第四章 森の中で出会ったのは、顔のいい魔法使いでした
家出を決意したとき、わたしは、確かに本気だった。
でも、本気であることと、現実をちゃんと理解していることは、まったく別の話らしい。
そのことを、わたしは城を出てから半日も経たないうちに、いやというほど思い知らされた。
夜の間は、まだよかった。
白馬は賢く、夜道にも慣れているらしく、石畳を離れても危なげなく進んでくれたし、追っ手の気配もすぐにはなかった。
王城の灯りが遠ざかっていくのを見たときは、怖さよりも、胸の奥が少しずつ軽くなっていく感じのほうが強かった。
生まれて初めて、自分の意思で進んでいる。
それだけで、夜風まで特別に思えたくらいだ。
でも、夜が明けて、朝の光が道の輪郭をはっきりさせるころには、現実のほうが容赦なく迫ってきていた。
眠い。
寒い。
お腹が空いた。
それから、どこへ行けばいいのか、思っていた以上に分からない。
家出をすると決めるまでは勢いでいけても、その先をどこまで想像できていたかといえば、自信は、ない。
とりあえず北へ行けば叔父の城に辿り着ける、という程度の知識しかなかった。それに、街道をそのまま進めば、追っ手に見つかるだろう、ということも分かっていた。
だから、朝を迎えるころには、わたしは何度目かの分かれ道で迷っていた。
「ねえ、フェル」
手綱を少し緩めながら、前方の木立を見た。
「こういうとき、普通、導いてくれたりしない?」
「ぴい?」
わたしの肩に止まっていた赤い鳥は、気楽な声で鳴くだけだ。
「まったく頼りにならないわね……」
愚痴は言うものの、完全に一人でないだけで救われている自分が少し悔しい。
とにかく、街道を外れるしかなかった。
大きな道にいれば、いずれ追っ手と鉢合わせる。見張りの兵士だけとは限らない。王城からの連絡が届けば、沿道の宿場や村にも王女の捜索が回るはずだ。
乗っている馬も、身につけているものも、たとえ目立たないものを選んだとしても、育ちのよさを完全に隠せるほど器用ではない。
わたしは、白馬の首筋を軽く撫でてから、小さく息をついた。
「ごめんね。少し、無茶するわ」
馬は耳を動かし、ひとつ鼻を鳴らした。返事をしたつもりなら、わりと肝が据わっている。
街道から外れ、林の中へ入る。最初は、まだ道らしい道があった。山菜採りか薪集めのために人が入るのだろう、低木が分かれて、馬でも通れそうな細い道筋になっている。
けれど、それがいつまでも続くはずもなかった。
日が高くなるにつれ、木々は深くなり、下草も増え、枝は低く垂れ、行く手はどんどん曖昧になっていく。木漏れ日はあるのに、森の中は妙に薄暗く、風も通りにくい。足元には根が張り出し、馬は何度も慎重に足を選ばなければならなかった。
「……あの、これ、完全に迷ってない?」
「ぴい」
「そうよね、迷ってるわよね」
前世で読んだ本か何かに、森で迷ったらむやみに動かないほうがいい、と書いてあった気がする。でも、今は止まるのも怖い。追っ手が来るかもしれないし、それ以前に、こんな場所で一晩過ごせる気がまったくしなかった。
結局、わたしは、進み続けた。
途中、持ってきた焼き菓子をひとつかじった。ぼそぼそしていて、喉が渇いた。でも、何も食べないよりはましだ。王宮の朝食を思い出して少しだけ遠い目になった。スープもパンも、何のありがたみも感じていなかったのに。
昼に近づくころには、鞍の上に座っているのもつらくなっていた。白馬だって疲れているはずだ。どこかで少し休ませないと、と考え始めたそのときだった。
ざわ、と、空気が変わった気がした。
森の音が一瞬だけ遠のく。鳥の声も、風の擦れる音も、ふっと遠くなる。
