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第四十一話 小さな市の準備

 蹄の音がしない日々にも、朝は来る。


 火は起こさなければならない。

 湯は沸かさなければならない。

 畑には水をやらなければならない。

 裁縫の仕事も進めなければならない。


 日々の暮らしでやることは、驚くほど多かった。


 ヴィルヘルムがいなくなったからといって、森の家が私に遠慮してくれるわけではない。


 鍋は放っておけば汚れるし、床には埃がたまる。

 薪を用意し、灰もこまめに片づけなければならない。

 空の様子を見て洗濯をし、町へ買い物に出る。

 畑は水を待つし、虫や肥料などの手入れも必要だ。

 

 鳥除けの鈴は、風が吹くたびに静かに揺れる。

 その音を聞くたびに、ほんの少しだけ胸が痛んだ。


 でも、彼を見送った時ほどではない。

 たぶん、少し慣れたのだと思う。


 蹄の音がしない夕方に。

 玄関先の確認がない暮らしに。


 慣れたくはない。

 けれど、慣れなければ暮らしていけない。

 だから、私は今日も起きた。


 朝食のあと、左手の指の布を外してみた。

 傷はふさがりかけていた。

 赤みは少し残っているが、痛みはほとんどない。

 試しに曲げると、少しだけつっぱる。


 針仕事をするには、まだ慎重になった方がいい。

 けれど、まったく持てないほどではなかった。


 私は机の上に、軟膏の紙包みを置いた。


 ヴィルヘルムが預けていったもの。

 戻ったら残りを返すもの。


 それを見ながら、少しだけ蓋を開け、傷の周りに薄く塗った。

 薬草の匂いがする。


 以前なら、腹立たしいほどよく効く小瓶だと思っていた。

 今も少し腹立たしい。

 ……でも、ありがたくもあった。


 私は蓋を閉めた。


「……預かっているだけ。」


 誰に言うでもなく呟く。

 そして針箱を開けた。


 今日は、少しだけ針を持つ。

 無茶ではない。少しだけ。

 その「少しだけ」という言葉に、自分で少し不安になったので、私は先に決めることにした。


 午前中の刺繍は、布飾りを三つまで。

 茶布は下絵だけ。

 痛みが出たらすぐにやめる。

 

