第三十九話 王都へ行く人
翌日、ヴィルヘルムは来なかった。
来られないかもしれない。
昨日、そう言っていた。
だから来なくても当然だった。
当然なのに、私は夕方になると何度も窓の外を見てしまった。
森の道は静かだった。
蹄の音は聞こえない。
鳥除けの鈴だけが、風に揺れて鳴っている。
けれど、その音の向こうに別の音を探してしまう。
――出立の準備をしているはずだ。
手綱袋で揺れていた、薄緑の布飾り。
彼はもう外してしまっただろうか。
あれは公爵領館に置いていくのだろうか。
それとも、王都へ行く荷物の中に入れられたのだろうか。
そこまで考えて、私は自分で眉を寄せた。
「……何を気にしているの。」
布飾り一つのことだ。
店で売った品だ。
誰がどこにつけようと、外そうと、私が気にすることではない。
そう思うのに、気になった。
気になる自分が嫌だった。
私は左手の人差し指を見た。
布はまだ巻いている。
傷は浅かったが、針仕事をするには少し邪魔だった。
マーサには「二日は針を持つな」と言われている。
もちろん、少しだけならできると思った。
思ったが、見つかったら怒られる。
それに、ヴィルヘルムにも約束させられた。
――絶対に無茶はしないでください。
――約束です。
あの声を思い出すと、針を持つ気になれなかった。
腹立たしい。
本当に腹立たしい。
本人がいなくても、言葉だけが残って私の手を止める。
私は針箱の蓋を閉めた。
今日は布の整理だけにする。
枚数を数え、色ごとに分け、茶布用の下絵を確認する。
左手を使わなくてもできることはある。
そうやって動いていれば、余計なことを考えずに済む。
済むはずだった。
けれど、日が傾くたびに、耳が勝手に森の道へ向く。
来ない。
今日は来ない。
分かっている。
分かっているのに。
その夜は、早めに灯りを消した。
眠れないかもしれないと思ったが、体は正直だった。
ここ数日の心の揺れで疲れていたのだろう。
私はいつの間にか眠っていた。
翌朝、空はよく晴れていた。
紺碧の空に薄く白い雲がたなびく。
乾いた風が森の木々の間を吹き抜ける。
――出立には、きっと良い天気だ。
そう思った瞬間、胸の奥が少し重くなった。
ヴィルヘルムがいつ王都へ向かうのか、正確な日付は聞いていない。
三日後には公爵領を出発せねばならないと言っていた。
つまり、もうあまり時間はない。
今日来るのか。
明日来るのか。
それとも、来ないまま行ってしまうのか。
――出立前にもう一度伺います。
――可能であれば。
その言葉は、不確かだった。
可能であれば。
大事な準備の合間に、余裕があれば来る。
そういうものだ。
私はそう自分に言い聞かせながら、朝の湯を沸かした。
ふわりと白く湯気が上がる。
机の上は綺麗だ。
一昨日の温かさも、不安も、表面上は片づいてしまった。
でも、胸の奥には残っている。
私は器を一つだけ出した。
一つ。
今日は間違えない。
そう思ったのに、棚に戻したもう一つの器に目が行った。
私はすぐに扉を閉めた。
昼前、マーサが来た。
籠の中には少しの根菜と、包みに入った焼き菓子があった。
「ローレンスからだよ。指を切ったと聞いたら、これを持っていけってさ。」
「焼き菓子?」
「ああ。売り物の端だって言ってたけど、ちゃんと甘いよ。」
「申し訳ないです。」
「じゃあ、元気になって布飾りを納めな。」
「はい。」
私は焼き菓子を受け取った。
小さな端切れのような焼き菓子。
少し不揃いで、端が欠けている。
それが妙に嬉しかった。
この町では、完璧ではないものもちゃんと誰かの役に立つ。
傷物の鈴も。
しおれかけの香草も。
端の焼き菓子も。
そして、きっと私も。
そう思える場所になりつつあった。
マーサは私の指を見た。
「傷は?」
「痛みはほとんどありません。」
「針は?」
「持っていません。」
「本当に?」
「本当です。」
「よし。」
マーサは満足そうに頷いた。
