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第四十三話 鈴と若葉と市支度

 ヴィルヘルムが王都へ発ってから、一か月が過ぎた。


 一か月。

 まだたったの三十日。


 特に夕方になると時間は長く、薄く伸びるように感じた。


 最初の数日は、夕暮れが来るたびに胸が落ち着かなかった。


 窓の外を見る。

 森の道へ耳を澄ます。

 鳥除けの鈴が鳴る。

 蹄の音はしない。


 当然だ。

 王都へ行ったのだから。


 戻るには最低三か月ほどかかると言っていたのだから。


 そう分かっているのに、体が勝手に待ってしまう。

 それが悔しかった。


 そして、少しだけ恥ずかしかった。


 しかし、日が経つにつれ、待つことにも少し型ができてきた。


 朝は火を起こす。湯を沸かす。

 畑を見る。若葉の虫を払う。水をやりすぎないよう土に触れる。

 昼は鈴飾りと茶布の準備。

 夕方はまた畑。

 夜は下絵と針仕事。


 蹄の音を探す耳は、まだ残っている。

 けれど、手は動くようになった。


 寂しくても、仕事はできる。

 マーサの言葉は正しかった。


 私は台所の机に布を広げた。

 小さな市まで、あと十日。


 ローレンスの店の前に、簡単な台を出してもらえることになっている。

 隣にはパン屋。向かいには乾物屋。

 少し離れたところには、古道具を売る老人と、焼き菓子を売る親子が出るらしい。


 市といっても、王都の大市のようなものではない。

 町の人たちが日用品や手作りのものを持ち寄る、小さな催しだ。


 けれど、私にとっては大きなことだった。


 初めて、自分の作ったものを自分で並べる。

 売れるかどうかを、自分の目で見る。


 お客と話す。

 値段を伝える。

 品物を渡す。


 それを考えるだけで、胃のあたりが少し落ち着かなくなる。


 王宮の舞踏会で何百人の前に出るより、小さな市で鈴飾りを並べる方が緊張する気がした。


 おかしな話だ。

 でも、本当にそうだった。


 私は布の上に完成した鈴飾りを並べた。


 薄黄色。

 灰色。

 薄緑。

 青。

 くすんだ赤。

 茶色。

 白。


 それぞれ、音の違う鈴を合わせている。


 高く澄んだ音。

 少し低い音。

 歪んでいるけれど柔らかい音。


 鳴らすと、机の上で小さな音が重なった。


「……うるさすぎるかしら。」


 思わず呟く。


 庭の鳥除けの鈴は、数を減らしてちょうどよくなった。

 でも商品として並べるなら、やはり少し賑やかな方がよいのかもしれない。


 分からない。

 分からないことばかりだ。


 私は値札用の紙を取り出した。

 ローレンスが太く書いてくれた数字。


 見やすい。

 大変見やすい。

 私の字よりずっと商売に向いている。

 少し悔しいが、認めざるを得ない。


 その横に、マーサが考えてくれた色印を置く。


 黄色の印。

 青の印。

 緑の印。


 子どもでも分かるように。

 これも、私にはなかった考え方だ。


 私は一つずつ確認していく。


 鈴飾りは二十八個。

 茶布は八枚。

 双葉柄が三枚。

 若葉柄が二枚。

 鈴柄が三枚。


 鈴柄の茶布は、最後まで迷った。


 小さな鈴。

 その横に若葉。

 そして、鈴と若葉をつなぐ細い線。

 離れていても、どこかでつながっているような線。


 ただの飾りだ。

 売り物の柄だ。

 それ以上の意味はない。

 ……ないはずだ。


 しかし、その線を刺す時だけ、少し指先が慎重になった。


 左手の傷は、もうほとんど治っている。布を巻く必要もない。

 それでも、傷のあたりに軟膏を塗るたび、ヴィルヘルムの手を思い出す。


 ――触れます。

 ――今は、本当に確認です。


 表情は真剣で、手つきは丁寧だった。


 思い出すと、針を持つ指が少し止まる。


 私は首を振った。


「今は、市の準備。」


 声に出す。

 これは便利だ。

 声に出すと、余計なことを少し押し戻せる。


 その時、玄関の扉が叩かれた。


「レベッカ、いるかい。」


 マーサだ。


「はい。」


 扉を開けると、マーサは大きな布包みを抱えて立っていた。


「台にかける布を持ってきたよ。店の木台が古いから、これを敷くと見栄えがいい。」


「ありがとうございます。」


「礼は売れてからにしな。」


 マーサは台所へ入ると、机の上の鈴飾りを見て目を細めた。


「ずいぶん増えたね。」


「作りすぎでしょうか。」


「市ならこのくらいあっていい。選ぶ楽しみがある。」


