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第四十二話 王都の白い食卓

 王都の食卓は、完璧だった。


 白い石造りの美しい宮殿。

 高い天井に描かれた壁画。

 磨き抜かれた銀器。

 一点の曇りもない陶器の皿。

 鮮やかな香辛料の香り。

 給仕たちの足音は静かで、手の動きには無駄がない。


 葡萄酒の色は宝石のように澄み、肉料理の焼き加減は寸分の狂いもない。

 皿の縁に添えられた香草の角度まで、計算されている。


 十年ぶりに戻った王宮は、相変わらず美しかった。


 美しすぎるほどに。


 ヴィルヘルムは、目の前に置かれたスープを見下ろした。


 琥珀色の澄んだスープ。

 香り高く、温度も完璧だ。

 王宮の料理人が誇りをもって出した一皿だと分かる。


 けれど、匙を取った瞬間、彼の脳裏に浮かんだのは別の食卓だった。


 少し傾いた小さな机。

 二つだけ並んだ器。

 豆と根菜のスープ。

 湯気の中で揺れる、まだ小さな若葉。


 王宮の食器とは比べものにならない素朴な器。


 そして、緊張した声。


 ――王宮の食事とは比べないでください。

 ――公爵領館とも。


 あれは、森の家の食卓だった。


 彼女が火を起こし、鍋を見て、塩を加減し、自分の畑から摘んだ若葉を入れた食事。


 質素だった。

 けれど、温かかった。


 この王宮の食卓には、何も欠けていない。

 何もかもが完璧に整っている。


 それなのに、ヴィルヘルムはふと、あの小さな若葉の青い匂いを思い出した。


「ヴィルヘルム。」


 向かいから声が飛んだ。

 第一王子アルフォンスが、やや呆れた顔でこちらを見ている。


「十年ぶりの祖国の王宮料理だぞ。感慨に浸るのはいいが、料理が冷める。」


「はい。」


「その返事は、聞いていない時の返事だな。」


「聞いています。」


「聞いている顔ではない。」


 隣で第二王子ヘンリックが小さく笑った。


「兄上、ヴィルヘルムは昔からこういう顔です。何を考えているか分からない。十年経っても変わっていませんね。」


「……変わっているところもあります。」


 ヴィルヘルムは静かに言った。

 アルフォンスが眉を上げる。


「ほう。たとえば?」


「食事の評価基準が変わりました。」


「十年ぶりの帰還で最初に語る変化が、それか?」


「重要です。」


「重要なのか。」


「はい。」


 王妃が口元を扇で隠して静かに笑った。

 上座で、現王ユリウスが静かに杯を置く。


「何と比べている。」


 王の声に、食卓の空気がわずかに引き締まった。

 ヴィルヘルムは答えるまで、一拍置いた。


「森の家の食卓です。」


 宰相エーベルハルトの眉が、わずかに動いた。

 アルフォンスは目を細める。


「森の家。」


「はい。」


「例の令嬢の家か。」


「はい。」


 その返答に、食卓の温度がほんの少し変わった。

 誰もすぐには口を開かなかった。

 給仕たちは空気を読んで、必要な動きだけを続ける。


 王都の白い食卓に、森の家の名が落ちた。


 質素な古い家。

 公爵領の端にある、旧い森の家。


 そこにいる、かつて隣国エルセリアの公爵令嬢だった女。

 今は罪人として婚約を破棄され、国外に追われ、平民として暮らしている女。


 ――レベッカ。


 その名を、誰もこの場で軽々しく口にしなかった。


 王はしばらくヴィルヘルムを見つめた。


「食事の席で、その話を始めるつもりか。」


「必要であれば。」


「必要ではない。」


「では、会議の席で。」


 アルフォンスが思わず葡萄酒を噴きそうになった。


「相変わらずだな、お前は。」


「何がでしょう。」


「父上に対して、少しも婉曲に言わないところだ。」


「婉曲にしても結論は変わりません。」


「それが婉曲でないと言っている。」


 ヘンリックが肩を震わせている。

 王妃は扇で顔を隠しているが、手元が少し震えていた。


 宰相エーベルハルトだけは笑っていなかった。

 彼は、じっとヴィルヘルムを見ていた。

 その目は、老獪な政治家の目だった。


 食事が終わると、ヴィルヘルムはすぐに会議室へ呼ばれた。


 当然の流れだった。