それから、私の顔をじっと見る。
「殿下さんは昨日来なかったんだね。」
「はい。」
「今日は来るかね。」
「……分かりません。」
「出立前に、もう一度来ると言ったんだろ。」
「可能であれば、と。」
「なら、来るんじゃないかい。」
「可能でなければ来ません。」
「そりゃそうだ。」
簡単に言う。
それが少しだけ腹立たしくて、少しだけありがたい。
私は焼き菓子の包みを机に置いた。
「マーサさん。」
「何だい。」
「もし、来たら聞こうと思っています。」
「戻ってくるのか、って?」
私は固まった。
なぜ分かるのか。
マーサは何も知らないような顔をして、籠から根菜を出している。
私はしばらく彼女を見つめた。
「……マーサさんは、何かご存じなのですか。」
「何かって?」
「殿下のことを。」
「……町の人間が知ってるくらいのことはね。」
「本当に、それだけですか。」
マーサの手が、ほんの少し止まった。
ほんの少しだけ。
けれど私は見逃さなかった。
マーサはすぐにまた根菜を並べ始めた。
「年寄りはね、若い人間より少しだけ人の顔色を見るのが上手いんだよ。」
「それは答えになっていません。」
「じゃあ、こう言おうか。あんたが思っているより、この町の人間はあんたを見てる。」
「私を?」
「ああ。あんたが必死に古い家を磨いて、畑を作って、鈴を縫って、倒れそうになりながら立ってるのをね。」
私は言葉を失った。
マーサは、少しだけ声を柔らかくした。
「だから、あんたが寂しそうにしてるのも、少しは分かる。」
「寂しそうには。」
「してるよ。」
「……。」
「ただし、寂しいから弱いってことじゃない。」
私は顔を上げた。
「寂しくても、立てる人間はいる。怖くても、聞ける人間もいる。」
昨日と同じだ。
怖くても、聞きたいことは聞いた方がいい時もある。
マーサはいつも、少しだけ背中を押す。
決して押しすぎない。
転ばない程度に。
「聞いて、何になるのでしょう。」
私は小さく言った。
「戻ると約束されても、戻れないことはあります。」
「そうだね。」
「戻らないと言われても、私はどうすることもできません。」
「そうだね。」
「なら、聞かない方が楽ではありませんか。」
「楽かもしれないね。」
「では。」
「でも、楽なことと、後悔しないことは別だよ。」
胸に刺さった。
マーサは根菜を置き終え、手を払った。
「答えが欲しいんじゃなくて、あんたは自分の言葉を渡したいんじゃないのかい。」
「私の言葉?」
「行かないで、とは言えない。でも、何も言わないまま見送るのも嫌なんだろ。」
私は何も言えなかった。
――その通りだった。
行かないで、など言えない。
彼は王族だ。
帰還式典がある。
王太子選定会議がある。
行くべきなのだ。
それは分かっている。
だから引き止めることはできない。
でも、何も言わずに見送るのは怖かった。
私の中にあるこの不安も、寂しさも、聞きたいことも、全部なかったことにして、ただ「お忙しいのですね」と微笑むのは、たぶん後悔する。
私は指先を見た。
白い布。
彼が巻いた布。
「……聞きます。」
声は小さかった。
でも、出た。
「戻ってくるのかと。」
「うん。」
「約束できるのかと。」
「うん。」
「怖くても。」
「そうだね。」
マーサはそれだけ言った。
昼過ぎ、マーサは帰った。
私は根菜を棚にしまい、焼き菓子を一つ食べた。
少し硬い。甘さは控えめ。
けれど、口の中でゆっくりほどける。
ローレンスの店の味がした。
町の味。
私はここで暮らしている。
ヴィルヘルムがいなくても。
でも、彼に何も言わずにいなくなられるのは嫌だ。
二つの言葉が、同時に存在していた。
夕方が近づいていた。
空は少しずつ陰りはじめ、斜陽が眩しさを増す。
私は畑へ出て、若葉の様子を見た。
葉はまた少し広がっている。
数日前に間引いたおかげか、株と株の間に少し余裕ができていた。
風が通る。
葉が揺れる。
鳥除けの鈴が鳴る。