動物の気配を察したときの馬の反応は、思っている以上に分かりやすい。白馬の耳がぴんと立ち、首筋に緊張が走るのが伝わってきた。
「どうしたの」
小声で問いかける。答えは返らない。当然だ。
けれど次の瞬間、その理由は嫌でも分かった。
ひゅっ、と鋭い音がして、何かがわたしの横を掠めた。
「きゃっ!」
反射的に身をすくめる。
矢だ。
少し遅れて、白馬が悲鳴みたいに高くいなないた。後ろ足のあたりに、浅くではあるけれど矢が刺さっているのが見えた。
「うそ……!」
驚いた馬が大きく跳ねる。咄嗟に手綱を引くけれど、もう遅い。身体が宙へ浮くような感覚がして、次の瞬間には地面へ投げ出されていた。
息が詰まる。背中と肘を強く打った。痛い。痛いけれど、それどころじゃない。
白馬はそのまま暴れるように走り去ってしまった。追う余裕なんてなかった。
目を上げると、木々の間から男たちが現れるのが見えた。
三人。いや、奥にもうひとりいるかもしれない。まともな旅人には見えない。毛皮を雑に着込み、剣や棍棒を下げ、顔にはあからさまな獲物を見る色があった。
「へえ、上玉じゃねえか」
「服も売れそうだな」
「馬は逃がしたが、女のほうが高いだろ」
聞きたくない言葉ばかりが耳に刺さる。
一瞬だけ、頭の中が真っ白になった。どうする。どうすればいい。剣はない。馬もない。ここは森の中で、助けなんて来ない。
でも、そのまま座り込んでいたら本当に終わる。
わたしは地面に手をついて無理やり立ち上がった。膝が少し震える。けれど、足はまだ動く。
「待ちな!」
「さようなら!」
待つ訳がない!
裾をつかみ上げるようにして走り出す。木の根を飛び越え、枝を避け、ろくに道もない森の中をただ前へ。背後から笑い声がついてくるのが、本当に最悪だった。すぐには追いつかず、わざと遊んでいるのが分かる。
怒りと恐怖で、喉の奥が焼けるみたいになる。
「ほんと……最低……!」
息が切れる。胸が痛い。こんなに全力で走ったことは、多分、前世も含めてほとんどない。
それでも、少しでも走らなければ。
木々の密度が濃いほうへ、低い茂みの多いほうへ進む。
馬ならともかく、人間なら通れる隙間を選ぶ。
前世の記憶か、この世界での知識か分からないけれど、少しでも相手の動きが鈍る場所を、直感に従って探した。
後ろから枝を踏み折る音が近づく。
「もう諦めろよ、お姫さま!」
その呼び方に、背筋が寒くなる。正体がばれているわけではなくても、向こうがこちらを“いいところの娘”だと見抜いているのは間違いなかった。
そのとき、フェルが肩からぱっと飛び立った。
「え、ちょっと!」
裏切られた、と思ったのは一瞬だった。
赤い鳥は前方の木立のほうへ一直線に飛び、その先の暗がりへ吸い込まれるように消えた。直後、空気がわずかに震えた気がする。
それは本当に、ほんの一瞬のことだった。
次の瞬間、わたしの目の前に、黒いローブをまとった人影が現れていたのだから。
「止まりなさい」
低く、よく通る声だった。
驚きすぎて、わたしは足を止めかけた。いや、止めかけただけで済んだのは褒めてほしい。森の中で突然現れた謎の人物なんて、盗賊より危ない可能性だってある。
でも、その人物はわたしではなく、背後の男たちのほうを見ていた。
黒いローブで長身だ。細く見えるのに、立ち方に隙がなかった。
深く被っていたフードを、彼は少し苛立ったような手つきで払い上げた。
現れた横顔に、思わず足が止まる。
黒髪で、ほとんど整いすぎた輪郭をしていた。
冷たいくらい端正な顔立ちだった。
青銀の瞳は、森の薄暗さの中で妙に明るく見えた。
顔が、いい。