 王都へ戻った第三王子を、ただ歓迎するためだけに王族と宰相が集まっているわけではない。


 帰還式典。

 王太子選定会議。

 公爵領の引き継ぎ。

 隣国の情勢。


 そして、追放された令嬢。


 議題は多すぎるほどあった。


 会議室は、食堂よりもさらに冷たかった。


 白い石の壁。

 重厚な長机。


 正面に国王ユリウス。

 右に、これまで王太子候補筆頭と見なされてきた第一王子アルフォンス。

 左に、軍部からの支持が厚い第二王子ヘンリック。

 その隣に宰相エーベルハルト。

 さらに数名の老臣と、王族会議に名を連ねる公爵家の代表者。


 ヴィルヘルムは下座ではなく、王族席の一つへ案内された。


 十年前とは違う席。

 質子として差し出される前の、幼い第三王子の席ではない。


 帰還した王族として。

 そして、王太子候補として。


 彼はその席に座った。


 最初に口を開いたのは、宰相エーベルハルトだった。


「殿下。まずはご帰還を心よりお喜び申し上げます。」


「ありがとうございます。」


「ただし、喜んでばかりもいられません。」


「承知しています。」


「では、王太子選定の前提から確認いたします。」


 エーベルハルトが机に一枚の厚い資料を置いた。


「我が国アインシュヴァルドは、長子相続によって王太子を定める国ではありません。王族会議、貴族院、軍部、宰相府の承認を経て、次代に最もふさわしい王族を選定する。」


「はい。」


「これまでは、第一王子アルフォンス殿下が筆頭候補と見なされてきました。」


 アルフォンスは表情を変えない。

 エーベルハルトは続けた。


「アルフォンス殿下は、国内貴族の調整に長け、人望も厚い。平時の王としては申し分ない器です。」


「褒めてから落とす流れだな。」


 アルフォンスが軽く言う。

 エーベルハルトは無視した。


「第二王子ヘンリック殿下は、軍部との関係が強く、決断も早い。騎士団からの信頼も篤い。」


「こちらも落とされそうですね。」


 ヘンリックが穏やかに言う。


「はい。」


「正直ですね。」


「必要ですので。」


 エーベルハルトは淡々と続けた。


「しかし、今後十年の我が国最大の課題は、国内平定でも単純な軍事行動でもありません。エルセリア王国をどう扱うかです。」


 会議室の空気が重くなる。

 エーベルハルトは机の上に別の資料を並べた。


「エルセリアはすでに弱体化しています。王族派と貴族派は割れ、国民は貧困に喘ぎ、王室財政は不安定です。いずれ我が国の食糧、燃料、債務整理、交易保護を必要とするでしょう。」


 王は静かに頷いた。

 エーベルハルトは資料を指先で叩く。


「確かに隣国との再開戦を望む声もあります。しかし十年前と違い、あちらの国土の荒廃、国民の困窮は明らかです。我々が勝ったところで、戦後の難民受入れや荒廃した国土の回復を考えれば、得るものが少ないのは明白でしょう。さすれば、これから我が国に必要なのは、剣を抜く王ではありません。剣を抜かずに、相手国の膝を折らせる王です。」


 室内が静まり返った。


 その言葉は、柔らかい政治用語ではなかった。

 だが、誰も否定しなかった。


 エーベルハルトは続ける。


「アルフォンス殿下は国内調整に優れる。ヘンリック殿下は軍をまとめる才がある。ですが、エルセリアの内情を知り、法、財政、債務、貴族関係、国民感情、外交圧力を同時に扱える人物となると。」


 彼は、ヴィルヘルムを見た。


「第三王子ヴィルヘルム殿下。あなたを置いて他にいない。」


 アルフォンスも、ヘンリックも、黙っていた。

 ヴィルヘルムは表情を動かさない。


「私は十年、王都にいませんでした。」


「空白ではありません。」


 エーベルハルトは即座に言った。


「殿下の質子期間は、我が国から見れば痛恨の政治判断でした。しかし同時に、敵国中枢での十年でもありました。」


 人質。

 敵国中枢。


 その二つの言葉が、会議室に重く落ちる。

 王の顔に、深い影が差した。


 エーベルハルトは続けた。


「殿下がエルセリアから送った報告により、我が国が外交上優位に立てた局面は少なくありません。王室財政の実態、侯爵家の旧債務、貴族派の分裂、穀物不足、軍備更新の遅れ。いずれも我が国の交渉材料となりました。」


