第八十六話 男爵令嬢カルラ
カルラ・トリスタンは、悩んでいた。
とても悩んでいた。
人生でこれほど悩んだことが、かつてあっただろうか。
いや、ある。
去年、夏の新作菓子を三つ買うか四つ買うかで、かなり悩んだ。
……あれも大きな問題だった。
だが、今回の悩みはそれよりも重大だ。
「なんで勉強って、こんなに退屈なのかしら。」
カルラは、広い客間の椅子に座り、机の上に突っ伏した。
礼儀作法。一般教養。淑女の嗜み。
――私が毎日元気で楽しいなら、もうそれでいいじゃない。
「あなたはいいわね。」
隣で眠そうに欠伸する茶白の猫を見る。
父に強請って半年前に買ってもらった雄猫だ。
名前はトマト。命名の理由はカルラがトマトが好きだから。
カルラは、ニモア公国のトリスタン男爵家の一人娘として生まれた。
公国の肥沃な地に領土を構えるトリスタン家は、元々裕福ではあったが、更にカルラの父、現男爵には商才があった。
新しい技術や物事に目がなく、人との交流や旅も大好きで、興味と才の赴くまま手を出し、事業を拡大していた。
そして近年、父は発展著しいウィンツバークに目を付け、新たな投資を検討するために、街の外れに小さな別荘を買った。
カルラはその話を聞いて飛びついた。
元々ウィンツバークの名前は、友人である商家の子女たちから、観光地の一つとして名前を聞いていた。
美しい海。
新鮮な海産物を使った美味しい料理。
海外から取り寄せられた珍しいアクセサリーや工芸品。
最先端の流行が並ぶ通り。
そして、お洒落なお店で食べる色とりどりのスイーツ。
……すばらしい。
だから父に頼み込んだ。
ウィンツバークへ連れて行ってほしい。
観光ばかりではない。
見聞を広めるためだ。
異国文化に触れるためだ。
将来のためだ。
そう言ったら、父は疑わしそうな目をした。
けれど、一人娘のカルラに弱い父は、最終的に折れた。
ただし条件を出された。
遊ぶだけではなく、きちんと勉強すること。
将来の婿取りに備え、礼儀作法と一般教養を学び直すこと。
カルラは力強く頷き、父に抱き着いた。
その時は、本当にできると思っていた。
できる気がしていた。
初めの数週間は楽しかった。
観光したり、商家の友人と遊んだり、美味しいものを食べたり。
だが、父が嬉しそうに家庭教師として連れてきた年配の、いかにも上品な老貴婦人の目に宿る厳しい光を見た時、カルラは自分の選択を後悔した。
そうしてカルラの苦難の日々が始まった。
姿勢が悪い。
返事が軽い。
目が動きすぎる。
菓子に気を取られすぎる。
刺繍の針目が踊っている。
踊っているならまだ楽しそうで良いじゃん、とカルラは思った。
しかし、家庭教師はそうは思わなかった。
三日目にはため息が増えた。
五日目には眉間の皺が深くなった。
七日目には父へ「私ではお役に立てません」と告げ、見事に匙を投げた。
カルラは落ち込んだ。
少しだけ。
いや、半日ほど。
その後、友人になった商家の娘ミーナと菓子を食べに行き、だいぶ元気になった。
――菓子は偉大である。
カルラの嘆きを聞いたミーナは、少し考えて手を打った。
「メアリー先生だ。」
「メアリー先生?」
「ほら、ヒリアード印刷社のエレナさん。もうすぐ結婚適齢期だから、家庭教師を雇ったんだって。で、メアリー先生。」
「礼儀作法の先生なの?」
「いえ、礼儀作法はもちろんだけど、経済や外国語とか、一般教養もできるらしいわ。」
「……へえ。」
「分かりやすくて、話が面白くて、厳しい時もあるけど基本優しくて。で、美人。」
美人。
「おいくつなの?」
「うーん、24か5くらいって言ってたかしら。」
若い。
もしかして授業の合間にお菓子で休憩したり、流行や恋愛の話なんかで盛り上がれるかしら。
いける。
いけるわ。
それなら退屈せずに授業が受けられるかもしれない。
カルラは、その先生の連絡先を聞いてほしいと、ミーナにお願いした。
早速父に頼むと、最初は難しい顔をされた。
「身元は確かなのか。」
「商家の娘たちが習っているそうです。」
