第五章 悪役公女は、先に手を打っている
森の中を歩きながら、わたしは何度も、背中のほうを振り返りたくなった。
もちろん、視線を向けたところで、もう王城が見えるわけではない。
高い塔も、白い石壁も、朝の光を弾く窓も、はるか後ろだ。いま目に入るのは、重なり合う木々と、薄暗い緑の気配ばかり。
なのに、ときどきどうしても、あの場所がどうなっているのかを想像してしまう。
父上は怒っただろう。
母上は、たぶん静かに怒っただろう。
リナは巻き込まれて叱られただろうか。
そして――ミレイユは――そこまで考えると、胸の奥に小さく冷たいものが落ちる。
セアトーは前を歩いていた。無駄のない足取りで、枝を払うときすら音が少ない。
森の中で黒いローブはどうなのかと思っていたけれど、彼が着ると不思議と周囲に溶け込んで見えるから不思議だ。
わたしは、少し遅れてその背を追いながら、足元の根を避けた。
地面は柔らかく、ところどころ湿っている。
歩きやすいとは言えないけれど、完全に獣道というほどでもない。
人が時折通っているのか、あるいはセアトーが魔法か何かで道を見抜いているのか。
「転ばないでください」
前を見たまま、彼が告げた。
「転んでないわよ、まだ」
「“まだ”という言い方をする時点で不安です」
「あなたって、ほんとにちょっと優しくすると死ぬの?」
「少なくとも今すぐは死にません」
「そう」
やっぱり感じが悪いと思った。
感じが悪いのに、話していると、妙に緊張がほぐれるのだから腹が立つ。
肩の上のフェルが「ぴい」と鳴いた。
「なによ。あなたまで、笑ってるでしょ!」
「ぴ」
「絶対そうだわ」
フェルはどこ吹く風で羽を整える。もう少し緊張感というものを持ってほしい。
少し進んだところで、森がほんのわずかに開けた。
大木の根元が盛り上がり、そこに苔が広がっている。
ひと息つくにはちょうどいい場所だった。セアトーはそのあたりで足を止めると、周囲を一度見回してから言った。
「少し休みます」
「助かった……」
思った以上に声に疲れが滲んでいたらしく、セアトーがちらりとこちらを見た。
「無理をしている自覚はおありのようですね」
「あるわよ。森の中を徒歩で逃げる訓練なんて、普通しないもの」
「今後の教育課程に加えるよう進言しておきます、リシェル王女」
「え! やっぱり、あなた、私のことを知っていたの?」
どうも、そんな気はしていたのだ。
「直接お会いしたことはなかったですね。しかし、あなたの教師の一人は、私の弟子なのですよ」
「弟子……って? あなた、何歳?」
「面と向かって、殿方に年齢を尋ねるのは、はしたないと習わなかったのですか?」
わたしは、首を振る。
「それも、教育課程に加えるよう進言しましょう」
「やめて。それを本気でやりそうな顔しないで!」
冗談を言っているのか、表情が変わらないのでよく分からなかった。
苔むした根元へ腰を下ろすと、ようやく脚がじんじんしているのが分かった。
乗馬のあとに走って、そのまま森の中を歩いているのだから当然だ。
手のひらにも、転んだときについた土がまだ少し残っていた。
わたしは水袋を取り出し、一口だけ飲んだ。冷たくはないけれど、喉が潤うだけで少し落ち着く。
その静けさの中で、ふいに、王城のことがもっとはっきり脳裏に浮かんだ。
きっと、もう騒ぎになっている。
「気になりますか?」
セアトーの声が、静かに降ってくる。
「何が……?」
「城のことです」
否定しかけて、やめた。ずいぶん、勘の鋭い男だと思った。ひょっとしたら、読心の魔法でも使っているのだろうか?
