第二章 三十三度目の縁談話と、最悪の宮廷夜会
王宮の夜会というものは、どうしてこうも、人を美しく窒息させるのが上手いのだろう。
楽団が、優雅に弦を鳴らしている。磨き上げられた床は、鏡みたいに光っていて、そこへ幾重にも吊るされたシャンデリアの灯りが落ちている。壁際には金箔の縁取りがされた長椅子、季節の花を活けた大きな花器、これ見よがしに並んだ銀器とガラス器が置かれている。
どこを見ても綺麗で、どこを見ても隙がなくて――少しでも気を抜くと、その美しさの中へ、自分まで飾り物として置かれてしまいそうな錯覚を覚える。
少なくとも、わたしは、そう感じていた。
「殿下、もう少しだけ顎を上げてくださいませ」
鏡の前で、最後の仕上げをしていた侍女が言う。
「これ以上?」
「はい。そうしていただくと、首筋の線がより美しく見えます」
「わたし、今夜は、縁談の品評会に出るんだっけ?」
思わずぼやくと、背後に控えていたリナが、ごく小さくため息をついた。
「そういうことをおっしゃるから、侍女たちが、皆、ひやひやするのです」
「だって本当でしょう?」
「本当でも、言ってよいことと悪いことがございます」
正論だ。だから、余計に腹が立った。
でも、リナに怒っても仕方がない。彼女だって、わたしの機嫌と王妃の機嫌の間で、日々、大変な思いをしているだろう。
今夜のドレスは、母上が選んだものだった。
柔らかな薄青に銀糸の刺繍が入った生地で、腰から裾へかけてふわりと広がる。胸元には小粒の宝石が控えめに縫い込まれ、袖は透けるように薄い布で重ねられていた。
綺麗だと思う。文句のつけようがないくらい、王女らしくて、上品で、清楚で、たぶん“理想的”なのだろう。
それが、余計に息苦しかった。
わたしが着たいからではなく、わたしがこう見えてほしいから着せられているのだ。
そう理解してしまうと、どんな美しい布やアクセサリーでも、ほんの少しだけ鎖みたいに思えてしまう。
「殿下、本当にお似合いです」
若い侍女の一人が、うっとりした声で言った。
「ありがとう。でも、今夜が楽しみかと聞かれると、ぜんぜん違う」
「殿下」
リナの声音が少しだけ強くなる。
わたしは、口をつぐんだ。怒られたわけではない。でも、ここで駄々をこねたところで何も変わらないことくらい、わたしも、もう分かっている。
問題は、今夜の主役のひとりが、隣国ルクセリアの王太子――アルヴィン王子だということだった。
これまでにも縁談の話はいくつもあった。たぶん三十三度どころじゃない。けれど今回だけは、城の空気が少し違っていた。父上も母上も、いつも以上に“これはよい話だ”という顔をしているし、まわりの侍女や侍従たちまで、どこか浮き立っている。
優秀で、若くて、評判もよくて、家柄も申し分ない。
つまり、スペック上は、断る理由がない相手なのだ。
だからこそ、とても嫌だった。
分かりやすく不快な相手なら、まだ反発しやすい。でも、きっと悪い人ではないのだろうと予想できてしまう相手のほうが、逃げ場がなかった。
「行きましょう、殿下」
リナの声に促され、わたしは鏡から目を離した。
回廊を歩く。夜会の広間へ向かう途中、すれ違う侍従や女官たちが一斉に頭を下げた。いつもなら気にも留めない光景なのに、今夜はその全員が、“このあと何が起こるか”を知っているように見えてしまう。
高い天井に声が吸い込まれる。窓の外は既に夜で、塔の向こうに薄い月が見えた。
広間の手前まで来ると、もう楽団の音がはっきり聞こえてくる。
人々のざわめき、グラスの触れ合うかすかな音、絹と宝石の擦れる気配。それらがひとつに混ざり合い、まるで今夜の夜会そのものが、巨大な生き物で呼吸しているように思えてくる。
「殿下」
リナが、最後に小さく囁く。
「ご無理は、なさらないでください」
「……どっちの意味?」
「両方でございます」
思わず、唇の端が歪んでしまう。