いや、今それを考える状況ではないのだけれど、本当に一瞬そう思ってしまったのだから仕方がない。
そして、その肩には、先程、飛んでいったフェルが、何食わぬ顔で止まっていた。
「は……?」
状況の理解が追いつかない。
男――いや、青年、と言っていいのかもしれない――は、わたしを一度だけ振り返った。視線は冷静で、少しだけ面倒そうだ。
「怪我は、ありますか?」
「え?」
「動けますか」
「う、うん……たぶん」
「なら、下がって」
言われるまま二、三歩後ろへ下がる。
その間にも盗賊たちは近づいてきていた。
突然現れた黒ローブの男に一瞬警戒したようだったが、一人だと分かると、すぐに顔つきが変わる。
「なんだ、てめえ!」
「どけよ。そいつは俺たちの獲物だ」
「断ります」
青年は、あまりにも平然と言った。
「彼女は、私の保護下にあります」
その台詞の選び方はどうなの、と一瞬思った。今、初めて会ったばかりなのに。
しかし、盗賊たちに対して説明の細かさを求めても仕方がない。
「ふざけんな!」
先頭の男が剣を抜き、怒鳴りながら踏み込む。
それに対して、青年はほとんど動かなかった。
ただ、右手を軽く持ち上げた。
次の瞬間、地面に淡い青白い紋様が走った。
「え?」
思わず声が漏れる。
魔法陣だ。
そう理解したときには、もう風が爆ぜていた。
轟、と音がするほどの突風が、盗賊たちを正面から叩きつけた。
木の葉が舞い、枝がしなり、男たちの身体がまとめて吹き飛んだ。
一人は、背中から幹へ叩きつけられ、ひとりは剣を手放し、もうひとりは情けない悲鳴を上げながら茂みの中へ転がり込んだ。
一瞬だった。本当に。
王宮で儀礼用の魔術を見たことはある。灯りをともしたり、舞踏会の装飾に光を添えたり、そういう綺麗で役に立たない魔法なら……。
しかし、今目の前で起きたのは、そういうタイプのものとはまるで違った。
もっと生々しく、危険そうで、明確に人をねじ伏せる力だった。
「魔法……?」
わたしが、ぽかんとして呟くと、青年は、ほんの少しだけ眉を上げた。
「見れば分かるでしょう?」
「分かります。でも、どうして……?」
思わず言い返してから、はっとする。
助けられたばかりなのに何をしているのだろう、わたしは。
しかし、青年は呆れたようでも怒ったようでもなく、ただ淡々とした様子だった。
「追手は、これだけではないかもしれません。移動します」
「ちょっと待って。あなた、誰?」
そう問うと、彼は一瞬だけ黙り、それから簡潔に答えた。
「ロード・セアトー」
「ロード?」
「家名と称号です」
「それは分かるけど。どうしてこんな森の中に?」
「そちらこそ」
言われて詰まる。
それはそうだ。王女が家出して森で盗賊に追われています、なんて事情をすぐに説明できるわけもない。
セアトーと名乗った青年は、わたしの沈黙をそれ以上追及しなかった。その代わり、少しだけ視線を鋭くする。
「あなたが誰であれ、このような森の奥へ、独りで入るべきではありません」
「ひとりじゃないわ。フェルもいます」
「鳥は、人数に入りません」
「それは、そうだけど……」
「事実です」
会話の端々が妙に刺さった。刺さるのに、先程、盗賊を一瞬で吹き飛ばしたことを思い出すと、あまり強く反発もできない。
フェルが「ぴい」と鳴いた。
「ほら、この子、あなたの知り合いみたいだったけど?」
わたしが言うと、セアトーは肩の鳥へ一瞬だけ視線を向けた。
「そうですね。多少の縁があります」
「多少?」
「案内されたのです」
「フェルに?」
「ええ」
やっぱり、ただの鳥ではないようだ。
わたしは、鳥を見た。フェルはどこ吹く風で羽を整えている。ほんとうに、この子、何者なのだろうか?
