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第四十話 蹄の音がしない日々

 森の道から蹄の音はもう聞こえない。


 当たり前だ。

 ヴィルヘルムは、王都へ向かった。


 ――明朝、公爵領館を発ちます。


 昨日、彼はそう言った。

 だから今ごろは、もうこの町から遠く離れているのだろう。


 ノクスの手綱袋には、薄緑の布飾りが揺れているはずだ。

 王都へ行く王族の荷物に、傷物の鈴がついている。

 想像すると、少しおかしい。


 少しだけ。

 でも、そのおかしさを笑えるほど、今朝の私は軽くなかった。


 私は寝台の上で、左手の人差し指を見た。

 布はまだ巻いている。

 痛みはほとんどない。傷は浅い。

 もう少しすれば、針も持てるだろう。


 寝台の横には、小さな紙包みが置いてある。

 ヴィルヘルムが預けていった軟膏。


 ――戻るまでの間、持っていてほしいものです。


 私はそれを、預かると言った。

 あなたが戻ったら、残りを返します、と。


 ――戻って、受け取りに来ます。


 彼はそう答えた。

 約束の形をした、小さな紙包み。

 軽いのに、見るたび胸が重くなる。


「……起きましょう。」


 私は自分に言った。


 起きる。顔を洗う。

 火を起こす。湯を沸かす。パンを少し温める。

 畑を見る。水の量を確かめる。

 布を数える。糸を選ぶ。


 やることはある。いくらでもある。

 ヴィルヘルムがいなくても、私の暮らしは続く。


 私は一人でも暮らせる。


 そう言った。

 言ったからには、ちゃんと暮らさなければならない。


 台所へ行くと、なぜか昨日までより少し広く感じた。


 そんなはずはない。

 机も椅子も、棚も鍋も、何も変わっていない。

 ただ、これからしばらく二つ目の器を出さないだけだ。

 ただ、玄関先で聞かれる確認の声がないだけだ。


 それだけで、台所は少し広く、少し寒く見えた。


 私は棚を開け、器を一つだけ取り出した。


 一つ。

 今日は迷わなかった。


 迷わなかったのに、指先が棚の奥にあるもう一つの器へ触れそうになった。


 私はすぐに棚を閉めた。


「……必要ないわ。」


 声が少し硬かった。


 湯を沸かし、パンを温め、昨日マーサが持ってきてくれた焼き菓子の欠片を少し食べた。

 甘さはやはり控えめ。けれど、朝の口にはちょうどよかった。


 食事を終えると、私は庭へ出た。


 朝の空は薄く晴れている。

 夜の冷えがまだ草に残っていて、靴の先が少し濡れた。

 鳥除けの鈴が、小さく鳴る。


 昨日までは、その音に呼応するように揺れる手綱袋の布飾りがあった。

 薄緑の布飾り。

 でもこれからは、庭の鈴だけだ。


 私は畑の前にしゃがんだ。

 若葉は、また少し大きくなっていた。

 昨日より一枚、葉が開いている株もある。

 細い茎は頼りないが、しっかり土を掴んでいる。


 ヴィルヘルムがいなくても、若葉は育つ。


 当たり前だ。


 彼が来る前から、私は種をまいた。

 彼がいなくても、土は乾けば水を欲しがる。

 葉は光を受ける。根は伸びる。

 私が見てやれば、ちゃんと育つ。


「大丈夫。」


 畑に向かって言った。

 若葉に言ったのか、自分に言ったのか、分からない。


「大丈夫よ。」


 もう一度言う。


 ――大丈夫という言葉の信用が下がっています。


 ふいに彼の声が蘇り、私は眉を寄せた。


「……いないのに失礼ね。」


 呟くと、少しだけ笑えた。

 ほんの少しだけ。


 私は土の乾き具合を確かめ、水はまた夕方でよいと判断した。

 マーサに教わった通りだ。

 水をやりすぎても根が弱る。足りなければ萎れる。

 加減が必要。


 人との距離も、きっと同じなのだろう。


 近づきすぎると息が苦しくなる。

 離れすぎると、寂しくなる。


 私はその加減が、まだ分からない。


 台所へ戻り、作業台の上に布を広げた。

 今朝は針を持たない。指の傷が完全ではないから。


 だから、下準備だけ。


 布飾り用の布を色別に分ける。


 くすんだ赤。

 薄黄色。

 灰色。

 茶色。

 青。

 薄緑。


 薄緑の布を見ると、やはり手が止まった。


 ヴィルヘルムが買った布飾り。

 手綱袋に揺れていた色。

 王都へ行く色。


 私は布を小さく折りたたみ、端へ置いた。


 売り物だ。

 ただの布だ。


 なのに、なぜか少し特別に見える。


 困ったものだ。



 その夜は、早めに灯りを消した。

 眠れないかもしれないと思ったが、昨日の心の揺れが体の負担としてまだ残っていたのだろう。

 いつの間にか眠っていた。



 その翌朝も、空はよく晴れていた。

 乾いた風が吹いている。


 ――王都へ向かう道にも、この空が続いていればいい。