 ヘンリックがわずかに眉を動かす。


「報告?」


「密書です。」


 エーベルハルトが答えた。

 アルフォンスがゆっくりヴィルヘルムを見る。


「お前、そんなことをしていたのか。」


「必要でしたので。」


「敵国の王宮で?」


「はい。」


「見つかれば、ただでは済まなかっただろう。」


「はい。」


「それを十年?」


「毎回ではありません。」


「毎回でなければいいという話ではない。」


 ヴィルヘルムはわずかに首を傾げた。


「頻度にも留意すべきでしたか。」


「自ら危険な橋を渡るなと言っている。」


「状況によります。」


 エーベルハルトが額を押さえた。


「殿下、そこは『承知しました』で済ませてください。」


「承知しました。」


「嘘ですね。」


「はい。」


「そこで認めないでください。」


 会議室にわずかな笑いが落ちた。

 だが、笑いはすぐに消えた。


 王が静かに口を開いたからだ。


「ヴィルヘルムを質子に出した時、私はただ幼い子を差し出したわけではない。」


 その声は、王のものだった。

 だが同時に、父親の声でもあった。


「非情な判断だったことは分かっている。」


 王妃がいれば、顔を伏せただろう。

 アルフォンスとヘンリックも、表情を硬くした。


 ヴィルヘルムだけが、静かに父王を見ていた。


「三人の子の中で、最も耐えられる可能性があったのは、お前だった。最も幼かったが、最も観察し、最も黙り、最も折れにくかった。」


 王は言葉を切った。


「私はそれを見抜いていた。いや、見抜いていたと言えば聞こえはいい。ただ、利用したのだ。」


「陛下。」


 エーベルハルトが低く呼んだ。

 だが王は止まらなかった。


「お前ならば耐える。お前ならば逆境をただの傷で終わらせず、何かを持ち帰る。そう考えた。王としては正しかったかもしれぬ。父としては、二度と口にすべきではない言葉だ。」


 会議室が沈黙した。


 アルフォンスは拳を握っている。

 ヘンリックは目を伏せている。


 ヴィルヘルムは、何も言わなかった。


 王は続けた。


「その見立てが正しかったと知るたび、私は誇るより先に恥じている。」


「父上。」


 ヴィルヘルムが初めて、陛下ではなくそう呼んだ。

 王の目がわずかに揺れる。


「私は生きて戻りました。」


「……ああ。」


「持ち帰るものもあります。」


「そうだな。」


「では、それを使います。」


 その声は静かだった。

 責める声ではなかった。

 許す声でもなかった。

 ただ、事実を置く声だった。


 エーベルハルトは深く息を吐き、次の資料を出した。


「帰還後の実務についても確認します。殿下はエルヴァルト公爵領に入り、現公爵のもとで引き継ぎを行いました。」


 机に、別の報告書が並べられる。


「わずか三か月足らずの間に、旧街道の関税徴収の不正を発見。代官二名を更迭。備蓄麦の移送計画を組み直し、来年度の赤字見込みを三割削減。国境付近の密輸路を把握。さらに、リュミエール侯爵家が募っている土木投資話に関係する商会名をすでに洗い出している。」


 アルフォンスが、今度は完全に黙った。

 ヘンリックも同じだった。

 エーベルハルトは淡々と言った。


「現エルヴァルト公爵からの評価は、太鼓判と言ってよろしい。『公爵領を任せれば十年で二倍にする。王国を任せれば、十年で隣国まで帳簿に組み込むだろう』とのことです。」


 ヘンリックが思わず呟く。


「褒めているのか、恐れているのか分からない評価ですね。」


「両方でしょう。」


 エーベルハルトは言った。


「つまり、殿下は敵国中枢での十年と、公爵領での実務試験、その双方で結果を出しています。」


 アルフォンスは、ゆっくり背もたれに体を預けた。


「なるほどな。」


 その声には、納得と、少しの敗北感が混じっていた。


「平時なら俺でもよかったかもしれない。国内をまとめ、貴族院と妥協し、穏当に国を回す。だが、今必要なのは、穏当な王ではない。」


 ヘンリックも静かに頷いた。


「私は軍を動かせます。ですが、剣を抜かずに相手国を崩すことには向かない。」


 兄たちの視線が、ヴィルヘルムへ向く。


 それは、初めて弟を見る目ではなかった。

 第三王子を見る目でも、人質から帰った哀れな弟を見る目でもない。


 王太子候補を見る目だった。


 ヴィルヘルムは、ようやく口を開いた。


「私が最適かどうかは、会議が判断することです。」


「そういうところがまた腹立たしいな。」


 アルフォンスが言った。


「何がでしょう。」


「自分が最適だと分かっているくせに、手続き上は会議が判断する、という顔をするところだ。」


「手続きは重要です。」


「内容より先に手続きで殴るな。」


 ヘンリックが小さく笑った。

 エーベルハルトは咳払いした。


「では、次の議題に移ります。エルセリア王国の内情です。」


 空気が再び変わった。


 エーベルハルトは机の上に数枚の報告書を置いた。


「エルセリア王国の内情は、想定以上に悪化しています。王族派と貴族派の対立は深まり、地方領の税収は落ち、国民の不満も広がっています。にもかかわらず、第一王子カイエンは新たな婚約者セレスティア嬢のために、新宮殿の建設を計画しているとの情報があります。」