その笑みを消しきる前に、扉が開く。
光が、いっせいに押し寄せてくる。
広間へ足を踏み入れた瞬間、いくつもの視線がこちらへ集まった。
――王女が現れたから。
――今夜の主役の片方だから。
――そしておそらく、この王女が今回も何かしでかすのではないか、と少しだけ期待している者もいるから。
そういう視線の意味が、もう以前よりずっと分かるようになっていた。
だったら、最初から怯んでなんかいられない。
わたしは、背筋を伸ばし、決められた位置まで歩く。
父上と母上は、既に席へ着いていた。父上は、王冠の代わりに正式な礼装用の飾り帯を身につけ、母上は深い紫のドレスを隙なく着こなしている。
二人とも、いかにも今夜の宴とお見合いを成功させたい顔だった。
その少し下手側に、ミレイユがいた。
黒髪を艶やかに結い上げ、濃紫のドレスを完璧に着こなした姿は、いっそ見惚れるほど美しい。王家の傍流の公女であり、わたしの従姉だ。誰が見ても優雅で、気が利いて、社交的で、非の打ちどころがない。
そして、わたしにとっては、いちばん気が抜けない相手だった。
ミレイユは、わたしに気づくと、花がほころぶみたいに微笑んだ。
「リシェル様。今夜はいつにも増してお綺麗ですわ」
「ありがとう。あなたも、とても華やかね」
「まあ、嬉しい」
こういう会話だけ聞けば、仲のよい従姉妹同士に見えるのだろう。でも、実際には、わたしたちは昔からずっと、見えないところで小さな刃を交わし続けてきた。
ミレイユは、わたしが苦手なものを全部、上手にこなす。
――礼儀作法。
――会話の間合い。
――相手が何を期待しているかを読むこと。
――そして、その期待に“美しく”応えること。
わたしが、何かに反発して空気を乱せば、彼女はその横で、穏やかに、でも確実に場を収めた。誰も彼女を責めない。むしろ“なんて気配りのできる方なのだろう”と感心する。
だから、厄介なのだ。
やがて楽団の音が少し変わり、広間の入口側で人のざわめきが起きた。
ルクセリア王国の一行が到着したのだ。
視線が、そちらへ流れる。わたしもつられるように見た。
アルヴィン王子は、たしかに王子だった。
……いや、意味の分からない言い方になってしまったけれど、そうとしか言いようがない。
蜂蜜を含んだような明るい髪、整った額、やわらかな金色の瞳、よく手入れされた礼装――立ち姿にも無理がなくて、華やかな場にいることが自然すぎる。子どものころに読んだ絵本に“王子様”が描かれていたら、多分、こんな顔をしているだろう。
だからこそ、わたしは一瞬だけ身構えた。
こういう人は、きっと王子として完璧なのだ。完璧な人は、だいたい周囲から期待された通りの振る舞いをする。そして、そういう人ほど、わたしみたいな人間とは噛み合わない気がしてしまう。
彼は、父上と母上へ丁重に挨拶し、それからこちらへ向き直った。
「初めてお目にかかります、リシェル殿下」
声音は、思ったより柔らかかった。
「ルクセリア王国王太子、アルヴィン=ルクセリアにございます」
「……初めまして」
わたしも、優雅に見えるように礼を返す。
近くで見ると、彼の微笑みは作り込まれているというより、染みついている感じがした。何度も練習して身につけたものなのだろうけれど、もはや無理のない所作になっている。
「お噂は、かねがね伺っておりました」
そう言われて、思わず内心で身構える。
どういう噂を……。
――その一言が喉まで出かかった。
しかし、わたしは、それを少しだけねじ曲げて返した。
「ろくでもない話も、たくさん入っていそうですわね」
周囲が、ごくわずかに息を呑んだ気がした。
普通なら、ここはもう少し柔らかく返す場面なのだろう。たとえば“こちらこそ”とか、“光栄ですわ”とか。そういう型どおりの言葉が、王宮には、いくらでもある。
でも、試されている気がした。
――きれいに受け流して、感じのよい王女を演じるのか。
