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王女に転生したけど、お城は堅苦しいので逃げ出します ――ヨロンキの復縁  作者: 謎村ノン


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第三章 魔法の鏡と、秘密の脱出計画

「家出って、もっと勢いでやるものだと思っていたわ」

 誰に聞かせるでもなく呟くと、部屋の中に小さく響いた自分の声が、やけに現実味を帯びて返ってきた。

 夜は、とうに更けている。すべてが静まり返っていた。

 磨き込まれた家具も、柔らかな絨毯も、天蓋つきの大きなベッドも静かなままだ。

 壁際の燭台には火が落とされ、今は机の上に置いた小さなランプの光だけが、薄く部屋を照らしている。

 ほんの数日前まで、この部屋はわたしにとって、ただ窮屈な場所でしかなかった。綺麗で、あたたかくて、不自由な場所だ。

 ここにいれば、少なくとも寒さに震えることはないし、お腹を空かせることもない。しかし、それと引き換えに、少しずつ自分が削られていくような気がしていた。

 今夜、その部屋を本当に出ていく。

 そう思うだけで、胸の奥が落ち着かなかった。

 怖い。もちろん怖い。

 でも、怖いからやめる、という段階は、もう過ぎていた。

 ベッドの上には、わたしが選り分けた荷物がいくつか並んでいる。

 保存のきく焼き菓子、小さめの水袋、銀貨と金貨を少し、薄手の外套、着替え、革手袋、簡単な薬。あとは、目立たない色のスカーフと、小ぶりのナイフだ。

 王女が家出をするにしては、あまりに地味で、あまりに現実的な品揃えだと思う。けれど、現実に逃げるなら、夢みたいな支度ではどうにもならない。

「……これ、絶対、宝石類よりこっちのほうが大事よね」

 机の上に置いた小さな革袋を持ち上げてみる。中身は火打ち石と、針と糸と、乾いた布切れだ。

 前世の記憶が断片的に戻るようになってから、わたしは、時々、こういう妙な発想をするようになった。災害用の持ち出し袋とか、遠足の準備とか――なんとなく思いだせる、そういったもののから、必要なものを考えた。

 なくても生きられる華やかなものより、地味でもすぐ役立つものだ。

 こんなこと、王女教育の中では、一度も教わらなかった。

「でも、合ってるはず……たぶん」

 自分に言い聞かせるように呟いてから、わたしは鏡のほうを見た。

 部屋の中で、そこだけが、いつも少し違って見える。

 壁に掛けられた古い鏡だ。暗いランプの光を反射する銀の縁は、ところどころ黒く見える。

 子どものころ、誰にも見つからないように、よくこの鏡の前へ来てはしゃがみ込み、こっそり話しかけていた。

 最初に返事が返ってきたときは、たしかすごく驚いたのに、気づけばそれが当たり前になっていた。

 今では、誰にも言えない本音をいちばん素直に話せるのが、この鏡の前だ。

「……ねえ」

 そう呼びかけると、少しの間のあと、鏡の向こうから低く穏やかな声がした。

「はい。聞いています」

 その返事だけで、胸の奥に張っていたものが少し緩んだ。

「ほんとに行くのよ、わたし」

「そうですね」

「もっと止めるかと思ったわ」

 鏡は、少しだけ黙った。

「止めたい気持ちは、勿論、あります」

 その声音は静かだったけれど、いつもよりほんの少し重かった。

 わたしは、椅子から立ち上がり、鏡の前へ歩いた。

「本当?」

「あなたが危険な目に遭うかもしれないからです」

「それはそうでしょうね」

「お城の外は、あなたが思っているよりずっと不親切です。身分を隠しても、隠しきれないものもあるでしょう。追っ手も出ます」

「それでも、ここにいるよりはいい」

 言ってしまってから、自分の声が思ったより強かったことに驚く。

 でも、ほんとうにそうだった。

 この城に残ることは、安全と引き換えに、自分の人生を少しずつ手放していくことだ。すぐに壊れるわけではないかもしれない。ゆっくり、見えないところから削られて、気づいたときにはもう、自分が何を望んでいたのか分からなくなる。そんな未来を想像すると、外の危険のほうがまだましだと思えた。