 これなら無茶ではない。

 たぶん。


 私は布を広げた。

 薄黄色、灰色、薄緑、くすんだ赤。


 最近は、派手すぎない色の方が売れるとローレンスが言っていた。

 年配の客は灰色や茶色を好む。

 子ども連れの母親は薄黄色や青を手に取る。パン屋の娘は、茶色を母親に買った。


 町の人たちの顔が、少しずつ思い浮かぶようになっている。

 以前なら、客という言葉だけでひとまとめだった。今は違う。


 あの人は落ち着いた色が好き。

 あの子は絵柄が大きいものを選ぶ。

 あの店の奥さんは、紐が長い方が使いやすいと言っていた。


 そういう小さなことが、少しずつ分かってきた。


 私は薄黄色の布に、小さな鈴を合わせた。

 ちりん。

 軽い音。

 悪くない。


 次に灰色の布に、少し低めの音の鈴を合わせる。

 からん。

 こちらは落ち着いている。


 私は頷き、紐を切った。

 指先に気をつけながら縫い始める。


 左手の人差し指は、まだ少しかばう。

 布を押さえる位置を変えながら、針をゆっくり通す。


 一針。

 また一針。


 急がない。

 急ぐと、布が歪む。急ぐと、指を痛める。急ぐと、倒れる。


 ――大丈夫という言葉の信用が下がっています。


 脳裏にヴィルヘルムの声がよぎる。

 私は針を止め、少しだけ天井を見た。


「……本当に失礼。」


 でも、針を持つ手は少し慎重になった。


 悔しい。

 彼の言葉が役に立っているのが、悔しい。


 午前中のうちに、布飾りを三つ作った。


 薄黄色。

 灰色。

 薄緑。


 薄緑を作る時、少しだけ手が止まったが、これは売り物だ。

 薄緑はよく売れる。


 ……そういうことにした。


 昼前、マーサがやって来た。

 玄関を開けるなり、彼女は机の上を見る。


「針、持ったね。」


「三つだけです。」


「痛みは?」


「ありません。」


「本当に?」


「本当です。」


「指を見せな。」


 私は素直に左手を差し出した。

 マーサは傷を見て、少しだけ頷く。


「まあ、悪くはなってないね。三つでやめたなら上出来。」


「はい。」


「その顔は、もう少しやりたい顔だ。」


「……少しだけ。」


「禁止。」


「まだ言い切っていません。」


「言い切る前に止める。」


 勝てない。


 私は針を箱に戻した。

 マーサは満足そうに頷き、持ってきた籠を机に置いた。


「今日はローレンスの店に行くんだろ?」


「はい。在庫と注文の確認に。試作品も見ていただくつもりです。」


「なら、一緒に行くよ。」


「マーサさんも?」


「ああ。市の準備で聞きたいことがあるんだ。布の配置や値札のことも、ローレンスと相談した方がいい。」


「値札。」


「今のままでも売れてるけど、小さな市に出すなら分かりやすくした方がいい。客は立ち止まる時間が短いからね。」


 なるほど。

 店に置いてもらうのと、市で並べるのでは違うのだ。


 私は急いで鈴飾りを籠に入れ、茶布の下絵も持った。


 鈴柄の茶布。

 歪んだ鈴と、小さな若葉。


 そして、薄く残した細い線。

 離れていても、どこかで繋がっているような線。


 それをマーサに見られるのは少し恥ずかしかったので、私は布の下にそっと隠した。


 外へ出ると、空はよく晴れていた。

 夏の日差しに照らされて、森の木々の葉が眩しいくらいに光っている。


 森の道は、影になっていて少しだけ涼しい。

 熱い、けれども乾いた風が緑を揺らす度に、ざわりと雨のような音が立った。


 マーサと並んで坂を下りる。

 一人で歩く時より、道が短く感じた。


「殿下さんがいないと、毎日静かだろ。」


 マーサが突然言った。

 私は少しだけ足を止めそうになった。


「……そうですね。」


「耳は慣れたかい。」


「少しは。」


「なら上等。」


「慣れるのは……少し嫌です。」


「それもそうだね。」


 マーサはあっさり頷いた。


 否定しない。

 慰めすぎない。

 ただ横にいる。


 その距離が、今の私にはありがたかった。


「王都は遠いのでしょうか。」


 私はぽつりと言った。


「馬車なら何日もかかるね。王族の一行なら宿駅を使うだろうけど、それでも遠い。」


「そうですか。」


「心配かい。」


「道中のことは、少し。」


「殿下さんなら平気だろ。馬の扱いも上手そうだし、護衛もいる。」


「はい。」


「でも、心配なんだね。」


「……はい。」


 認めた。

 思ったより素直に出た。


 マーサは少しだけ口元を緩めた。


「それでいいよ。」


「いいのですか。」