 そう思った瞬間、やはり胸の奥が少し重くなった。


 もう、彼は森の家へは来ない。

 少なくとも、しばらくは。


 私は湯を沸かしながら、棚の中の器を見ないようにした。



 昼前、ローレンスの店へ行くことにした。

 針を持つわけではない。ただ布飾りの在庫確認と、茶布の注文内容を聞くだけ。


 私は籠を持ち、森の道を下った。


 町へ出ると、いつものざわめきがあった。

 パン屋の匂い。荷車の音。子どもの声。商人の呼び込み。


 森の家にいると、蹄の音ばかり気にしてしまうが、町にはたくさんの音がある。

 それに少し救われた。


 ローレンスの店に入ると、彼は帳簿から顔を上げた。


「おや、今日は一人で来たのかい。」


「はい。針は持っていません。」


「まだ何も言ってないよ。」


「言われそうだったので。」


「みんなに先回りする癖がついてきたね。」


「悪い傾向でしょうか。」


「場合によるね。」


 ローレンスは私の指を見た。


「傷は?」


「浅いです。もう痛みはほとんど。」


「よし。」


 皆、同じことを聞く。

 少しおかしい。

 でも、聞いてくれる人がいるのは、ありがたいことなのかもしれない。


 私は棚の布飾りを見た。また二つ減っている。


「売れたのですか。」


「ああ。薄黄色と灰色が一つずつ。灰色は年配の客が買っていったよ。派手でないのがいいってさ。」


「灰色も売れるのですね。」


「売れるよ。人の好みは色々だ。」


「よかったです。」


「茶布の注文も一つ追加だ。今度は若葉柄じゃなくて、鈴柄がいいそうだよ。」


「鈴柄?」


「あんたの布飾りと揃えたいらしい。」


 自分が作ったものを気に入って使ってくれている人がいる。


 嬉しい。

 温かい実感が広がった。


「そうだ。昨日来た鍛冶屋の子どもが、本当に音が鳴るようにできないかって聞いてきたよ。」


「音?」


「ああ。布飾りに鈴が付いていれば、なくした時にすぐ分かるからってさ。」


 それは考えていなかった。

 でも、作れるかもしれない。


 鈴柄の布飾りに、本物の鈴をつける。

 小さな鈴を音が出るように縫い付ける。布の端に揺れるような形で。


 少し可愛いかもしれない。

 胸の奥に、少し明るいものが灯った。


「やってみます。」


「無理は?」


「しません。」


「ならいい。」


 ローレンスは帳簿を閉じた。

 それから、何気ない声で言った。


「殿下さんは発ったらしいね。」


 胸が、どくりと鳴った。


「……ご存じなのですか。」


「王都行きの一行の一部が町道を通ったそうだ。直接この店の前じゃないが、噂は早い。」


「そうですか。」


「立派な一行だったそうだよ。」


 立派な一行。

 王都へ向かう王子。

 公爵領での出立には、きっと多くの騎士や従者もいたのだろう。


 正装に近い服を着ていた最後の姿を思い出す。

 森の家の玄関先に立つには、あまりにも整っていた姿。


 ――本来の場所へ戻る人。


「見に行けばよかったかい?」


 ローレンスが聞いた。

 私は少し驚いた。


「出立を、ですか。」


「ああ。」


「いいえ。」


 答えは、すぐに出た。


「……森の家で、見送りましたから。」


 そう。

 私は見送った。


 森の家の敷居の内側から。

 行ってらっしゃいませ、と言った。


 あれでよかった。

 大勢の人に囲まれた王子の出立を見ていたら、たぶん胸が潰れていた。


「ならいい。」


 ローレンスはそれだけ言った。


「戻ってくると言ったかい。」


 私は黙った。

 少しだけ迷って、それから頷いた。


「はい。」


「なら、信じるしかないね。」


「……言葉は、保証にはなりません。」


「そうだな。」


「でも。」


 私は自分の左手を見た。

 布の巻かれた指。


 そして、家に置いてきた軟膏の紙包み。


「預かり物があります。」


「預かり物?」


「軟膏です。戻ったら残りを返すことになっています。」


 ローレンスは一瞬きょとんとした。

 それから、口元を押さえた。


「何ですか。」


「いや。いい契約だと思ってね。」


「契約?」


「返すものがあるなら、戻ってこないといけない。」


 私は顔が熱くなるのを感じた。


「そういう意味ではありません。」


「そうかい。」


「ただ、代金を払うのが嫌だったので。」


「うんうん。」


「その顔は信じていませんね。」


「商人は証拠を見る。あんたの顔が証拠だ。」


「ひどい。」


 ローレンスは笑った。

 その笑い方が、マーサと少し似ている。

 やはりこの町の大人たちは、手強い。


 私は売上の硬貨を受け取り、注文内容を書き留めてもらってから店を出た。


 それから金物屋に行って、鈴をいくつか購入した。


 小さいもの、少し大きめのもの、低い音、高い音。

 様々な音色が耳に楽しい。