 アルフォンスが眉を寄せた。


「この状況で宮殿?」


「はい。さらに結婚式には、海外から楽団、画家、装飾職人を呼び寄せる予定です。規模は王太子婚としてもかなり過剰です。」


 ヘンリックが低く呟く。


「正気とは思えませんね。」


「正気であれば、そもそもあの断罪劇は行いません。」


 ヴィルヘルムが静かに言った。

 全員の視線が彼に向いた。


 エーベルハルトは表情を変えずに続ける。


「レベッカ嬢を悪女として処断したことで、一時的に国民の関心と不満を逸らした可能性があります。王太子の婚約破棄、悪女の国外追放。民衆にとっては分かりやすい劇でした。」


「根本的な解決にはなっていません。」


「その通りです。」


 エーベルハルトは次の資料を置いた。


「加えて、セレスティア嬢の父であるリュミエール侯爵の動きがきな臭い。近頃、土木事業への投資を大規模に募っています。王族との結びつきが強化されることを材料に、他国貴族にも声をかけているようです。」


 アルフォンスが資料を手に取った。


「土木事業?」


「道路整備、河川工事、倉庫建設。名目は複数あります。しかし実態が伴っているかは不明です。」


「資金集めか。」


「おそらくは。」


 ヴィルヘルムは静かに言った。


「リュミエール侯爵家は、戦時下にエルセリア王室へ大規模な貸付を行っています。」


 エーベルハルトがわずかに目を細めた。


「報告にもありましたね。」


「はい。和平が勝敗を決さぬ形になったことで、賠償や返済の見込みが大きく崩れた。侯爵家の領運営は現在も厳しいはずです。」


「だから娘を王太子妃にし、王室との結びつきを強化し、投資話で資金を集めている。」


「その可能性が高いです。」


 ヘンリックが腕を組む。


「つまり、レベッカ嬢の断罪劇は、第一王子の色恋だけではないと。」


「色恋は口実でしょう。」


 ヴィルヘルムの声は低かった。


「国民の不満を逸らしたい王室。侯爵家に負い目を持ち、同時にその資金力を必要とする国王。思慮の浅い第一王子。王室との結びつきを利用し資金を集めたい侯爵家。死に体の国からわずかでも利を得たい者たち。利害が一致した結果です。」


 室内が静まり返った。

 アルフォンスが、初めて少し違う目で弟を見た。


 これほど流暢に、しかも冷徹に分析するヴィルヘルムを、彼は知らなかった。


 いつも言葉が足りない。

 返事は短い。

 感情を見せない。


 戻ってきた弟は、どこか静かに壊れてしまったのではないか。

 そう思っていた。


 だが違う。


 言葉がないのではない。

 必要でない時に使わないだけだ。

 そして必要な時には、刃のように使う。


 エーベルハルトも同じことを感じていた。


 この第三王子は、沈黙していただけだ。

 何も見ていなかったわけではない。

 何も考えていなかったわけではない。


 十年、敵国の王宮で息を潜めながら、誰が何を欲し、誰が何を恐れ、どの家がどこで金に詰まり、どの王族がどの臣下に負い目を持っているかを見ていた。


 それを今、必要な順番で並べている。


 王は静かに言った。


「では、その断罪劇の中心にいたレベッカ嬢について、お前はどう考えている。」


 来た。

 全員がそれを待っていた。


 ヴィルヘルムは少しだけ目を伏せた。


 森の家の台所。

 若葉のスープ。

 布を巻かれた指。


 行ってらっしゃいませ、と小さく言った声。


 ――戻ったら確認してください。


 ――必ず。


 彼はその言葉を胸の奥に沈めてから、顔を上げた。


「彼女は利用されました。」


「それだけか。」


 王が問う。


「いいえ。」


 ヴィルヘルムは答えた。


「私も、彼女を利用しました。」


 空気が凍った。

 アルフォンスの表情が険しくなる。


「どういう意味だ。」


「第一王子カイエンが婚約解消を望んでいることは、早い段階で察していました。セレスティア嬢が接近していることも。侯爵家の意図も完全ではないにせよ、ある程度は読めていた。」