「心配しても、仕事はできる。寂しくても、畑は育てられる。どっちか一つしか選べないわけじゃない。」


 私はその言葉を、胸の中で何度か転がした。


 心配しても、仕事はできる。

 寂しくても、畑は育てられる。

 そうかもしれない。


 私は不安だからといって、何もかも止めなくていい。

 心配を抱えたまま、歩けばいい。


 町に着くと、ローレンスの店はいつもより少し賑やかだった。

 店の前に、木箱や布がいくつか出ている。

 小さな市に向けて、商品を整理しているらしい。


 ローレンスは店先で荷を確認していた。


「来たね。」


「こんにちは。」


「指は?」


「悪化していません。」


「針は?」


「三つだけ。」


「マーサの許可は?」


「さっき検査済みだよ。」


 マーサが答える。

 ローレンスは頷いた。


「ならいい。」


 なんだろう。

 私は完全に管理されている。


 少し前なら腹立たしかったはずなのに、今は少しだけ温かい。

 心配されることに、まだ慣れていない。

 でも、逃げ出したいほどじゃない。


 私は籠から鈴飾りを出した。

 ローレンスが一つずつ手に取る。


「これは子どもが喜びそうだね。歩くたびに涼しい音が鳴る。これからの季節にぴったりだ。色もいいね、薄緑は特に人気が出そうだ。」


「薄緑は多めに作った方がいいでしょうか。」


「そうだね。ただ、市では色が並んでいる方が目を引く。薄緑ばかりじゃなく、赤や青も欲しい。」


「分かりました。」


「あと、鈴の音を選べるようにするといい。」


「音を?」


「高い音、低い音、少し歪んだ音。人によって好みが違う。鳴らして選べると楽しい。」


 楽しい。

 商品を選ぶことが楽しい。


 その視点は、私には少し新鮮だった。


 王宮や公爵家では、物は完成されたものとして出されていた。

 選ぶとしても、格式や流行や家格に合わせることが多かった。


 でも町の市では、手に取り、鳴らし、笑って選ぶ。

 その光景を想像すると、胸が少し弾んだ。


「小さな皿か籠に、音別で分けましょうか。」


「いいね。あとは値札だ。」


 マーサが言った。


「文字だけじゃなく、色も使うといい。子どもでも分かる。」


「色。」


「薄黄色の布の下に、黄色の印。青の下に青い印。値段はローレンスに大きく書いてもらいな。」


「自分で書けます。」


「市での文字は、まず目立つことが一番なのさ。」


 たしかに。

 人混みの中での販売。

 値札に必要なのは美しさではなく、遠目でも分かることだろう。


 ローレンスは茶布の下絵を見た。


「これが鈴柄かい。」


「はい。まだ下絵ですが。」


「いいね。若葉も入ってる。」


「少し変でしょうか。」


「いや、あんたらしい。」


「私らしい?」


「鈴と若葉。森の家らしいってことだよ。」


 森の家らしい。

 私はその言葉に、少し胸が温かくなった。


 ――この家は、あなたの場所になりました。


 ヴィルヘルムの言葉を思い出す。


 今、ローレンスも似たことを言った。


 ――森の家らしい。

 私が作ったものに、私の場所の匂いがある。


 それは、とても嬉しかった。


 マーサが下絵を覗き込んだ。


「この細い線は何だい。」


 ぎくりとした。


「飾りです。」


「ふうん。」


「何ですか。」


「いや、いいんじゃないかい。鈴と若葉をつなぐ線だろ。」


「ただの飾りです。」


「そういうことにしとこう。」


 ……その言い方。

 完全に何か分かっている言い方だった。


 私は顔が熱くなるのを感じ、下絵を取り戻した。


 ちょうどその時、パン屋の娘が店に入ってきた。


「あ、レベッカさん。」


「こんにちは。」


「布飾り、また増えました?」


「少しだけ。」


「母が、この前の茶色をすごく気に入って。今度は妹の分も欲しいんです。小さな市にも出すんですよね?」


「その予定です。」


「じゃあ、楽しみにしてます。あと、新しい柄の布も作るって本当ですか?」


 もう広まっている。

 私はローレンスを見た。

 ローレンスは平然としている。


「まだ試作です。」


「見たいです。」


「まだ下絵なので。」


「下絵でも。」


 きらきらした目で見られ、私は少し困った。

 マーサが笑う。


「見せてやればいいじゃないか。」


「まだ整っていません。」


「試作を見せるのも、市の準備だよ。」


 そういうものだろうか。

 私はおずおずと下絵を見せた。


 パン屋の娘は目を輝かせた。


「可愛い。鈴と葉っぱだ。」


「変ではありませんか。」


「全然。森っぽいです。あと、何かお守りみたい。」


「お守り?」


