第一章 わたしは王女で、しかも転生者らしい
朝は、いつも、鳥の声より先に、布の擦れる音で始まる。
まだ夢の底に足を引っかけたまま、うっすらと意識が浮かび上がるころ、厚いカーテンが左右に引かれ、磨かれた床に淡い朝日が差し込む。その気配だけで、わたしは自分がどこにいるかを思い出してしまう。
王城の東塔、第一王女の寝室。天蓋付きの大きなベッド。刺繍だらけのカーテン。息苦しいほどに整えられた家具。わたしのために用意されているはずなのに、どこか他人の部屋にいるような感覚が、いつまでたっても抜けない。
「殿下、そろそろお目覚めくださいませ」
侍女のリナの、控えめで、それでいて慣れた声がした。
わたしは掛け布団の中で、わざと少しだけもぞもぞしてから、観念して起き上がる。窓の外には、きっちり刈り込まれた庭園と、朝霧に霞む白い塔が見えていた。きれいだと思う。たぶん、誰が見てもそう思う景色だ。でも、それを見て胸が晴れるかというと、そうでもない。
まるで、金箔で飾られた鳥籠の中にいるみたいだ。
「本日の予定でございますが、午前に王妃陛下との面談、昼には礼法の再確認、午後は刺繍見本の確認、夜に小規模な茶会がございます」
「刺繍見本の確認って、あれよね。次の季節の贈答品に使う図柄だったっけ?」
「はい」
「それ、わたしが本当に必要?」
リナは、一瞬だけ困った顔をして、それから、侍女としての正しい微笑みに戻った。
「殿下のお立場ゆえに」
その言葉を、わたしはもう何度聞いたか分からない。
お立場。責務。王家の務め。血筋に伴う役割。そういう言葉は、この城では空気と同じくらい自然に存在していて、誰もそれを疑わない。けれど、わたしの中には、その空気にどうしても馴染めない部分がある。
たとえば、目覚めたばかりの頭に、ふいにまったく別の部屋の記憶が差し込んでくることがある。白い壁。小さな目覚まし時計。制服のプリーツ。透明な傘。スマートフォンの通知音。夕方のコンビニの光。友達と笑いながら並んで歩いた帰り道……。
たんなる空想――ここには、存在しないはずのものばかりだ。
最初は夢だと思っていた。けれど、それにしては妙に細かい。見たことのない景色なのに懐かしい。知らないはずの言葉が、胸の奥に残っている。
そうやって何年もかけて、わたしは自分なりの結論にたどり着いた。
わたしは、多分、前世で、日本という国に生きる女子で学生、高等学校の生徒だったのだ。
断片的な記憶しかないし、名前すらはっきりしない。でも、その「前」がある感覚だけは、どうしても消えなかった。だからこそ、この世界の常識のいくつかを、どうしても受け入れきれないのだと思う。
王女だから、結婚は国のために決められて当然。王女だから、軽率に感情を表に出してはいけない。王女だから、誰かの意向に従うことが美徳。
そんなふうに言われても、胸の奥では、違う、と思ってしまう。
朝の支度を終え、重たいドレスに着替えさせられながら、わたしは小さく息をついた。今日のドレスは淡いクリーム色で、胸元から袖にかけて細かい金糸が縫い込まれている。柔らかく見えるけれど、実際には何枚も布を重ねているから、軽やかとは言えない。
鏡の前に立たされるたび、わたしは自分が綺麗に飾られた人形になったような気分になる。
「殿下、髪は本日、上でまとめますか? それとも少し下ろしますか?」
「下ろしたほうが頭痛くならないなら、それで」
「では、そのように」
リナは、手際よく髪を梳かしながら、ちらりと鏡越しにわたしを見た。
「お加減がすぐれませんか?」
「べつに。元気よ」
「元気なお声には聞こえませんでした」
「そういうところだけ鋭いのよね、あなた」
口ではそう言ったけれど、リナの気遣いはありがたかった。
王宮には、言葉の表面だけ整っていても、中身のない人の方が多い。リナは、少なくとも、わたしの不機嫌を「わがまま」の一言で片づけない。
朝食の席では、案の定、わたしの気分はさらに重くなった。
父王は、新聞のような報告書に目を通し、母王妃は銀のナイフとフォークを寸分違わぬ動きで扱っている。
何人もの給仕が音もなく皿を差し替え、窓から入る光さえ、王家の食卓のために調整されているように感じる。
「リシェル」
母上が、スープを口に運んだあとで言った。
「近いうちに、ルクセリア王国の王太子殿下との正式な顔合わせの席を設けます」
わたしは、手を止めた。
「……正式な、ということは?」
「これまでのような、名前だけの打診ではありません」
父上が、重々しく続ける。