「貴族家で教えた経験は?」
「分かりません。」
「年齢は。」
「若いらしいです。」
「若い家庭教師か。」
父は眉を寄せた。
しかし、カルラは負けなかった。
「お父様が連れてきた先生は私には合いませんでした。」
「合わなかったのではないだろう。」
そうだ。カルラが真面目に授業を受けなかったせいだ。
「……逃げられました。」
「もっと悪い。」
父は溜息を吐いた。ぶつぶつと母の名を呟いている。
父が困った時に祈るのは、いつも母に対してだ。
カルラと違っておっとりしつつも抜かりのない母は、今はこちらに来て不在の父の代わりに、領地を見ている。
父は母に頭が上がらない。
愛妻家なのだ。いや、恐妻か。
「お父様。私が選んだ家庭教師です。気合いを入れて、真面目に、逃げずにやります。」
もうこれ以上別の家庭教師を父に連れて来られては困る。
……叱責も嘆息も健康に悪い。
「菓子屋へ行く口実ではないだろうな。」
「違います。菓子屋は帰りに寄ります。」
「正直でよろしい。」
結局、父はメアリー先生を雇うことを決めてくれた。
持つべきものは情報通の友と、財布の紐が最終的には緩む父だ。
カルラはうんうんと心の中で感謝した。
初めてメアリー先生に会った日、カルラは少し驚いた。
――綺麗な人。
軽く癖の入った、それでも艶やかで美しい赤茶の髪。
明るく、時々好奇心に輝く亜麻色の瞳。
背筋がまっすぐで、立っているだけで空気が整う。
父は最初家庭教師の件を渋られたらしい。
貴族相手は難しいかもしれないと。
しかし、娘の頼みの綱ということもあって、給金を上げる形でなんとか引き受けてもらえたらしい。
目の前に立つ女性からは、消せない気品が漂っている。
仕草一つ一つ、私なんかよりずっと貴族らしい。
服は上等でも、派手でもない。
それなのに、どこか目を引く。
顔立ちは綺麗だった。
すごく綺麗だった。
ただ、近寄りがたい美しさではない。
微笑むと柔らかい。
そして、目がよく動く。
相手を見ている。
部屋も見ている。
椅子の高さも、机の位置も、窓から入る光も見ている。
カルラは、少し背筋を伸ばした。
なぜか、伸ばしたくなったのだ。
「メアリー・リーストンと申します。本日からよろしくお願いいたします。」
先生は丁寧に礼をした。
その礼だけで、カルラは思った。
あ。
これは本物だ。
何が本物なのかは分からない。
でも、本物だ、と思った。
「カルラ・トリスタンです。よろしくお願いします。」
カルラも慌てて礼をした。
「緊張しなくて大丈夫です。」
先生は微笑んだ。
「礼儀作法は、相手を怖がらせるためのものではありません。相手と自分の間に、安全な距離を作るためのものです。」
「安全な距離?」
「はい。近すぎると失礼になる。遠すぎると冷たくなる。ちょうどよい距離を探すための道具です。」
カルラは目を瞬いた。
前の先生は、礼儀とは守るべき規則である、と言った。
それは正しいのだろう。
でも、よく分からなかった。
メアリー先生の言葉は、少し違った。
距離。
道具。
それなら分かる気がする。
「基本は、礼儀作法を中心に、でよろしかったですね。」
「はい。」
「では、まず立ち方から始めましょう。」
「はい。」
「肩の力を抜いてください。」
「はい。」
「抜きすぎです。」
「はい。」
「背中を伸ばして。」
「はい。」
「顎を少し引いて。」
「はい。」
「今度は引きすぎです。」
「難しいです!」
「難しいです。ですから練習します。」
先生は笑った。
怒らなかった。
呆れもしなかった。
カルラは、少し安心した。
それからの授業は、思っていたよりずっと面白かった。
礼儀作法、嗜み、一般教養。
メアリー先生は、分からなければ説明を変え、集中できない時は休憩を入れたり、手や体を動かす内容にしたり、とにかくカルラをよく見てくれた。
もちろん、大変だった。
特に礼儀作法。
自分の中で意味のないと思ったことには途端に興味を失ってしまうカルラにとって、貴族の常識は理解できないことの連続だった。