「ローレンスさんにも同じことを言われました。」


「あの人も商売人だからね。」


「マーサさんも、商売人みたいです。」


「暮らしはだいたい商売だよ。何を出して、何を受け取るかだ。」


 相変わらず、なんでも暮らしの話にする。

 でも、妙に納得してしまう。


 マーサは鈴柄の茶布を手に取った。


「これ、いいね。」


「本当ですか。」


「ああ。小さな鈴と若葉。あんたの家みたいだ。」


「ローレンスさんにも、森の家らしいと言われました。」


「そうだろうね。」


 マーサは茶布の端を指で撫でる。

 細い線のところで、少し笑った。


「この線も残したんだね。」


「飾りです。」


「うんうん。」


「その顔は信じていませんね。」


「信じてるよ。飾りだろ。」


「絶対に信じていません。」


 マーサは笑いながら、台布を広げた。


 くすんだ生成りの布だった。

 端に少しだけ刺繍がある。

 派手ではないが、木台に敷くと品物が見やすくなりそうだ。


「これ、よろしいのですか。」


「古いものだよ。しまい込んでた。」


「でも綺麗です。」


「使わなきゃ布も眠ったままだ。あんたの鈴を乗せるなら、布も喜ぶさ。」


 布が喜ぶ。


 マーサは時々、物にも心があるような言い方をする。

 王宮では聞かなかった言葉だ。


 でも森の家で暮らすようになってから、少し分かる気がしてきた。


 磨いた床。

 直した柵。

 育つ若葉。

 鳴る鈴。

 使われる布。


 どれも、誰かの手が入ると、少し生き返るように見える。


「市の日は、私も隣にいるよ。」


 マーサが言った。


「え。」


「最初から一人で売り子は緊張するだろ。値段を聞かれて固まりそうだしね。」


「固まりません。」


「固まるよ。」


「……少しだけ。」


「少しだけ固まるって何だい。」


 マーサは笑った。

 その笑いに、少し救われる。


 初めての市。

 不安はある。


 でも、マーサがいてくれる。

 ローレンスもいる。

 町の人たちも、少しずつ顔見知りになっている。


 私は完全に一人ではない。


 そのことに気づくたび、胸の奥が温かくなる。



 昼過ぎ、私はマーサと一緒にローレンスの店へ向かった。

 台布の大きさを合わせるためだ。


 道の途中で、荷運びの青年が大きな木箱を肩に担いで歩いていた。

 材木屋の荷を運んでいた若い店員だ。以前妹用にと、青い布飾りを買ってくれた。

 名前はたしか、トマス。


「あ、森の家の。」


 青年は足を止めた。


 ――森の家の。


 私は一瞬、自分のことだと気づくのが遅れた。


「こんにちは。」


「こんにちは。市に出すんですよね、鈴のやつ。」


「はい。鈴飾りと茶布を少し。」


「妹がまた欲しがってて。派手なものが好きなんですけど、母に目立ちすぎるって怒られるんです。どんなのがいいですかね。」


 突然聞かれ、私は少し固まった。

 マーサが横で小さく笑う。


「妹さんは、おいくつですか。」


「十です。赤が好きで、でも母には落ち着いたものにしろって言われる。」


 難しい。

 私は籠の中の見本を思い浮かべた。


「くすんだ赤なら、明るすぎず、でも赤らしさもあります。鈴の音は少し低めのものにすれば、騒がしくなりすぎないと思います。」


「へえ。じゃあ、それ見に行きます。市の日、早めに寄ります。」


「ありがとうございます。」


 自然に礼が出た。

 トマスは木箱を担ぎ直し、少し照れたように去っていった。


 マーサが横で言う。


「うまく説明できたじゃないか。」


「手が少し汗ばみました。」


「最初はそんなもんだよ。」


 私は手を握った。


 自分で説明して、相手が選ぼうとしてくれる。

 それは少し緊張したが、嬉しかった。


 町に着くと、ローレンスの店はいつも以上に賑わっていた。

 店の前に、木箱や布がいくつか出ている。

 小さな市に向けて、商品を整理しているらしい。


 ローレンスは店先で荷を確認していた。


「来たね。」


「こんにちは。」


「指は?」


「もう大丈夫です。」


「大丈夫という言葉は信用が低い。」


「皆さん、同じことを言いますね。」


「実績があるからね。」


 ひどい。

 しかし反論しづらい。


 ローレンスは店先に木台を出してくれた。


「台はこれを使う。」


 木台は古いが、しっかりしていた。

 少し傷があり、角は丸く削れている。


 私はそれを見て、少し親近感を覚えた。


「傷物ですね。」


「使い込まれていると言ってくれ。」


「すみません。」