その間にも、地面に倒れていた盗賊のひとりが呻き声を上げた。
セアトーは一歩だけそちらへ向き直り、冷えた声音で言う。
「次に彼女へ近づけば、今度は加減しません」
男たちは顔を青ざめさせ、這うようにその場を離れていった。完全に戦意を失っている。あの一撃を見せられたら、当然だろう。
しばらくして森が静けさを取り戻してから、わたしは、改めてセアトーを見た。
たしかに助けられたことは、認める。
でも、この人は、どう考えてもただの旅人ではない。
貴族で、本当なら、セアトーは、辺境伯の家名だ。しかし、貴族年鑑で、このような人の似姿を見た記憶がない。王宮のパーティーでも会った記憶がない。
しかし、立ち姿ひとつが洗練されているし、魔法の使い方にも迷いがなかった。
しかも、わたしが盗賊に追われているところへ、ちょうどよく現れた。
その理由が“鳥に案内されたから”というのも、あまりに説明不足だった。
「……あなた、信用していい人?」
率直に尋ねてみる。
セアトーは、一瞬だけ意外そうな顔をした。
「率直ですね?」
「回りくどく聞いても、あなた答えてくれなさそうだし」
「それはそうでしょう」
「で?」
彼は、少しだけ考えるように沈黙したあと、淡々と言った。
「信用できない人間は、自分のことを信用できると言うでしょう。逆に、信用できる人間でも、自分のことを信用できると言いますね。ですから、申し訳ないですが、その問いには、意味がありません」
「わたしは、そうはっきり答えてくれるから、ちょっと信用できると思ったけど?」
「まあ、信用してもしなくても構いません。ですが、今のあなたがひとりでこの森を進めば、また似たような目に遭う可能性は高い」
「……否定できない」
悔しいけれど、その通りだ。
白馬を失い、道も分からず、土地勘もない。先程の盗賊たちが追ってくる可能性だってゼロじゃない。ここで意地を張ってひとりで歩き出すのは、勇気ではなく無謀だ。
セアトーは、そこでようやく、わずかに声を和らげた。
「私は、この森の奥に用があります。そちらが優先ですが、その後、あなたを、安全な場所まで連れていくことは、できます」
「安全な場所?」
「少なくとも、盗賊に追われながら道に迷うよりは安全です」
「うーん、そうなんだけど……」
「事実です」
ほんとうにこの人、少しは優しくできないのだろうか。
でも、妙なことに、嫌な感じはしなかった。言葉は冷たいのに、言っていることはずっと一貫しているからだ。
無駄に気を持たせたり、甘い顔をして利用したりする人間より、こういう手合いのほうがまだ信用できる。
「……その“用”って何?」
セアトーは少しだけ視線を細めた。
「森の魔女です」
「魔女?」
聞き返した自分の声が、思ったより大きかった。
前世の童話に出てくるような単語だ。実際のところ、王宮でも、そういう存在が本当にいるとは聞かされた記憶がない。
しかし、この世界で、その言葉は比喩では済まないのかもしれない。
先程の魔法を見たばかりだし、魔女がいても、もう驚ききれない。
「ええ。長くこの森の奥に棲み、周辺へ呪いや魔獣を流している存在です」
「……そんなのを、倒しに行くの?」
「そのために来ました」
あまりにも平然と言うので、逆にこちらが混乱する。
「あなた、そういう危ないこと、ひとりでやるの?」
「一人の予定でした」
「予定、ってことは?」
「今は、予定が少し変わったですね」
その視線が、わたしをちらりと掠める。完全に“面倒を拾った”顔だった。
「悪かったわね、予定外で!」
「自覚は、おありのようで何よりです」
「ほんとに、感じ悪い、ですわ」
「よく言われます」
「そう……」
少し、納得してしまった。
しかし、口ではそう言いながらも、わたしの中では、もう答えは、殆ど決まっていた。
この森で一人になるのは、無理だ。
この男が危険な相手かもしれないという警戒は必要だ。
しかし、少なくとも今は、彼が盗賊より何倍も信用できる相手であることも事実だった。
わたしは、ゆっくり息を吸い、吐いた。
「……分かったわ。同行させて」
セアトーは短く頷く。
「賢明です」
「いちいち上から目線ね!」
「そう聞こえるなら、あなたの問題です」
「ちょっと感じ悪いわ」
フェルが、肩の上で楽しそうに「ぴい」と鳴いた。
わたしは、その鳥を睨んでから、改めて森の奥を見た。
木々は相変わらず深く、先は見えなかった。
盗賊からは逃げ延びたけれど、ここから先に待っているものが安全だとは到底思えなかった。
むしろ、“森の魔女”なんて言葉を聞いたあとでは、不穏さしかない。
でも、不思議と、先程までより足元が、少しだけ安定している気がした。
わたしは自分の意思で、この先へ進むと決めた。
セアトーが、背を向けて歩き出す。長い黒髪がローブの上で揺れた。
フェルはひらりと飛び、今度はわたしの肩に戻ってきた。
「行くしかない、か……」
誰にともなくそう呟いて、わたしも一歩を踏み出した。
森の奥は暗かった。
たぶん――ほんとうに面倒なのは、ここから先だろう、そんな予感がした。