「少しは、気にしています」
「少し、ですか?」
「かなり、って言ったら満足?」
「別に。正直なら、それで結構です」
ほんとうに、いちいち言い方が冷たい。
でも、だからこそ、その先を聞きたくなる。
「あなた、何か知ってるの?」
「推測なら」
「聞くわ」
セアトーは短く頷いた。
「あなたの失踪は、王城にとって大問題です。しかも、ただ部屋からいなくなったというだけではない。見張りの目を抜け、足取りも曖昧なまま消えたとなれば、かなりの騒動になっているでしょう」
「どうして、わたしが見張りを抜けてきたって分かったの?」
「これまでの状況からの推測です。あなたも、どうなっているか想像できますか?」
「う、ん」
……最初にわたしの不在に気づくのは、朝の支度に来た侍女たちだろう。
隠し通路のことは知られていないはずだから、部屋にいない、窓からも出ていない、見張りも何も見ていない、という最悪の状況になる。
父上への報告。母上の指示。衛兵の動員。城門の封鎖。使用人たちへの聞き取り――。
想像しただけで胃が痛い。
そして、その渦中で――ミレイユは、きっと最初から冷静だ。
わたしは、自分でも気づかないうちに、少し強く水袋を握っていたらしい。革がきしむ音がした。
「警備の失態も問われるわよね?」
「表向きには、王女の身を案じるかたちで捜索が進むでしょう。ですが同時に、“なぜそのようなことをしたのか”という物語づくりも始まる」
その言い回しに、わたしは顔を上げた。
「物語づくり?」
「ええ。人は理解できない事態に直面すると、分かりやすい筋書きを欲しがる。王女はわがままで、責務から逃げ出した。あるいは、王女は何者かに唆された。あるいは、心を病んでいた。そういった都合のよい説明です」
心臓の奥に、嫌な冷たさが広がる。
それは、あまりにもありそうな話だった。
わたしがどうして苦しかったのか、何を嫌がっていたのか、そんなことは関係ない。
ただ、“王女がいなくなった”という事実に、周囲が納得しやすい理由を貼りつけるだけだ。
「ミレイユ……」
気づけば、その名前が口からこぼれていた。
セアトーは、少しだけ目を細める。
「その方が?」
「従姉よ。王家の傍流の公女」
「信用できない?」
「できない、というより……」
言葉を探して、わたしは少し黙った。
ミレイユのことを説明するのは難しい。ただの嫌な女ではないからだ。
むしろ逆で、彼女は大抵の場面で誰より美しく、誰より正しく振る舞える。誰かを露骨に傷つけることはしないし、冷たい言葉を吐くことも少ない。
だから、厄介なのだ。
「表向きは、すごく優雅で、気が利いて、評判のいい人」
「裏は?」
「裏、というほど露骨じゃないの。でも、あの人はたぶん、相手が自分にとって都合のいい位置に立つよう、周囲を整えるのが上手い」
セアトーは、興味深そうに聞いていた。
わたしは、少しずつ、頭の中に浮かぶ情景を言葉に変えていく。
――ミレイユは、父上の前で、心配そうな顔をしてみせる。
――王妃付きの侍女へ、慎ましい口調で“リシェル様は最近少しお疲れでしたものね”と囁く。
――そして、アルヴィン王子の前で、“きっと深く思い詰めておられたのでしょう”と悲しそうに言う。
全部、あくまで“案じている”体裁のままだ。
でも、その言葉の端々に、“わがまま”“未熟”“責務から逃げた王女”という印象が付加されるのだろう。
「あの人なら、きっと、やる……」
そう口にしたとき、自分の声に少しだけ震えがあった。
セアトーはそれを指摘しなかった。代わりに、短く言う。
「ならば、先に手を打たれている可能性は高いでしょう」
「やっぱり?」
「あなたの不在を、誰より早く“意味のある出来事”に変えられる人間がいるなら、その者は、既に動いているはずです」
冷静な言葉なのに、妙に刺さった。
そうだ。きっと、ミレイユは待ってなどいない。
わたしが逃げた瞬間から、いや、もしかすると逃げる前から、彼女は自分に有利な盤面を作る準備をしていたのかもしれない。
たとえば王太子との縁談や、王城での評判や、父上や母上の信頼――。