「なら、なぜ止めなかった。」


 ヘンリックの声に、責める響きが混じった。

 ヴィルヘルムは逃げなかった。


「止めれば、婚約解消は遅れたでしょう。そしてカイエン王子が彼女を幸せにすることはありませんでした。」


「それは結果論だ。」


「はい。」


「お前は何をした。」


「断罪の場で、処刑や幽閉に至らないよう調整しました。国外追放という形に落とし、彼女を我が国の公爵領へ移しました。」


 エーベルハルトが目を細める。


「しれっと?」


「はい。」


「今、しれっと認めましたね。」


「事実ですので。」


 アルフォンスが額を押さえた。


「お前は昔から真顔でとんでもないことを言う。」


「恐縮です。」


「褒めていない。」


「承知しています。」


 少しだけ空気が緩んだ。

 だが、緩んだのは一瞬だった。


 王が低く言う。


「つまり、お前は彼女の断罪に加担した。」


「はい。」


「そしてその結果を利用して、彼女を自分の手の届く場所へ置いた。」


「はい。」


「その自覚があるのだな。」


「あります。」


 ヴィルヘルムはまっすぐ王を見た。


「その上で、私は彼女の名誉を回復します。」


 空気が、再び張り詰めた。

 エーベルハルトがゆっくり口を開く。


「殿下。それは容易ではありません。」


「承知しています。」


「彼女はすでに国外追放処分を受けています。罪状には第一王子への害意、侯爵令嬢への威迫行為、さらに身分偽証が含まれている。孤児院から引き取られたという主張まであります。」


「捏造です。」


「証明できますか。」


「します。」


「通常の冤罪証明では足りません。王太子妃とするつもりなら、なおさらです。」


 その言葉に、室内の全員が微かに反応した。


 ――王太子妃。


 まだ誰も、はっきりとは言っていなかった言葉。


 ヴィルヘルムは表情を変えなかった。


「そのつもりです。」


 エーベルハルトが深く息を吐いた。

 アルフォンスは目を閉じた。

 ヘンリックは小さく「やはり」と呟いた。


 王は表情を消した。


「お前は、自分が何を言っているか分かっているのか。」


「はい。」


「お前は王族だ。」


「はい。」


「お前は王太子候補筆頭として扱われつつある。」


「はい。」


「近いうちに、お前がこの国の王となる可能性がある。」


「はい。」


「その王妃に、落ちぶれた敵国の元公爵令嬢を据えるつもりか。しかも現在は罪人で、平民だ。」


「現状では不可能です。」


「では。」


「可能な状態に戻します。」


 即答だった。

 エーベルハルトが低く言った。


「殿下。感情で国は動かせません。」


「感情だけでは動かしません。」


「では、これは何です。」


「選択肢の回復です。」


 会議室の空気がわずかに変わった。

 ヴィルヘルムは続ける。


「彼女を無理に王妃にするつもりはありません。まず、彼女が奪われた選択肢を返します。」


「選択肢。」


「平民として生きる道。エルヴェシア公爵令嬢として名誉を取り戻す道。私の隣に立つ道。そのどれを選ぶかは、彼女が決めるべきです。」


 アルフォンスが静かに息を吐いた。

 その言葉には、独善だけではないものがあった。


 囲い込むための理屈ではない。

 少なくとも、ヴィルヘルム自身はそう考えている。


 彼女に選ばせるために、まず選べる立場へ戻す。

 それは、王として必要な発想でもあった。


 奪われた権利を回復する。

 名誉を政治的に扱う。

 感情を、制度へ落とし込む。


 エーベルハルトは目を細めた。


「それでも、問題は山積みです。」


「承知しています。」


「下手に令嬢に対して動き回れば、エルセリアが茶々を入れてくる可能性があります。」


「はい。」


「令嬢のことで、我が国の安全や国民に不利益を与えることは許されません。」


「当然です。」


「そもそも、殿下が撒くのを手伝った種でもあります。」


 この言葉には、さすがに少しだけ室内が重くなった。

 だがヴィルヘルムは、目を逸らさなかった。


「はい。」


「ならば、分かるはずです。第一王子カイエンとセレスティア嬢の結婚式が敢行され、向こうの罪が完全に後戻りできない状況になるまで、絶対にこちらの動きを悟られてはなりません。」


