。
話すことが増えた。
それだけだ。
それだけなのに、胸の奥がやわらかくなる。
私は売れ残った鈴飾りを机に並べた。残った茶布も。
そして、今日の売上を帳面に書こうとした。
ローレンスが数字を書いてくれた控えを見ながら、間違えないように一つずつ。
小さな字で、日付。
市。
鈴飾り。
茶布。
売上。
その下に、少し迷ってから、私は小さく一行を書き足した。
またやりたい。
帳面に書くことではないかもしれない。
……でも、書いておきたかった。
私は帳面を閉じ、灯りを少し弱めた。
外では、鳥除けの鈴が夜風に揺れている。
ちりん。
今日の鈴は、遠くなかった。
ここにあった。
私の手の届く場所に。
町の人たちの手の中に。
そして、遠い王都にも一つ。
そう思うと、蹄の音がしない夜でも、少しだけ寂しさがやわらいだ。
私は小銭袋を両手で包んだ。
重い。
温かい。
これは、私が今日一日で得たものだ。
お金だけではない。
名前を呼ばれたこと。
説明できたこと。
笑ってもらえたこと。
またやりたいと思えたこと。
私はちゃんと進んでいる。
そう、今日は少しだけ信じられた。
私は目を閉じ、心の中で誰にともなく報告した。
市は、無事に終わりました。
ちゃんと、できました。
戻ったら、確認してください。
そう思った瞬間、胸の奥が少し痛んだ。
でも、その痛みは嫌ではなかった。
誰かに見せたいものがある。
誰かに話したいことがある。
それは、寂しさと同じくらい、温かいものなのだと、私はその夜初めて知った。