「わたしね」

 鏡に映る自分と目を合わせる。

 曇った鏡面には、薄いランプの光を受けたわたしの顔がぼんやりと映っている。王女らしく整えられた金髪も、部屋着の上から羽織った薄いガウンも、どれも見慣れているはずなのに、今夜は少しだけ違って見えた。

「このまま、何も決めさせてもらえないのが嫌なの」

 言葉にすると、それは案外、単純だった。

 縁談のこと。王女としての務め。誰の隣に立つのか、どんな笑顔を向けるのか、どういう言葉で返事をするのか――全部、わたし以外の誰かが決めたほうが都合がいいらしい。

 でも、どうしてそれで納得できると思うのだろう。

「わたし、自分が何をしたいのか、まだ全部は分からない。でも、分からないまま誰かの言う通りにするのは、嫌なの!」

 鏡の向こうの声は、すぐには返ってこなかった。

 その沈黙が、逆に、わたしの言葉を受け止めてくれているようで、少しだけ苦しい。

 やがて、彼は静かに言った。

「あなたは、昔からそういう方でした」

「そうだっけ?」

「ええ。幼いころから、納得できないことは、そのまま飲み込みませんでした」

 わたしは、小さく笑った。

「それ、たぶん、周囲からは、面倒な子どもだったって意味よね」

「少なくとも、私には、そうは見えませんでした」

 その言い方は、ちょっと反則だ、と思う。

 この声は、いつもそうだ。真正面から励ますわけではなく、甘やかすわけでもない。でも、ここで否定されないのだと分かるだけで、少しだけ、ほっとする。

 わたしは、ベッドへ戻り、荷物袋の中身をもう一度確認した。

「外套、よし。お金、よし。薬、よし。靴も……うん」

 ドレスのまま逃げるつもりはなかった。

 今のわたしが着ているのは、王城の中でも比較的簡素な部屋着だけれど、それでも街娘の服と比べれば、多分、十分すぎるほど上等だ。

 衣装箱の奥から引っ張り出した、乗馬用に近い地味な上下へ着替える。裾が広がりすぎず、足さばきも悪くない。見た目の華やかさより、走れることが大事だ。

 ガウンを脱ぎ、髪もほどく。編み込まれた金の髪をざっくりと結び直し、目立たない色の布でまとめると、鏡の中の自分は、少しだけ別人に見えた。

「……王女っぽくなくなった」

「それは、今のあなたには、好都合でしょう」

「そうね」

 でも、その一方で、胸の奥が少しだけ痛くもある。

 王女であることが嫌だったはずなのに、その外側を一枚剥ぐだけで、なぜか心細くなるのだ。自分が嫌っていたものに、どれだけ守られていたのかを思い知らされる。

 わたしは、それをごまかすように荷物袋を肩へかけた。

 そのとき、窓辺でかすかな羽音がした。

「え?」

 振り向くと、いつの間にか、窓の隙間から赤い鳥が入り込んできていた。

 小さくて、鮮やかな赤。黒い瞳に、黄色いくちばしの鳥だった。見た目だけなら可愛い。しかし、この鳥が普通ではないことくらい、今のわたしにも分かる。あまりに、タイミングがよすぎる。