 エーベルハルトの声は冷たかった。


「エルセリア王室にも。侯爵家にも。令嬢本人にも。」


 最後の一言で、ヴィルヘルムの指がわずかに動いた。

 それだけだった。


 だが、アルフォンスは気づいた。

 ヘンリックも気づいた。

 王も、おそらく気づいた。


 令嬢本人にも知らせない。


 それが一番、ヴィルヘルムにとって重い条件なのだと。


 エーベルハルトは続ける。


「彼女が再度取り込まれることがないと確定した段階で、即座に名誉裁判を提起し、最短で勝訴する必要があります。」


「同意します。」


「同意するのですか。」


「はい。」


 ヴィルヘルムは淡々と言った。


「そのために必要な証拠は、すでに一部集めています。」


 エーベルハルトの表情が初めて崩れた。


「すでに?」


「はい。」


「いつから。」


「エルセリアを出る前からです。」


 会議室に、重い沈黙が落ちた。

 ヴィルヘルムは懐から封筒を取り出し、机に置いた。


「孤児院の記録。エルヴェシア公爵家の出生記録の写し。侍女二名の証言。セレスティア嬢側に出入りしていた商人の名簿。侯爵家の借入先。王室への旧債務の一覧。断罪当日に提示された証拠の矛盾点。すべて完全ではありませんが、入口にはなります。」


 エーベルハルトが無言で封筒を開いた。

 資料に目を走らせる。

 彼の顔から、ゆっくりと表情が消えていく。


 宰相が本気になる時の顔だった。


「殿下。」


「はい。」


「これを一人で?」


「協力者はいます。」


「エルセリア国内に?」


「はい。」


「また危険な橋を渡りましたね。」


「必要でしたので。」


「それは、王族としての判断ですか。それとも、男としての執着ですか。」


 鋭い問いだった。

 室内が張り詰める。


 ヴィルヘルムは一拍置いた。


「両方です。」


 逃げなかった。


「ですが、前者としても成立させます。」


 その瞬間、エーベルハルトの目が変わった。


「どういう意味です。」


「エルセリアは遠からず我が国の保護を必要とします。食糧、燃料、債務整理、治安維持。どれを取っても単独で立て直せる状況ではありません。」


「続けてください。」


「侯爵家の投資話を放置すれば、我が国の貴族も巻き込まれる可能性があります。王族と結びつく詐欺的土木事業として膨らめば、被害は国境を越える。」


「その通りです。」


「ならば、レベッカ嬢の名誉裁判は、単なる個人救済ではありません。エルセリア王室と侯爵家の不正を明るみに出し、財政と政治の腐敗を解体するための入口になります。」


 エーベルハルトは黙った。

 アルフォンスも、ヘンリックも黙っていた。

 ヴィルヘルムは、声を低めた。


「彼女一人の名誉を回復するだけでは足りません。彼女を罪人に仕立てることで隠されたものを、すべて表に出します。」


 その言葉には、静かな怒りがあった。

 熱ではなく、氷の刃のような怒り。


「カイエン王子とセレスティア嬢の結婚式を止める必要はありません。むしろ敢行させるべきです。国民が貧困に喘ぐ中で豪奢な式を挙げ、新宮殿の計画を進め、侯爵家の資金集めを表に出させる。逃げ道を塞ぎます。」


 アルフォンスが、思わず低く言った。


「お前、かなり悪いことを考えるな。」


「必要です。」


「その一言で済ませるな。」


「では、戦略的に必要です。」


「さらに悪くなった。」


 ヘンリックが額を押さえた。

 だが、誰も笑っていなかった。


 ヴィルヘルムは続ける。


「我が国は表向き静観します。その間に証拠を集め、関係者を保護し、投資話に乗りかけている国内貴族へ非公式に警告を出す。結婚式後、彼らが後戻りできなくなった段階で名誉裁判を提起する。」