――それとも、いつものように少し尖ったことを言うのか。
アルヴィンは、少しだけ目を見開いたあと、ふっと笑った。
「率直なお方だとは伺っておりましたが、想像以上です」
「がっかりしました?」
「いいえ。むしろ、少し安心しました」
その返しに、わたしは少しだけ、目を瞬かせた。
予想していたより、上手い返しだ。ただ柔らかいだけではなく、ちゃんとこちらの言葉を受け止めたうえで返してきた。
それが意外で、少しだけ警戒心が形を変えた。
「まあ、お二人とも、すでに打ち解けていらっしゃるのですね」
そこへ、ミレイユが、なめらかに割って入ってくる。
「リシェル様は、少々、人見知りなところがございますから、王太子殿下がお優しくしてくださると、きっと安心なさいますわ」
その言い方は、他の人が聞けば“従姉妹として気遣っている”ようにしか聞こえない。
でもわたしには分かる。
人見知り。
――つまり、社交が得意ではない王女。
――扱いづらく、少し気まぐれで、周囲の配慮が必要な存在。
たった一言で、そういう印象づけようとしているのだ。
わたしは、笑顔のまま、ミレイユを見た。
「心配してくれてありがとう。でも、わたし、そこまで子どもじゃないわ」
「もちろん存じておりますわ。ただ、皆さま、少し気になさっておいでで……」
「何を?」
「最近のあなたは、少々お心が乱れているようにお見受けしておりましたもの」
やっぱり来た。
表向きは“気遣い”だけど、“感情的で不安定な王女”という物語を滲ませる。
わたしは、小さく息を吸った。
前なら、すぐに棘で返していただろう。けれど、今夜は、まだその段階ではなかった。
少なくとも、最初から流れを明け渡すつもりは、なかった。
「そう見えたなら、少し考えることが多かっただけよ」
「まあ、大変」
「ええ。人は、自分の人生を自分で決めたいと思うだけで、案外忙しくなるものだから」
一瞬、ミレイユの目が冷えた。
周囲の空気が、ほんの少しだけ張る。
アルヴィンは、そのやりとりを静かに見ていた。横から不用意に口を挟まず、けれど逃げもしない。その態度が、意外なくらい自然だった。
夜会は、そのあとも進んだ。
音楽が流れ、貴族たちが挨拶に来る。年配の伯爵夫人はわたしのドレスを褒め、若い子爵は王太子との相性をうっすら話題に出し、地方から来たらしい文官は必要以上に頭を下げた。
誰も彼も、笑顔で、それぞれの立場で、この夜を値踏みしている。
わたしはそれを、前より少しだけ冷静に見ていた。
――ああ、この人は父上寄り。
――この人は母上の意向を気にしている。
――この人はミレイユの話を信じていそう。
――この人は王太子の出方を見ている。
そんな風に、人の視線の温度が少しずつ読めてしまう。
気づけるようになったことは、強みなのだろうけど、その分、正直、しんどかった。
王宮は、いつだってこうだったのだと知るのは、少しだけ息苦しかった。
しばらくして、父上の招きで、アルヴィンとわたしは会場の中央付近へ進むことになった。
軽い紹介と、形式的な会話のためだ。周囲の視線が、いっそうはっきり集まる。
「ルクセリア王国王太子、アルヴィン殿下だ」
父上の声が響く。
「我が娘リシェルとも、今宵よき時間を過ごしてもらえればと思う」
“よき時間”――便利な言い回しだ。
その中に、どれだけの意味が詰め込まれていることか。
アルヴィンは礼を取り、穏やかに微笑む。
「光栄に思います」
わたしも形どおりに応じる。けれど、その間中、胸のどこかが、ずっとざわついていた。
このまま、何事もなく夜会が終わるのだろうか。
そんな都合のよい展開が、この王宮にあるだろうか。
答えは、たぶんなかった。
中盤を過ぎたころ、わたしは少しだけ息苦しくなって、会場の外れの回廊へ出た。
窓が並ぶ長い廊下には、夜の空気がわずかに流れ込んでいる。広間の熱気と比べれば、それだけで十分救いだった。