「いや、傷物でも役に立つ。おまえさんとこの鈴と同じだ。」


 ローレンスは軽く言った。

 その言葉が、胸に落ちた。


 傷物でも役に立つ。

 私が最初に鈴を買った時、そう思った。


 完璧でなくても音は鳴る。

 今も、その考えは変わらない。

 むしろ、前より少し深く分かる。


 傷があるから終わりではない。

 少し歪んでいても、誰かの手に渡れば、音になる。


 マーサが台布を広げた。

 生成りの布が木台の上にかかると、古い台が少し明るく見えた。


 その上に、試しに鈴飾りを並べてみる。


 色別。

 音別。

 値札。


 茶布は右側。

 鈴柄は手前。

 若葉柄は奥。


 双葉柄は高さをつけて見せるため、小さな箱の上に置く。


 ローレンスは腕を組んで眺めた。


「いいね。」


「本当ですか。」


「商品らしくなった。」


「今までは?」


「品物だった。」


「違うのですか。」


「違うよ。商品は、誰かが手に取りたくなるように並べて初めて商品になる。」


 なるほど。

 また一つ、商売を教わった。


 マーサが鈴を一つ鳴らす。


「音を試せる場所を作るといい。ここに小さな札を置こう。『鳴らして選べます』ってね。」


「ローレンスさん、書いていただけますか。」


「もちろん。」


 ローレンスはすぐに紙を取り出し、太い字で書いてくれた。


 鳴らして選べます。


 大きくて、分かりやすい。

 商売の字だ。


 私はそれを見て、少し笑ってしまった。


「何だい。」


「いえ。私には書けない字だと思って。」


「褒めてるのか?」


「褒めています。」


「ならいい。」


 店先に並べた鈴飾りを、通りがかった子どもが見つけた。


「鳴らしていいの?」


 小さな男の子が聞く。

 私は一瞬、どう答えるべきか迷った。

 マーサが横で肘を軽くつつく。


「はい。そっと鳴らしてください。」


 言えた。

 男の子は嬉しそうに鈴を鳴らした。


 ちりん。

 ちりん。


「こっちの方が変な音。」


「それは傷物の鈴です。でも、ちゃんと鳴ります。」


「変な音、面白い。」


 男の子は笑った。

 母親が後ろから「買うのは市の日よ」と言って、男の子の肩に手を置く。


「でも、これくらいの音なら窓辺につけてもよさそうね。うるさすぎないし。」


「窓辺に、ですか。」


「ええ。うちの子、夜になると少し怖がるから。風で鳴るものがあると、気が紛れるかもしれないわ。」


 私は、男の子が握っている薄黄色の鈴飾りを見た。

 子どもの夜を少しだけ明るくする鈴。

 そういう使い方もあるのだ。


「市の日には、音の違うものをいくつか並べます。よければ、鳴らして選んでください。」


「そうさせてもらうわ。」


 母親はそう言って、男の子を連れていった。

 その後、乾物屋の奥さんが茶布を手に取った。


「これ、茶葉を小分けにする時にいいね。」


「茶葉に、ですか。」


「そう。紙だけで包むより見栄えがする。ちょっとした贈り物にできるだろう?」


 茶布は、茶を飲む時に使うものだとばかり思っていた。

 けれど、包むためにも使える。


 私は慌てて頷いた。


「その使い方は、考えていませんでした。」


「じゃあ、書いておくといいよ。『茶葉包みにも』って。」


 ローレンスが横からすぐに紙を出した。


「いいね。追加の札だ。」


 彼は太い字で、茶葉包みにも、と書いてくれた。

 商売の字が、また一つ増えた。


 次に立ち止まったのは、古道具屋の老人だった。杖をつきながら、ゆっくり近づいてくる。


「歪んだ鈴はどれだい。」


「歪んだもの、ですか。」


「ああ。綺麗すぎる音は耳に残らん。少し曲がった音の方が、家に馴染む。」


 私は灰色の鈴飾りを一つ鳴らした。

 ちりん、というより、少し掠れた音がした。

 老人は満足そうに頷く。


「それだ。市の日まで取っておいてくれとは言わんが、そういうのをいくつか並べな。分かる者には分かる。」


 分かる者には分かる。


 その言葉が、妙に胸に残った。


 傷物でも、歪んでいても、分かる人には届く。


 私は小さく頷いた。


「はい。歪んだ音のものも、分けて並べます。」


「それがいい。」


 老人はそう言って、ゆっくり去っていった。

 少し遅れて、パン屋の娘も顔を出した。


「市の日、母と妹を連れてきますね。薄緑、残っているといいな。」


「薄緑は、いくつか用意しています。」


「よかった。楽しみにしてます。」


 彼女は明るく笑い、パンの入った籠を抱えて戻っていった。


 短いやり取りだった。