「鈴って魔除けっぽいし、葉っぱは育つ感じがするから。」


 お守り。

 その言葉に、胸が少し揺れた。


 薄緑の布飾り。

 王都へ向かう手綱袋。

 必要です、と言ったヴィルヘルム。


 まさか。

 まさか、あれをお守りのように思っているわけではない。


 ……ないはずだ。


 私は慌てて下絵をしまった。


「ありがとうございます。参考にします。」


「小さな市、楽しみです。」


 パン屋の娘は買い物を済ませ、明るく帰っていった。


 その後も、何人かの客が店に来た。

 そのたびに、ローレンスは自然に私の鈴飾りの話を出してくれた。


「小さな市で並べる予定だよ。」


「音を選べるようにするつもりでね。」


「茶布も試作中だ。」


 私は横で少し恥ずかしくなりながら、説明をした。


 紐の長さ。

 鈴の音。

 布の色。

 茶布の柄。


 話しているうちに、少しずつ分かってくる。

 これは、私の仕事なのだ。


 誰かに与えられた役目ではない。

 王太子妃教育の一環でもない。

 公爵家の娘としての義務でもない。


 自分で作り、自分で説明し、誰かに買ってもらう仕事。


 責任もある。

 不安もある。


 でも、嬉しさもある。


 店を出る頃には、持ってきた鈴飾りのうち一つがすでに売れていた。

 薄黄色のものだった。

 買ったのは、小さな男の子を連れた母親だ。

 子どもが何度も鳴らして笑い、母親が「うるさすぎないのがいいわ」と言って選んでくれた。


 その場で売れた硬貨が、私の手に乗る。

 軽い音。

 でも、確かな音。


 私はその硬貨を握った。


 蹄の音がしない日々にも、別の音は増えていく。


 鈴の音。

 硬貨の音。

 鍋の音。

 人の声。


 私の暮らしは、無音にはならない。


 帰り道、マーサが横で言った。


「いい顔をしてるよ。」


「そうでしょうか。」


「ああ。仕事してる顔だ。」


「仕事。」


「うん。あんたの仕事だ。」


 私は籠を抱え直した。

 中には、売れ残った布飾りと、注文の控えと、鈴柄茶布の下絵。


 重くはない。

 けれど、胸には確かな重みがあった。


「ヴィルヘルム殿下が戻る頃には。」


 言いかけて、私は少し止まった。

 マーサは黙って待っている。


 私は、言葉を選び直した。


「戻る頃には、もう少し良いものを作れるようになっていたいです。」


「そうだね。」


「畑も、もう少し大きくなっているでしょうし。」


「そうだね。」


「市も、うまくいくといいのですが。」


「準備すれば大丈夫だよ。」


「大丈夫でしょうか。」


「大丈夫って言葉の信用は下がってるんじゃなかったかい。」


 私は思わず笑った。


「それ、殿下の言葉です。」


「いい言葉は使うよ。」


「失礼な言葉です。」


「でも効いてる。」


「……はい。」


 効いている。

 とても。


 森の家へ戻ると、夕方の光が庭に落ちていた。

 私は畑に水をやり、鳥除けの紐を少し直した。


 若葉はまた少し揺れる。

 鈴が鳴る。

 今日は、その音が昨日よりまた少し近く聞こえた。


 蹄の音はしない。

 でも、鈴の音はここにある。


 畑の鈴。

 市に並ぶ鈴。

 王都へ向かった鈴。


 その全部が、どこかで小さく鳴っている気がした。



 夜、私は鈴柄の茶布の下絵を机に広げた。

 左手の指に気をつけながら、少しだけ線を整える。


 鈴。

 若葉。

 細い線。


 お守りみたい、とパン屋の娘は言った。

 私はその言葉を思い出しながら、線を少しだけ濃くした。


 離れていても、つながっているように。


 そんな意味はない。

 これは売り物の柄だ。

 小さな市に出す茶布だ。

 それ以上の意味はない。


 ……ないはずだ。


 でも、私はその線を消さなかった。


 外では鳥除けの鈴が鳴っている。

 蹄の音がしない日々。


 それでも、机の上には仕事がある。

 畑には若葉がある。

 町には、私の作った鈴を待ってくれる人がいる。


 そして、遠い王都にも一つだけ私の鈴がある。


 私は針箱の蓋をそっと閉めた。


「ちゃんと進むわ。」


 小さく呟く。

 誰に向けた言葉かは、分からない。


 ヴィルヘルムか。

 マーサか。

 ローレンスか。

 それとも、自分自身か。


 ただ、その言葉は思ったより素直に胸に落ちた。


 蹄の音がしない日々でも。

 私は、ちゃんと進む。


 小さな市へ向けて。

 この森の家で。


 私の場所で。

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