「アルヴィン殿下は、人物、教養、武勇のいずれも優れている。隣国との関係を考えても、非常に望ましい縁組である」
その言い方は、まるで政治文書の読み上げだ。望ましい縁組。均衡。友好。利。そこに、わたしという人間の気持ちが入り込む隙間は、ほとんど、ない。
「会ってもいないのに、話だけ先に進むんですね……」
わたしが言うと、母上の眉がわずかに動いた。
「王族は、そういうものです」
「その“そういうもの”って、誰が決めたんですか?」
食卓の空気がぴんと張った。
父上の視線が、わたしに向いた。重い。責めるというより、理解できないものを見るような目だ。
「リシェル。お前は、いつもそうやって、当然の務めに疑問を差し挟む」
「疑問を持っては、いけないの?」
「持つだけなら構わぬ。だが、お前は、それを拒絶へつなげる」
拒絶……たしかに、そうだ。
過去の縁談は、片っ端から断ってきた。相手の悪口を言ったわけではない。わざと失礼を働いたわけでもない。ただ、嫌だったのだ。知らない男と笑顔で対面し、その先の人生を勝手に決められるのが。
「母上は、それで幸せだったんですか?」
言ってしまってから、自分でも、しまったと思った。
母上の手が止まる。父上の低い声が、わたしの名を呼ぶ。
「リシェル」
「……すみません」
謝ったけれど、心からではなかった。
むしろ、あの問いは本心だった。王妃として完璧に振る舞う母上が、女性として、ひとりの人間として何を思ってきたのか、わたしは知らない。聞いても教えてくれないと思う。でも、知りたかった。
結局、その朝食は重苦しい空気のまま終わった。
自室へ戻ると、豪華な部屋なのに、ようやく呼吸が少し楽になった。
その安心感は、空間そのものではなく、そこに掛けられた一枚の鏡のせいだ。
壁際の大きな鏡は、周囲の調度品と比べるとひどく古びている。金の装飾は、ところどころ剥げ、鏡面も少し曇っている。王女の部屋には似つかわしくない代物だ。
なのに、子どものころからわたしは、この鏡にだけ、不思議な親しみを覚えていた。
それだけなら単なるお気に入りの鏡、というだけだったのだけど――ある日を境に、この鏡は、わたしに話しかけるようになったのだった。
「今日も、大変でしたね」
やわらかく低い男の声が、曇った鏡面の奥から響く。
わたしは、ベッドに腰かけて、長い息を吐いた。
「大変じゃない日なんて、あると思う?」
「少なくとも、今朝は、特別に大変そうでした」
「見てたの?」
「全部ではありませんが、少しだけ」
鏡の声は、穏やかだった。顔は見えない。ぼんやりした影が揺らぐことはあっても、はっきりとした姿は映らない。それでも、わたしは、この声にずっと救われてきた。
「また縁談の話よ」
「そうでしょうね」
「あなた、たまに未来が見える人みたいな言い方するわよね?」
「見えているのは、あなたの表情です」
そう言われて、わたしは、少しだけ笑ってしまう。
「わたし、ほんとに、嫌なの」
ぽつりと漏らした声は、自分で思っていたより弱かった。
「結婚とか、王女の務めとか、そういうの全部、ね。嫌いっていうより、怖い。これから先の人生が、わたしの手の届かないところで決まっていく感じがするの」
鏡の向こうは、しばらく黙っていた。
「あなたは、ここが嫌いですか?」
「嫌い……かどうかは、分からない。でも、ここにいると、自分がどんどん消えていく気がするのよ」
わたしは立ち上がって、鏡の前まで歩いていく。
「前の人生の記憶があるから、かもしれない。ちゃんと全部覚えてるわけじゃないんだけど、それでも、前のわたしは、もっと自分で何かを選べた気がするの」
「あなたは、今でも選べます」
静かな声だった。
わたしは、鏡面に指先を触れた。ひんやりしている。
「ほんとに?」
「はい」
「王女なのに?」
「王女であっても」
その言葉が胸の奥に落ちる。
何度も聞いてきた声なのに、その日はいつもより真っ直ぐに響いた。
「……あなたって、ずるいわ」
「なぜでしょう?」
「わたしが一番欲しい言葉を、たまに簡単にくれるから」
「欲しいものを差し出せるのなら、それは、喜ばしいことです」
「だからそういうのが、ずるいのよ」
でも、少しだけ心が軽くなっていた。
夜になるころ、わたしは、窓の外を見上げていた。高い塔の向こうに、薄い月が浮かんでいる。
この城を出てしまえたら、どんなに楽だろう。
そんな考えが、今日は、ただの空想ではなく、ひどく具体的な輪郭を持って浮かんできた。
たぶん、もう、見て見ぬふりはできないところまで来ているのだ。