 誰かが喜んでくれるものになるといい。

 そう思いながら、一つずつ鈴を選んだ。


 帰り道、森の道は静かだった。


 昼の光が葉の間から落ちている。

 馬の蹄の跡が、道の端に少し残っていた。

 それがヴィルヘルムのものか、別の誰かのものかは分からない。


 でも私は少し足を止めた。


 ノクスはもう、ここにはいない。

 薄緑の布飾りも。

 ヴィルヘルムも。


 王都へ向かっている。


 私は息を吐き、森の家へ戻った。



 午後は、早速試作品を考えることにした。


 余っていた紐で小さな鈴を仮留めし、布飾りの端にどう垂らすかを確かめる。

 まだ完成品ではない。

 ただの仮置き。


 それでも、手に取って軽く揺らすと、ちりん、と小さく軽い音が鳴った。

 今度は刺繍だけでなく、本物の鈴が付いた鈴飾り。


 これは、可愛い。


 鍵や鞄につけて、動くたびに揺れて鳴る。

 子どもや若い娘たちなら喜んでくれるかもしれない。


 私は少し夢中になって、鈴と布の組み合わせを並べ替えた。


 それから、鈴柄の茶布の下絵を考える。


 小さな丸。

 その下に、少し歪んだ線。

 鈴の割れ目。

 揺れる紐。


 描いてみると、思ったより難しい。

 丸くすれば可愛いが、鈴らしくない。

 鈴らしくすれば、少し硬くなる。


 私は何度も描き直した。

 何も考えずに没頭できることがある。

 ありがたかった。


 日が傾くまでは。


 夕方が近づくと、どうしても耳が森の道へ向いた。


 今日も来ない。

 分かっている。

 もう王都へ向かった。

 ここへ来るわけがない。


 それでも、夕方の光が台所の床に伸びる頃、私は無意識に手を止めた。


 窓の外を見る。

 森の道は静か。

 鳥除けの鈴が鳴る。


 それだけ。


 蹄の音は、しない。


 私は椅子に座ったまま、しばらく耳を澄ませていた。

 聞こえない音を、聞こうとしていた。


 馬鹿みたいだ。

 そう思う。

 でも、耳は探す。


 毎日。

 夕方。

 彼が来ていた時間。


 大丈夫ですか、と聞く声。

 熱は。

 食事は。

 無理は。

 失礼なほど細かい確認。


 ――それがもうない。


 私は机の上の下絵を見た。


 鈴柄。

 少し歪んだ鈴。

 傷物でも鳴る鈴。


 私は木炭筆を取り、鈴の横に小さな若葉を描き足した。


 鈴と若葉。

 少し変だ。


 でも、悪くない。


 この家らしい。

 私の暮らしらしい。


 私はその下絵を眺めながら、小さく息を吐いた。


「暮らせるわ。」


 声に出した。


「私は、暮らせる。」


 蹄の音がしなくても。

 玄関先に彼が立たなくても。


 この家で。

 この畑で。


 暮らせる。

 暮らせるはずだ。



 夕方、畑に水をやった。

 桶を持つ時、左手の指に気をつける。

 水をやりすぎないように、少しずつ。


 若葉は夕暮れの光の中で、静かに揺れていた。


 鳥除けの鈴が鳴る。

 私は森の道を見た。

 静かだった。


 当たり前だ。

 当たり前なのに、胸の奥が少し痛む。


 でも、痛むだけだ。

 倒れるほどではない。

 立てないほどではない。


 私は桶を置き、畑の前にしゃがんだ。


「明日も水をあげるから。」


 若葉に言った。


「ちゃんと育ってね。」


 風が吹く。

 鈴が鳴る。

 ちりん。

 返事のように聞こえた。


 夜、私は机の上に軟膏の紙包みを置いた。

 開けない。今日は必要ない。

 ただ、そこに置いておく。


 預かり物。

 戻ったら返すもの。


 それを見ながら、私は鈴柄の下絵をもう一度見た。


 歪んだ鈴。

 小さな若葉。

 その横に、細い糸で結ばれたような線を描く。


 離れていても、どこかで繋がっているように。


 描いてから、私は慌てて線を少し消した。


 何を描いているのか。

 何を考えているのか。


 自分でも分からない。


 でも、完全には消さなかった。


 薄く残った線が、紙の上にかすかに残る。

 それは、見ようとしなければ見えないくらい薄かった。


 私は灯りを落とし、寝台へ入った。


 外では鳥除けの鈴が鳴っている。

 蹄の音はしない。

 もう今日は探さない。

 探さないと決めた。


 でも眠りに落ちる直前、遠い道の向こうで、薄緑の布飾りが揺れたような気がした。


 王都へ向かう道は、ここから遠い。

 今、馬が走っているのかさえ分からない。


 それでも私は、その幻のような感覚を胸の奥にしまった。


 明日も起きる。

 火を起こす。

 畑を見る。

 水をやる。

 糸を縫う。

 暮らしていく。


 蹄の音がしない日々の中でも。


 私は、私の場所を守っていく。

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