立つ。
歩く。
座る。
名乗る。
挨拶を返す。
扇を持つ。
手袋を外す。
相手の地位に応じて言葉を変える。
知らない話題を微笑みながら逃げる。
相手の自慢話を、興味深そうに聞く。
……最後のものは、特に難しかった。
「先生、興味がない時はどうすればいいですか。」
「興味のある点を一つ探します。」
「一つもなかったら?」
「相手の服の仕立てを見る。」
「それも興味がなかったら?」
「その場の花を見ます。」
「花もなかったら?」
「茶器です。」
「茶器もなかったら?」
「そういう場に花も茶器もないなら、そもそも長居しなくてよい場です。」
カルラは感動した。
礼儀作法には、逃げ道もあるのだ。
「先生、すごいです。」
「逃げ道を知ることは大切です。」
先生は真面目な顔で言った。
その真面目さが、少しおかしかった。
カルラは笑いそうになり、慌てて口元を押さえた。
メアリー先生は厳しい。
だが、理不尽ではない。
できない時は、なぜできないのかを一緒に考えてくれる。
カルラの直せない癖、気を取られやすいことにもすぐに気づいた。
「カルラ様は、見えるものが多いのですね。」
「見えるもの?」
「部屋に入ると、花も、窓も、人の服も、菓子の皿も見えてしまうのでしょう。」
「菓子の皿は見えます。」
「でしょうね。」
「先生、今、少し笑いました?」
「いいえ。」
「笑いました。」
「少しだけです。」
先生は素直だった。
カルラは、その素直さも好きになった。
授業は少しずつ進んだ。
父は喜んだ。
前の家庭教師に匙を投げられた娘が、姿勢よく椅子に座り、客人に挨拶し、食卓で肘をつかなくなったのだ。
大進歩である。
カルラ自身も、自信がついてきた。
もちろん、完璧ではない。
今でも時々、菓子に目が行く。
面白い帽子の人がいると、つい見てしまう。
父の長い仕事話を聞いている最中に、窓の外の猫を目で追ってしまう。
だが、以前よりはましになった。
……たぶん。
……きっと。
ある日の授業で、刺繍があった。
たしなみの一つとして、ハンカチの隅に小さな模様を入れる練習である。
カルラは刺繍が苦手だった。
針目が踊る。
前の先生にそう言われた通り、確かに踊る。
しかも、時々迷子になる。
糸も絡む。
針は指を刺す。
刺繍とは、上品な顔をした小さな戦場である。
「痛っ。」
「指を見せてください。」
メアリー先生がすぐに手を取った。
「深くはありませんね。少し休みましょう。」
「先生、刺繍って、貴族令嬢に本当に必要ですか。」
「必須ではありません。」
「そうなんですか?」
「時代と場所によります。ですが、手元を美しく見せる動作、集中力、贈り物を整える感覚、そういうものを学ぶには便利です。」
「便利。」
「便利です。」
メアリー先生は道具箱から布を一枚出した。
「難しい図案でなくてよいのです。小さな模様で十分です。たとえば。」
先生は針を取った。
手つきは慣れていた。
滑らかで、迷いがない。
カルラはじっと見つめた。
糸が布を通る。
小さな葉。
細い茎。
双葉のような形。
素朴で、可愛い模様が布の隅に浮かび上がっていく。
「わあ。」
カルラは思わず声を上げた。
「可愛い。」
「簡単な模様です。」
「簡単には見えません。」
「慣れればできます。」
「先生は何でも慣れればできますって言います。」
「たいていのことは、慣れると少し楽になります。」
「先生には、慣れないことはないのですか。」
カルラが言うと、先生は一瞬だけ手を止めた。
それから、少し笑った。
「そうですね。あるかもしれません。」
その笑顔は、いつもより少し遠くを見ているようだった。
カルラは首を傾げたが、深くは聞かなかった。
先生には、時々そういう顔がある。
遠い場所を思い出すような顔。
でも、すぐに戻ってくる。
目の前の布へ。
目の前の授業へ。
目の前のカルラへ。
「この模様、素敵です。森みたい。」
「……森。」
「はい。素朴で、かわいくて。なんだかあったかいです。」
先生は、少しだけ目を伏せた。