「……なに、この子?」

「連れて行ってください」

 鏡の向こうの声が、ためらいなく言った。

 わたしは、鳥と鏡を交互に見る。

「あなたが呼んだの?」

「そうです。いずれ必要になります」

「どう必要になるのよ。伝書鳩みたいなもの?」

「それに近いかもしれません」

「あいまいね……」

 赤い鳥は、わたしの言葉なんて気にもしていないように、窓枠から机の背へ、机から椅子の背へとぴょんぴょん移っている。

 その自由さに、少しだけ腹立たしく思った。

「この子、名前あるの?」

 少し考えてから、鏡の声は答えた。

「……フェル」

「ふうん。フェル」

 名前で呼ぶと、鳥は小さく首を傾げて「ぴい」と鳴いた。返事をしたつもりなのだろうか。ずいぶん偉そうだ。

「では、フェル。あなた、ちゃんと役に立つのよね?」

「ぴい」

「分かってるのか分かってないのか、ぜんぜん伝わらない……」

 でも、不思議と、少しだけ心細さが薄れた。

 完全な一人ではないと思えるだけで、人は案外、馬鹿みたいに救われるものらしい。

 それから、わたしは部屋の奥の壁へ向かった。

 大きなタペストリーが掛かっている場所だ。織り込まれた紋様は、この国の古い神話の一場面を描いてあるらしいけれど、正直、今はそんなことどうでもいい。

 大事なのは、その裏に、隠し扉があるということだ。

 子どものころ、たまたま見つけた。きっかけは、本当にどうでもいいことだったと思う。追いかけっこの途中でよろけて壁にぶつかり、飾り金具の一部が少しだけずれたのだ。それで、隙間に気づいた。