王女が消えた。その空白は、ただ空白では終わらない。誰かがそこに立つ。あるいは、立とうとする。
「最悪……」
本音が、そのまま漏れた。
セアトーは、珍しくすぐには何も言わなかった。
代わりに小さな革袋を取り出し、中から乾燥した果実をひとつ差し出してくる。
「食べてください」
「え?」
「思考が負の方向へ偏っているときは、だいたい糖分が不足しています」
「なにその理屈?」
「経験則です」
半信半疑で受け取り、口に入れる。少し酸っぱくて、でも甘い。思ったより美味しかった。
「あなた、こういうの持ち歩いてるのね?」
「長時間、まともな食事が取れないこともありますから」
「魔法使いって、もっとこう、神秘的なだけの人種だと思っていたわ」
実際、ホンモノの魔法使いを見るのは初めてだ。元々、国に一人か数人くらしかいない貴重な存在だから、ほとんど国中を回っているとは聞いていた。
「神秘的なだけ……ふむ。その認識は改めたほうがいい」
「そうね。現実的にいるものね」
わたしは、もうひとつ果実をもらいながら、小さく息を吐いた。
少しだけ、頭がすっきりする。
それでも、王城のことを思うと胸は痛い。
いや、逃げたことを後悔しているわけではない。
しかし、逃げた瞬間から、自分の不在まで誰かに利用されていくのかと思うと、腹立たしさと情けなさがないまぜになる。
わたしは、そこまで、考えが至らないくらい、追い詰められていた。
「ねえ……」
わたしは果実の種を指先で転がしながら言った。
「戻ることになると思う?」
セアトーは、視線をわたしに向けた。
「いずれは」
「そんなに、あっさり……」
「あなたは、完全に王城を捨てて、どこかで別人として生きるつもりではないでしょう?」
図星だった。
簡単にそうなれたら、どんなに楽だろうと思う。
遠くの村で身分を隠して暮らすとか、旅をしながら自由に生きるとか。
物語ならそういう展開もあるのかもしれない。
でも、現実のわたしは、王女であることを完全には捨てきれない。
嫌っていても、その立場が何を意味するか知っているし、父上や母上との縁が消えるわけでもない。
なにより、わたしがいなくなることで、別の誰かが勝手にわたしの物語を上書きするのが許せなかった。
ため息が出る。
「戻るとしても……」
わたしは、ゆっくり言う。
「前と同じには戻りたくない」
セアトーは、ほんの少しだけ頷いた。
「それでいいでしょう」
その一言が、不思議なくらい胸に染みた。
王女らしくとか、正しくとか、そういう枠じゃなく、ただ“それでいい”と言われることが、こんなにありがたいなんて思わなかった。
しばらくして、わたしたちは再び立ち上がった。
森は相変わらず薄暗く、どこか湿った匂いがする。遠くで鳥が鳴き、風が高い枝を揺らしていた。セアトーが先に歩き出し、わたしも、その後に続いた。
歩きながら、わたしは、もう一度だけ背後を振り返りそうになった。
でも、今度は振り向かなかった。
セアトーの言う通りだろう。王城では、きっとミレイユが先に動いている。
ならば、わたしも、ただ怯えているだけではいられない。
今は、森の中にいても、いずれ戻るなら、そのときにはもう少し違う自分でいたかった。
誰かに選ばれ、誰かに語られるだけの王女ではなく――自分で何を言うか、何を拒むか、ちゃんと決められるわたしとして。
「足元に気を付けて」
セアトーの声で我に返る。
その直後、危うく木の根に躓きかけた。慌てて踏みとどまる。
「助かったわ……」
「考えごとをしながら歩くには、森は向いていません」
「分かっているわ」
「そうであれば、結構です」
ほんとうに、上から目線で、人をくったような態度をする男だと思った。
でも、少しだけ笑いそうになった。笑えるなら、まだ大丈夫だと思う。
森の奥は、まだ深い。先には魔女がいて、王城では別の戦いが始まっているはずだ。
それでも、わたしは一歩ずつ進んでいると思えた。
でも、今後の道のりは、険しくなるかもしれないという、漠然とした予感があった。