「令嬢本人には知らせない。」


 エーベルハルトが言った。


「はい。」


 短い返事。

 ヴィルヘルムの表情は変わらない。

 だが、指先が机の上でわずかに強く握られていた。


「彼女に知らせれば、動揺します。エルセリア側に察知される危険もある。彼女が再び利用される可能性もある。」


「だから黙ると。」


「はい。」


「それで令嬢が傷つく可能性を、殿下は容認できますか。」


「……はい。」


 その一拍の沈黙で、彼の苦しさが初めて漏れた。

 それでも、答えは変えなかった。


「問題ありません。」


 ヴィルヘルムは静かに言った。

 エーベルハルトはしばらく彼を見つめた。


 それから、深く、深く息を吐く。


「殿下。」


「はい。」


「その表情で“問題ありません”と言われても、問題しかありません。」


 アルフォンスが片手で口元を押さえた。

 ヘンリックは目を伏せたまま肩を震わせている。


 ヴィルヘルムだけが、真顔で答えた。


「表情の管理を誤りました。」


「そこではありません。」


「では、発言を修正します。」


「そういう問題でもありません。」


 エーベルハルトは額に手を当てた。


「殿下。あなたは、言葉が足りない。」


「自覚はあります。」


「足りないどころではありません。」


「改善します。」


「今すぐ改善してください。」


「必要なことは話しています。」


「そういうところです。」


 アルフォンスが低く笑った。


「宰相に叱られる王太子候補か。悪くないな。」


「兄上。」


 ヘンリックが咎める。

 しかしアルフォンスの目は笑っていなかった。


 彼は弟を見ていた。


 十年、質子に出された弟。

 自分たちは王都で育ち、教育を受け、政治を学んだ。


 ヴィルヘルムは敵国で、沈黙の中で生きた。


 その弟が今、誰よりも冷静に隣国の腐敗を読み、誰よりも危険な手を組み立て、しかも自分の感情を認めた上で、それを国家戦略へ変換している。


 負い目はあった。

 人質として差し出された弟への負い目。

 だが同時に、疑問もあった。


 本当に、父王の言う通りヴィルヘルムが王太子にふさわしいのか。


 十年の空白がある。

 王都の政治から離れていた。

 人の情を理解しているのかも分からない。


 しかし今、その疑問は揺らいでいた。


 空白ではない。

 彼は別の場所で、別の形の政治を学んでいた。


 ――敵国の宮廷という、もっとも残酷な教室で。


 王が静かに言った。


「ヴィルヘルム。」


「はい。」


「お前は王太子の座を受けるつもりがあるのか。」


 会議室が静まり返った。

 ヴィルヘルムはすぐには答えなかった。


 森の家を思い出す。

 レベッカの小さな食卓。


 ――戻ったら確認してください。

 ――必ず。


 彼はその約束を守るために、王都へ来た。

 王太子になるために来たのではない。


 だが、王太子にならなければ守れないものがある。


 彼女に選択肢を返すためには、力がいる。


 国を動かせるだけの力が。


「条件が三つあります。」


 ヴィルヘルムは言った。

 エーベルハルトが頭を抱えた。


「王太子の座に条件をつける王子がいますか。」


「ここにいます。」


「返答が早い。」


 アルフォンスが低く笑う。


「聞こうじゃないか。」


 王は動じなかった。


「言え。」


「第一に、レベッカ・エルヴェシア公爵令嬢の名誉回復について、国として必要な支援を行うこと。」


「名誉回復後も、婚姻は別問題です。」


 エーベルハルトが即座に釘を刺す。


「承知しています。」


「本当に?」


「はい。」


「その顔は承知していない顔です。」


「承知した上で、説得します。」


「誰を。」


「彼女と、皆様を。」


 アルフォンスが思わず笑った。


「順番が逆ではないだけ、ましだな。」


「彼女の意思が最優先です。」


 ヴィルヘルムは言った。

 その声だけは、先ほどより少し柔らかかった。


「彼女が望まないなら、私は求めません。」


「できるのか。」


 王が問う。


 ヴィルヘルムは一瞬だけ沈黙した。


「できます。」


「間があったぞ。」


「感情と方針を分離しました。」


「王太子としては正しい。男としては不憫だな。」


 アルフォンスが呟く。

 エーベルハルトが咳払いした。


「第二の条件は。」


「エルヴァルト公爵領の引き継ぎを、現公爵と相談の上で一定期間継続させてください。」


「王太子になれば、王都での責務が増えます。」


「調整します。」


「調整で済む量ではありません。」


「済ませます。」


「脅迫ですか。」


「実行計画です。」


 エーベルハルトは額を押さえた。


「殿下、それを人は脅迫と呼ぶことがあります。」


「では、表現を改めます。」


「お願いします。」


「私を王太子に据えるなら、その程度の自由は認めていただきます。」


「改まっていません。」


 ヘンリックがとうとう小さく笑った。

 しかし、王は笑わなかった。


「第三は。」


「エルセリアに関する調査権限をください。表向きは外交・投資保護・旧債務確認の名目で構いません。」


「実際は?」


「名誉裁判の準備です。」


「正直すぎる。」


 エーベルハルトが低く言った。


「正直な方が早いので。」