「逃げたくなりましたか」
背後から声がして、振り向く。
アルヴィンだった。
「逃げた、は少し違うわ。空気を吸いに出ただけ」
「そうでしたか。では、偶然です」
「その偶然、いかにも作った感じね」
彼は、少しだけ笑った。
「会場の中で、あまりにお疲れの顔をされていたので」
「そんなに分かりやすかった?」
「ええ、少し」
窓の外を見ると、庭の向こうに塔の輪郭が見えた。夜の王城は、昼よりも静かに見えて、そのぶん檻みたいだ。
「……あなた、こういうの慣れてるでしょう?」
「夜会にですか」
「ええ。こうして人に見られて、値踏みされて、にこにこしてるの」
アルヴィンは、少し考えるように黙った。
「慣れている、といえばそうですね」
「やっぱりね」
「しかし、好きかどうかは、別です」
その答えに、わたしは顔を上げる。
彼は、窓の外を見たまま続けた。
「私は王太子ですから、場に応じて振る舞うことを幼いころから求められてきました。得意ではありますし、そこに意味があることも理解しています。でも、いつでも心から楽しんでいる、わけではありません」
意外だった。
もっと、こういう場が自然に似合う人だと思っていた。
もちろん似合っているのだけれど、それと好きかどうかは別なのかもしれない。
「……少しだけ、人間らしく見えてきたわ」
そう言うと、アルヴィンは今度こそ声を立てずに笑った。
「それは、喜ぶべき評価でしょうか」
「たぶんね」
少しだけ、肩の力が抜ける。
そのとき、広間の内側から父上の強い声が聞こえた。
「リシェル!」
びくりと背筋が伸びる。
振り返ると、開いた扉の向こうで父上がこちらを見ていた。顔色は決して穏やかではない。たぶん、誰かが“王女がまた席を外している”と伝えたのだろう。
「勝手に持ち場を離れるな!」
「……申し訳ありません」
とっさにそう答えたものの、胸の奥では反発が燃えていた。
持ち場――王女は駒だから、ちゃんと盤の上にいてほしい、という意味に聞こえた。
父上が不機嫌なまま去っていくと、廊下に重い沈黙が残った。
アルヴィンが、少しだけ気まずそうにこちらを見る。
「……すみません。私が追ってきたせいで」
「違うわ。たぶん、あなたが来なくても、同じことだった」
わたしは、窓辺に片手をつき、深く息を吐いた。
だめだ。
――もう限界が近い。
――この夜会を、何事もなく終えるなんて無理だ。
「あなたは、どうしてそんなに落ち着いていられるの?」
半分、自分でも意味の分からない問いだった。
アルヴィンは少しだけ考えてから、静かに言う。
「落ち着いて見せることに慣れているから、ですかね」
その答えは、妙に、まっすぐだった。
「本当に落ち着いているわけではありませんよ。今も、あなたに何と返せばいいのか、少し迷っています」
「……へえ」
「ただ、ここで感情的になると損をする、と知っているだけです」
それを聞いて、わたしは、自分でもおかしいくらい、少しだけ笑ってしまった。
「何それ。意外とずるいのね」
「王族ですから」
「そうね」
その短いやりとりだけで、少しだけ救われた気がした。
でも、夜会は終わらない。
父上も、母上も、ミレイユも、まだそこにいる。
そして、わたしはまだ、この城の王女だ。
広間へ戻る前、ふと、胸の奥に古い鏡のことが浮かんだ。
いま部屋へ戻れたら、きっと、あの鏡の前で全部吐き出していただろう。
――嫌だ、もう無理、息が詰まる、助けて、と。
けれど、今夜はまだ戻れない。
戻れないまま、わたしは、たぶん、どこかへ追い詰められていく。
それを、ほとんど本能で悟っていた。
「行きましょうか」
アルヴィンが言う。
「……ええ」
わたしは頷いた。
そして、その夜会が、わたしを本当に城の外へ向かわせる最後のひと押しになることを、このときのわたしは、もう半分くらい分かっていたのかもしれない。