 けれど、私は少しほっとした。


 この町には、いろいろな人がいる。

 それぞれが違う理由で、鈴や茶布を見てくれる。


 子どものため。

 妹への贈り物。

 茶葉を包むため。

 家に馴染む音を探すため。

 魔除けのように窓辺へ吊るすため。


 私は、自分の作ったものが、私の想像していなかった暮らしの中へ入っていくのだと知った。


 そのあとも、何人かが店先の準備を覗いていった。


 花屋の奥さんは、茶布を広げて「これなら器が上等に見えるね」と笑った。

 パン屋の息子は、遠くから手を振って通り過ぎた。

 子どもたちは札を読んで、鳴らしていいのだと喜んだ。

 金物屋の主人は、店先の椅子に腰を下ろし、歪んだ鈴の音を一つ試した。


 そのたびに、ローレンスは自然に私の品物の話を出してくれた。


「小さな市で並べる予定だよ。」


「音を選べるようにするつもりでね。」


「茶布は茶葉包みにも使えるらしい。」


「歪んだ鈴は、分かる人には分かるそうだ。」


 私は横で少し恥ずかしくなりながら、説明をした。


 紐の長さ。

 鈴の音。

 布の色。

 茶布の柄。


 話しているうちに、少しずつ分かってくる。


 これは、私の仕事なのだ。


 誰かに与えられた役目ではない。

 王太子妃教育の一環でもない。

 公爵家の娘としての義務でもない。


 自分で作り、自分で説明し、誰かに買ってもらう仕事。


 責任もある。

 不安もある。


 でも、嬉しさもある。


 店を出る頃には、持ってきた鈴飾りのうち一つがすでに売れていた。

 薄黄色のものだった。


 買ったのは、小さな女の子を連れた母親だ。

 子どもが何度も鳴らして笑い、母親が「お守りみたい」と言って選んでくれた。


 その場で売れた硬貨が、私の手に乗る。

 からり。

 軽い音。


 でも、確かな音。


 私はその硬貨を握った。


 蹄の音がしない日々にも、別の音は増えていく。


 鈴の音。

 硬貨の音。

 鍋の音。

 人の声。


 私の暮らしは、無音にはならない。


 帰り道、マーサが横で言った。


「いい顔をしてるよ。」


「そうでしょうか。」


「ああ。仕事してる顔だ。」


「仕事。」


「うん。あんたの仕事だ。」


 私は籠を抱え直した。

 中には鈴飾りと、注文の控えと、鈴柄茶布の下絵。


 重くはない。

 けれど、胸には確かな重みがあった。


「ヴィルヘルム殿下が戻る頃には。」


 言いかけて、私は少し止まった。

 マーサは黙って待っている。

 私は、言葉を選び直した。


「戻る頃には、もっと良いものを作れるようになりたいです。」


「そうだね。」


「畑も、収穫が始まるでしょうし。」


「そうだね。」


「市も、うまくいくといいのですが。」


「準備すれば大丈夫だよ。」


「大丈夫でしょうか。」


「大丈夫って言葉の信用は下がってるんじゃなかったかい。」


 私は思わず笑った。


「また。それは殿下の言葉です。」


「いい言葉は使うって言っただろ?」


「失礼な言葉です。」


「でも効いてるからね。」


「……はい。」


 効いている。

 とても。


 森の家へ戻ると、夕方の光が庭に落ちていた。

 私は畑に水をやり、鳥除けの紐を少し直した。


 蹄の音はやはりしない。


 でも、私の暮らしの音は増えていく。


 

 夜、私は鈴柄の茶布の下絵を机に広げた。


 鈴。

 若葉。

 細い線。


 お守りみたい、と子ども連れの母親は言った。

 歪んだ音は家に馴染む、と古道具屋の老人は言った。

 茶葉包みにも使える、と乾物屋の奥さんは言った。

 妹に贈りたい、と荷運びの青年は言った。


 私が作ったものに、私の知らない使い道が増えていく。

 それが、不思議で、少し嬉しかった。


 私は細い線を少しだけ濃くした。


 ――離れていても、つながっているように。


 そんな意味はない。

 これは売り物の柄だ。

 小さな市に出す茶布だ。

 それ以上の意味はない。

 ……ないはずだ。


 でも、私はその線をやはり消せなかった。


 机の上には仕事がある。

 畑には若葉がある。

 町には、私の作った鈴を待ってくれる人がいる。


 私は針箱の蓋をそっと閉めた。


「ちゃんと進むわ。」


 小さく呟く。


 蹄の音がしない日々でも。

 私は、ちゃんと進む。

 小さな市へ向けて。


 この森の家で。

 私の場所で。


 彼を待ちながら。

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