私はその音を聞きながら、何度も心の中で練習した。
戻ってくるのですか。
私に約束する必要はありません。
いいえ、違う。
それではまた逃げてしまう。
――戻ってくると、約束できますか。
重すぎるだろうか。
彼に何を求めているのか。
監視役に。
面倒な知り合いに。
王都へ行く王子に。
私は自分の言葉が分からなくなった。
溜息を吐いて家の中に戻る。
そっと机の上に出していた器を指で撫ぜた。
その時、遠くから蹄の音が聞こえた。
私は息を止めた。
一昨日より少し早い時間。
乾いた道を踏む、規則正しい音。
近づいてくる。
確かに近づいてくる。
胸が強く鳴る。
来た。
本当に来た。
鳥除けの鈴が、風に揺れて鳴った。
蹄の音が家の前で止まる。
私は玄関へ向かった。
扉を開ける前に、一度だけ深呼吸をする。
聞く。
怖くても。
聞く。
扉を開けると、ヴィルヘルムが立っていた。
濃紺の外套ではなかった。
今日は、深い藍色の正装に近い上着を着ていた。
襟元には銀の飾り。
肩から落ちる外套は、いつもの実用的なものよりも上質で、重みがある。
淡い金髪はいつもより整えられ、額にかかる一筋さえ計算された絵のようだった。
青い瞳は静かだが、いつもより遠く見える。
私は一瞬、言葉を失った。
やはり、この人は王族なのだ。
森の家の玄関先に立っていても、泥の道を馬で来ても、布飾りを手綱袋につけていても。
彼は、本来王都の白い石壁の中にいる人なのだ。
その事実が、胸に冷たく落ちてきた。
「こんばんは。」
ヴィルヘルムが言った。
いつもの声。
でも、姿が違うだけで、距離が遠く感じられた。
「……こんばんは。」
私の声は、少し遅れた。
彼の後ろにはノクスがいた。
手綱袋には、薄緑の布飾り。
それを見て、少しだけ息ができた。
まだついている。
外していない。
ヴィルヘルムは私の指を見た。
「傷は?」
「大丈夫です。」
「痛みは。」
「少しだけです。」
「無理は。」
「していません。」
「……はい。」
いつもの確認。
でも、今日はその一つ一つが、別れの前の点検のように聞こえた。
私は敷居の内側で手を握った。
「今日は、出立前のご挨拶ですか。」
思ったより冷静に言えた。
ヴィルヘルムは静かに頷いた。
「はい。」
やはり。
「明朝、公爵領館を発ちます。」
明朝。
明日。
もう、行ってしまう。
私は息を吸った。
「そうですか。」
それだけ言うので精いっぱいだった。
「今日、少しだけでもお会いできればと思いました。」
「お忙しいでしょうに。」
「会いたかったので。」
胸が跳ねる。
どうして、そういう言い方をするのか。
私は視線を落とした。
「……確認ではなく?」
「今日は、確認だけではありません。」
静かな声だった。
私は顔を上げた。
ヴィルヘルムは、こちらをまっすぐ見ていた。
王族の装い。
整った姿。
遠い人のはずなのに、その目だけは、昨日台所で私の指を手当てした時と同じだった。
「レベッカ嬢。」
「はい。」
「しばらく、不在にします。」
「聞きました。」
「はい。」
「帰還式典と、王太子選定会議です。」
「はい。」
「三か月以上かかるかもしれない。」
「はい。」
「……戻ってくるのですか。」
言えた。
ついに言えた。
声は小さかった。
でも、確かに言った。
ヴィルヘルムの瞳が、わずかに揺れた。
私はすぐに続けた。
「いえ、あなたに約束する義務はありません。王都でのことは私には分かりませんし、王太子になれば公爵領へ戻ることすら難しくなるでしょう。私はあなたの事情に口を出せる立場ではありませんし、そもそも――」
「戻ります。」
言葉を遮られた。
私は息を止めた。
ヴィルヘルムは、はっきり言った。
「戻ります。」
二度目。
静かで、強い声。
「約束できるのですか。」
「はい。」
「王都の事情が変わっても?」
「戻ります。」
「王太子に選ばれたとしても?」
聞いてしまった。
ヴィルヘルムは一瞬だけ目を伏せた。
その一瞬が怖かった。