 誰にも言わなかった。言ったら、きっと面白がる前に封じられてしまうと思ったから。

「まさか、こんな形で役に立つなんてね」

 わたしは、タペストリーの端を持ち上げ、石壁の継ぎ目に指をかけた。装飾の一部を押し込むと、小さく石の擦れる音がして、壁がわずかに奥へずれる。

 暗い隙間だ。人ひとり通れるだけの幅しかない。そこから、ひんやりとした空気が流れ出てきた。

 いよいよだ。

 そこに立つと、急に足が竦みそうになる。

 この扉をくぐれば、もうほんとうに後戻りできない。

 たぶん、数時間後には王城中が騒ぎになる。

 父上は怒るだろう。母上はきっと、ものすごく冷たい顔をする。ミレイユはどう思うだろう。リナは、巻き添えで叱られるかもしれない。

 そこまで考えて、胸がぎゅっと縮む。

「……わたし、ひどいことしてるのかな」

 ほとんど独り言みたいに呟くと、鏡の向こうから静かな声が届いた。

「正しいかどうかは、すぐには分からないこともあります」

 わたしは振り返る。

「でも……」

「何も選ばないまま、選ばれ続ける人生が、あなたにとって正しいとも思えません」

 その言葉は、背中を押すというより、足元を照らしてくれるようだった。

 飛べ、と言われるよりも、そこに地面はあるのだ、と教えてもらう方が、今のわたしにはありがたかった。

 わたしは、ゆっくりと頷く。

「……うん」

 それから、もう一度だけ部屋を見渡した。

 長く暮らした、自分の部屋だ。好きだったとは言いにくい。

 しかし、ここにはここで、たしかに積み重ねた時間がある。泣いたことも、怒ったことも、鏡に向かって未来を愚痴ったことも。

「魔法の鏡」

 わたしは、自然とそう呼んでいた。

「はい」

「ありがとう」

 短い沈黙のあと、彼は答えた。

「こちらこそ」

 その声音が、少しだけいつもと違って聞こえる。嬉しいのか、寂しいのか、あるいはその両方なのか。わたしにはまだ分からない。

 でも、今は、深く考えないことにした。

 考え始めると、きっと立ち止まってしまう。

 フェルが、羽ばたいてわたしの肩へ乗った。思ったより軽い。くすぐったくて、少しだけ笑ってしまう。

「じゃあ、行くわよ」

「お気をつけて」

 わたしは、最後にひとつ息を吸い、隠し扉の中へ足を踏み入れた。

 中は、細い石段になっていた。足元は暗く、長い間、使われていなかったのか、埃っぽい臭いがする。

 ランプを持ち込むわけにはいかないので、小さな手燭だけを頼りに降りていく。光は頼りなく、壁に揺れる影が心細い。

 途中で、何度か足がもつれそうになった。手で壁を伝いながら慎重に進む。フェルは肩の上で意外なくらい大人しい。

「この子、こういうときだけ静かなのね……」

 ぼそっと言うと、フェルが不服そうに「ぴ」と鳴いた。

 階段は思ったより長かった。王城の厚い壁の内側を、らせんではなく、まっすぐ斜めに降りていく造りだった。

 秘密の通路というより、昔の非常用脱出口に近いのかもしれない。

 やがて、前方に微かな明かりが見えた。

 出口だ。

 最後の数段を降りると、小さな物置の裏へ出た。ここは城の西側、あまり使われていない倉庫群の近くだ。夜更けの今なら、見張りも手薄なはずだ。

 扉をそっと開けて外を窺う。

 静かだ。

 遠くで衛兵の槍先が月光を受けて光るのが見えた。しかし、ここは見ていないだろう。

 風が石畳の上を流れ、夜の花の香りがかすかに漂っている。

「ほんとに、出られそう……」

 その現実に、逆に足がすくんだ。

 でも、ここで立ち止まる意味はない。

 わたしは身を低くして倉庫の陰を抜け、裏庭の端へ向かった。足音が響かないように注意しながら進む。

 心臓の音がうるさい。たぶん、こんなに自分の鼓動を意識したのは初めてだった。

 馬小屋へ辿り着くまでの道は、昼間なら何でもない距離なのに、今はひどく長く感じた。

 何度も気配を感じたような気がして振り向きそうになり、その度に、ただ風が葉を揺らしただけだと気づいた。

 馬小屋の中は、草と獣の匂いがした。

 数頭の馬が眠そうに鼻を鳴らす。その中から、わたしは以前に何度か乗ったことのある白馬を選んだ。大人しくて、人の声によく反応する馬だ。

「お願い。少しだけ付き合って」

 そっと首筋を撫でると、馬は耳を動かし、低く息を吐いた。完全に理解したわけではないだろうけれど、少なくとも拒まれてはいないらしい。

 手綱を取り、音を立てないように外へ出す。

 月が高い。白い石壁が、夜の青さの中でぼんやりと浮かんでいる。見慣れた王城なのに、今のわたしにはまるで別の場所みたいだった。

 ――ここで育った。

 ――ここで息苦しくなった。

 ――ここから、今、出ていく。

 そのすべてが、一度に胸へ押し寄せる。

「……さよなら、とは言わないわ」

 小さく呟く。

 たぶん、完全に捨てるわけじゃない。わたしは、この城の娘で、この国の王女だ。その事実は、簡単には消えない。

 だから、これは別れではなく、多分、わたしがわたしの足で、いったん外へ出るための一歩。

 そう思わないと、心が折れそうだった。

 白馬にまたがる。フェルが肩から飛び、今度は、鞍の前の革へちょこんと止まった。

「そこ、邪魔じゃない?」

「ぴい」

「まあ、落ちなければいいけど」

 手綱を握る手が少し震えていた。

 それでも、わたしは、今は使われていない城門の近くの古い裏道へ、馬を進める。

 ここは、衛兵の巡回ルートから外れている。隠し戸――おそらく昔の搬入口だ――の閂をなんとか外して開けて、外に出る。

 最初はゆっくり。やがて、石畳を抜け、土の道へ出る。夜風が頬に当たり、ほどいた髪の毛先を揺らした。

 冷たい。

 でも、息がしやすい気がした。

 王城の灯りが、背後で少しずつ遠ざかっていく。

 振り返りたい気持ちはあった。ほんとうは、一度くらいちゃんと見ておきたかった。夜の中で、自分が育った場所がどんなふうに見えるのか。

 けれど、振り返らなかった。

 振り返ったら、きっと迷うし、迷ったら、足が止まる。

 止まったら、もう行けない。

 だから、前だけを見る。

「行こう」

 誰にともなくそう言うと、馬が静かに走り出した。

 夜の道は暗い。先に何があるのか、まだ何も分からない。

 怖い。たぶん、この先、もっと怖いことが待っている。

 でも、わたしはもう、何も知らされないまま籠に戻るつもりはなかった。

 夜風の中へ、白馬は駆けていく。

 肩の近くで、フェルが小さく鳴いた。

 そして、ようやく本当に、わたしの物語は動き出したのだった。

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