そして、静かに言った。
「それなら、良かったです。」
カルラは、完成した小さな刺繍を見つめた。
葉と茎。
双葉。
控えめなのに、目が離せない。
「先生、そのハンカチ、いただいてもいいですか。」
「これを?」
「はい。お手本にしたいです。」
「でも、これは本当に簡単なものですよ。」
「だから欲しいんです。私にもいつかできる気がするから。」
先生は少し迷った。
それから、布の端を整えて、カルラへ差し出した。
「では、差し上げます。けれど、練習もしてくださいね。」
「します。たぶん。」
「たぶん?」
「します。」
「よろしい。」
先生は少しだけ厳しい顔をした。
カルラは笑いながら、ハンカチを受け取った。
白い布。
隅に、小さな双葉と細い茎。
派手ではない。
宝石も金糸もない。
けれど、不思議と温かい。
カルラはそれを大切に畳み、胸元の小さな袋へしまった。
「ありがとうございます、先生。」
「どういたしまして。」
「今度、これと同じ模様を練習します。」
「はい。針目が踊らないように。」
「少しくらいなら踊っても可愛いと思います。」
「踊りすぎると迷子になります。」
「私の針目みたいに?」
「自覚があるなら大丈夫です。」
先生は真面目に頷いた。
カルラは吹き出した。
その日、授業が終わる頃、父が客間へ顔を出した。
「カルラ、どうだ。きちんと学んでいるか。」
「もちろんです。見てください、お父様。私、椅子にまっすぐ座れます。」
「……それは幼少期に習得してほしかったな。」
「今からでも遅くありません。」
父は額を押さえた。
メアリー先生は横で静かに微笑んでいる。
父は先生へ向き直った。
「メアリー先生、娘はご迷惑をかけていませんか。」
「とても意欲的です。」
「それは迷惑をかけている時の言い換えでは?」
「……積極的です。」
「なるほど。」
父は何かを察したように頷いた。
カルラは少し不満だった。
私は本当に頑張っているのに。
ただ、時々横道へ逸れるだけである。
父はメアリー先生から今後の授業予定や、完了までの大まかなスケジュールを聞き、再度礼を言って彼女を見送った。
そうして、カルラと二人きりになった応接間で、ゆっくりとソファーに腰を掛けた。
「実は、近くアインシュヴァルドで大きな建国記念式典がある。」
父が口を開いた。
アインシュヴァルド。
カルラの祖母の出身地。西大陸の大国だ。
「建国記念式典?」
「ああ。併合後初のものとあって、かなり大規模な祝宴になるらしい。母のヴァルメリア子爵家にも招待状が来ている。」
カルラは目を輝かせた。
「行きたいです!」
「まだ何も言っていない。」
「……行きたいです。」
「お前は本当に早いな。」
「学んだことを実地で試す機会です。」
カルラは胸を張った。
「先生にも言われました。礼儀作法は道具だと。道具は使わなければ錆びます。」
父は堂々と言ったカルラを無言で見て、やれやれと溜息を吐いた。
「……最近、お前にしては珍しく、真面目に頑張っていたからな。」
珍しくは余計だ。
これまでは機会がなかっただけだ。
父は顰めていた眉を緩めて、苦笑した。
「伝えたら絶対行きたがると思っていたよ。」
「ということは?」
父は静かに頷いた。
カルラは思わず飛び跳ねそうになって、慌てて心の中のイメージに留めた。
危ない、危ない。行かせてもらえなくなっては困る。
「祖母に頼んでみよう。だが、行くなら失礼のないようにすること。アインシュヴァルドの王族や高位貴族も集まる。」
「分かっています。」
「本当に?」
「教わりましたから。」
出発の予定や準備等などを話す父を他所に、もうカルラの頭の中はまだ見ぬかの地で、すでに一杯になっていた。
華やかな衣装。
豪華に飾り付けられた大きな広間。
美しく並ぶ珍しい料理たち。
そして、きっと、食べきれないほどの美味しいお菓子。
それから、もし素敵な紳士がいたら。
父は、カルラの心がもうすでに旅を始めてしまっていることに、いつものように気づかないまま、話し続けていた。