でも、彼はすぐに私を見た。
「たとえ立場が変わっても、戻ります。」
「なぜ。」
問いがこぼれた。
なぜ、そこまで言うのか。
監視なら、別の者に任せればいい。
確認なら、手紙でも報告でもできる。
心配なら、マーサやローレンスに頼めばいい。
王都へ行く人が、王太子候補が、この森の家に戻る必要などない。
ヴィルヘルムはすぐには答えなかった。
けれど、目を逸らさなかった。
「ここに、戻りたいからです。」
言葉が落ちた。
まっすぐに。
胸の奥へ。
私は何も言えなかった。
ここに。
森の家に。
私の場所になったと言った、この古い家に。
戻りたい、と。
「……変な方ですね。」
ようやく出た言葉は、それだった。
もっと別のことを言うべきだったのかもしれない。
けれど、それしか出なかった。
ヴィルヘルムの目元が、ほんの少しだけやわらぐ。
「よく言われます。」
「でしょうね。」
「はい。」
「王都には、もっと立派な場所があるでしょう。」
「あります。」
「公爵領館にも。」
「あります。」
「ここは古い家です。」
「はい。」
「屋根もまだ心配です。」
「はい。」
「畑も小さいです。」
「はい。」
「食事も質素です。」
「はい。」
「なのに?」
ヴィルヘルムは静かに答えた。
「それでも、ここに戻りたいと思います。」
胸が苦しくなった。
嬉しいのか、怖いのか、分からない。
戻ると言われても、未来は変わるかもしれない。
約束は破られることがある。
でも、今この人は逃げずに言った。
戻ります、と。
ここに戻りたい、と。
私はそれを、聞きたかったのだ。
「……分かりました。」
声が少し震えた。
「では、戻ってきてください。」
言った瞬間、顔が熱くなった。
あまりにも素直すぎた。
私は慌てて続ける。
「確認が必要なのでしょう。屋根も、畑も、柵も、私の無茶も。」
「はい。」
「便利な理由は、いくらでもあります。」
「はい。」
「ですから、戻ってきてください。」
ヴィルヘルムは、深く頭を下げた。
「必ず。」
必ず。
その言葉は、怖いほどまっすぐだった。
私は目を伏せた。
「……それと。」
「はい。」
「その布飾り。」
私はノクスの手綱袋を見た。
薄緑の布飾りが、夕方の光の中で小さく揺れている。
「王都へ持っていくのですか。」
「はい。」
「不釣り合いではありませんか。」
「必要ですから。」
即答だった。
胸がまた跳ねる。
「王都の方々に笑われますよ。」
「問題ありません。」
「王族の荷物に、不揃いな手作りの布飾りなど。」
「私のものです。」
言葉に詰まった。
――私のもの。
それは、店で買ったからだ。
そうに決まっている。
なのに、違う意味に聞こえてしまう。
「……好きにしてください。」
「はい。」
「失くさないでください。」
言ってしまった。
ヴィルヘルムは少しだけ目を見開いた。
私はすぐに顔を逸らす。
「売り物の品質確認のためです。王都まで持っていって壊れたら、耐久性に問題があるということです。」
「なるほど。」
「笑わないでください。」
「笑っていません。」
「目元が笑っています。」
「すみません。」
「謝ればいいと思っていますね。」
「いいえ。」
いつものやり取り。
これが、しばらくできなくなる。
そう思うと、胸の奥がまた痛んだ。
ヴィルヘルムは、懐から小さな紙包みを取り出した。
「これを。」
「何ですか。」
「軟膏です。先日のものと同じです。」
「また。」
「指が治るまでは使ってください。代金は――」
「払いません。」
即答した。
ヴィルヘルムが止まる。
私は紙包みを見つめたまま言った。
「これは、餞別ですか。」
「餞別ではなく。」
「では?」
「……戻るまでの間、持っていてほしいものです。」
私は紙包みを受け取れなかった。
それを受け取ったら、彼の不在を認めることになるような気がした。
けれど、受け取らなければ、彼の心配も拒むことになる。
少しの沈黙のあと、私は手を伸ばした。