「政治は常に早ければ良いわけではありません。」


「承知しています。ですので、外向きには別の名目を使います。」


「嘘も方便ということですか。」


「はい。」


「今、宰相の前で堂々と嘘の運用を宣言しましたね。」


「必要な嘘です。」


 エーベルハルトは、しばらくヴィルヘルムを見ていた。

 やがて、深く息を吐く。


「陛下。」


 王が頷く。


「どう見ても面倒な王太子候補です。」


「そうだな。」


「言葉が足りず、詭弁を使い、必要と判断すれば脅しも嘘も使う。」


「そうだな。」


「しかし、敵に回すには非常に厄介です。」


 アルフォンスが頷いた。


「同感だ。」


 ヘンリックも静かに言う。


「味方に置いた方がよいでしょう。」


 王は、長くヴィルヘルムを見ていた。

 その目には、父としての苦さと、王としての判断があった。


 人質に出した息子。

 戻ってきた息子。


 そして、今この国に必要な王の器。


「ヴィルヘルム。」


「はい。」


「お前の条件は検討する。」


「検討では足りません。」


 即答だった。


 エーベルハルトが目を閉じた。

 アルフォンスが笑いをこらえた。


 王は眉を動かした。


「まだ言うか。」


「はい。」


「何が足りない。」


「期限です。」


 王の目が鋭くなる。


「言え。」


「結婚式が敢行された後、三十日以内に名誉裁判提起の準備を整える。六十日以内に第一審相当の結論を出す。遅延は許容しません。」


「無茶を言う。」


 エーベルハルトが低く言った。


「無茶ではありません。すでに資料の入口はあります。証人保護と記録収集を同時に進めれば可能です。」


「人員が要ります。」


「出してください。」


「予算が要ります。」


「王太子候補としての私の式典費用を削ってください。」


 アルフォンスがとうとう声を出して笑った。


「自分の帰還式典を削る王子がいるか。」


「ここにいます。」


「本日二度目だな。」


 エーベルハルトは笑わなかった。

 しかし、その目にかすかな諦めが浮かんだ。


「陛下。認めなければ、この方は別の手段を取ります。」


「取るだろうな。」


「止められますか。」


「止めても無駄だろう。」


「では、管理下に置いた方が安全です。」


「本人は管理されるのを嫌いそうだが。」


 王が言うと、ヴィルヘルムは即座に答えた。


「必要な管理は受けます。」


「必要でないと判断した場合は?」


「回避します。」


「正直だな。」


「嘘をつく必要がない場面ですので。」


 王は、深く息を吐いた。

 それから、ゆっくりと言った。


「分かった。」


 会議室の空気が変わった。


「レベッカ嬢の名誉回復について、国として調査準備を認める。ただし、宰相の監督下に置く。エルセリアへの露見を避けること。本人にも知らせぬこと。国益を損なわぬこと。これを破れば、即座に権限を取り上げる。」


「承知しました。」


「王太子の件については、正式な会議で決める。」


「はい。」


「だが、お前を候補筆頭として扱うことに異論はない。」


 アルフォンスが静かに頷いた。


「俺もない。」


 ヘンリックも言った。


「私もありません。」


 エーベルハルトは渋い顔をした。


「私は、胃薬の量が増えることを覚悟します。」


「申し訳ありません。」


「その謝罪は信じません。」


「はい。」


「そこで返事をしないでください。」


 会議室に、わずかな笑いが落ちた。

 しかし、ヴィルヘルムは笑わなかった。


 彼は胸元に手を入れた。

 そこには、小さな薄緑の布飾りがあった。

 王都へ向かう道中、手綱袋から外し、今は懐に入れている。


 王都の石壁の中で、素朴な布飾りはあまりに場違いだった。

 だが、必要だった。


 レベッカは言った。


 ――不釣り合いではありませんか。

 ――必要ですから。


 彼はそう答えた。

 本当に必要だった。

 自分が何のためにここにいるのかを、忘れないために。


 王太子になるためではない。

 彼女を所有するためでもない。


 彼女に、奪われた選択肢を返すために。

 そして、戻るために。


 森の家へ。

 若葉の畑へ。

 鈴の鳴る玄関先へ。


 ――戻ったら、確認してください。

 ――必ず。


 彼は心の中で、もう一度その言葉に答えた。


 ――必ず。


 そのためなら、王都の白い食卓も、王族会議も、宰相の詰問も、兄たちの視線も、すべて利用する。


 必要なら、詭弁も使う。

 脅しも使う。

 嘘も使う。


 ただし、彼女にはまだ何も言えない。


 言えば、彼女を危険に晒す。


 彼女の選択肢を返すために、今は彼女から真実を遠ざける。


 ――それがどれほど彼女を傷つけるとしても。


 ヴィルヘルムは静かに目を伏せた。


 会議室の窓の外には、王都の白い塔が見える。


 遠い。

 森の家は、あまりにも遠い。


 けれど、懐の中で、小さな鈴がかすかに鳴った気がした。

 音はしないはずだった。

 それでも、確かに聞こえた気がした。


 ヴィルヘルムは顔を上げた。


「では、次の議題を。」


 その声に、もう迷いはなかった。

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