「預かります。」
「預かる?」
「あなたが戻ったら、残りを返します。」
ヴィルヘルムは、しばらく私を見ていた。
それから、静かに頷いた。
「では、預けます。」
「はい。」
「戻って、受け取りに来ます。」
「そうしてください。」
手のひらに、紙包みの重みが乗る。
軽い。
とても軽い。
でも、約束の重みがあった。
マーサが聞いたら、面倒なことをしてるねえ、と笑うだろう。
ローレンスなら、いい商談だと言うかもしれない。
私は紙包みを握った。
「道中、お気をつけて。」
ようやく、別れの言葉らしいものが言えた。
ヴィルヘルムは頭を下げる。
「ありがとうございます。」
「無理はしないでください。」
「はい。」
「仕事を夜に回しすぎないでください。」
「……はい。」
「今、少し間がありました。」
「努力します。」
「実行してください。」
「はい。」
「馬にも無理はさせずに。」
「はい。」
「あなたにも。」
今度は、ちゃんと言えた。
言ってから、目を伏せた。
ヴィルヘルムの視線が揺れたのが分かった。
「……はい。」
彼の声は、少し低かった。
それだけで、胸が詰まりそうになる。
鳥除けの鈴が鳴った。
手綱袋の布飾りも、小さく揺れた。
夕暮れの森の家に、夏を迎える風が吹いている。
ヴィルヘルムは、ノクスの手綱を取った。
それでもすぐには馬に乗らない。
言葉を探しているようだった。
私も同じだった。
言いたいことはある。
気をつけて。
戻ってきて。
忘れないで。
私はここで暮らしているから。
あなたが戻るまで、ここにいるから。
でも、どれも言葉にすると怖かった。
だから、私は別のことを言った。
「畑は、たぶん戻る頃にはもっと大きくなっています。」
ヴィルヘルムがこちらを見る。
「はい。」
「布飾りも、もう少し上手くなっていると思います。」
「はい。」
「茶布の注文も増えましたし。」
「聞きました。」
「ローレンスさんから?」
「はい。」
「情報が早いですね。」
「確認です。」
「ほんとに、便利な言葉。」
「はい。」
私は少しだけ笑った。
笑えた。
それだけでよかった。
「ですから。」
私は息を吸った。
「戻ったら、確認してください。」
ヴィルヘルムの表情が、静かに変わった。
ほんのわずか。
でも、確かに。
「必ず。」
彼はもう一度言った。
その言葉を、私は胸の中にしまった。
ヴィルヘルムは馬に乗った。
高い位置から見下ろされると、また距離を感じる。
王都へ行く人。
王族。
王太子候補。
それでも、手綱袋には私の薄緑の鈴が揺れている。
彼は最後に、深く頭を下げた。
「行ってまいります。」
――行ってまいります。
その言葉に、息が詰まった。
帰る場所へ告げるような言葉だったから。
私は、どう返すべきか分からなかった。
けれど、自然に口が動いた。
「……行ってらっしゃいませ。」
声は小さかった。
でも、届いたと思う。
ヴィルヘルムは一瞬、目を伏せた。
それから、静かに手綱を引いた。
ノクスが歩き出す。
薄緑の布飾りが、風に揺れる。
庭の鳥除けの鈴も、風に揺れていた。
私は敷居の内側に立ったまま、その背中を見送った。
濃い藍色の外套。
真っ直ぐな背中。
淡い金髪。
手綱袋の薄緑。
やがて、森の道が彼を隠していく。
蹄の音が小さくなる。
それでも私は、扉を閉められなかった。
完全に聞こえなくなってから、ようやく息を吐いた。
手の中には、預かった軟膏。
耳には、まだ鈴の余韻。
胸の奥には、必ず、という言葉。
私は扉に手をかけた。
――戻ったら、確認してください。
自分で言った言葉を思い出す。
その時まで。
私は、ここで暮らしていなければならない。
この家を守り、畑を育て、糸を縫い、茶布を仕上げて。
――彼が戻った時、ちゃんと見せられるように。
私はゆっくり扉を閉めた。
庭の鳥除けの鈴が、夜風に揺れて静かに鳴った。
今日の鈴の音は、やけに遠く感じた。
けれど、完全には消えていなかった。




