第六章 魔女の家、最悪の共同生活
森の奥へ進めば進むほど、空気は少しずつ変わっていった。
最初は、ただ木が深くなっただけだと思っていた。枝葉が重なり、日差しが遮られ、足元が湿ってくる。山や森ならよくある変化だ、と無理に自分へ言い聞かせていたのだけれど、しばらく歩くうちに、それだけでは説明できない違和感がはっきりしてきた。
音が、少ない。
鳥の声も、虫の羽音も、まるで遠慮しているみたいに小さい。
風が吹いても、葉擦れの音まで、どこか鈍いように感じられた。
生命の気配が消えたわけではないのに、森全体が息を潜めているような静けさがあった。
それが、たまらなく嫌な感じだった。
「ねえ」
わたしは声をひそめて、前を歩くセアトーに呼びかけた。
「このへん、変じゃない?」
「ええ」
彼は、振り返らずに答える。
「結界に近づいています」
「結界?」
「魔女が張った境界です。迷わせ、侵入者の感覚を鈍らせ、気配を隠す類の魔法の一種です」
「そんなものが……魔女は、隠れているのよね。迷惑をかけているのを自覚してる?」
「そうです。私のような討伐者から、隠れて、よからぬことをしているのです」
「ある意味、正直ね……」
肩の上でフェルが小さく鳴いた。今日のこの子は比較的静かだ。さすがにここまで来ると、鳥でも緊張するのかもしれない。
木々の間を抜けながら、わたしは、あたりを見回した。
幹に絡む蔓はどれも色が悪かった。地面の苔は分厚いのに、ところどころ灰色にくすんでいる。
倒木には妙なきのこが群れていて、触れたらまずいと直感で分かる見た目をしていた。
そして、匂いがある。
湿った土の匂いの中に、薬草を煮詰めたような苦い匂い、金属を舐めたときみたいな薄い鉄の匂いが混じっていた。
それが風向きによって強くなったり弱くなったりするたびに、背筋のあたりがぞわぞわした。
「まだ遠いの?」
「もう近い」
「近いって、どれくらい」
「あなたが今にも帰りたくなるくらいには」
「ちょっと!」
思わず声を上げてしまってから、自分で口を押さえる。
セアトーは、ため息をついた。
「静かに」
「あなたが変なこと言うからでしょう」
「緊張をほぐそうとした結果です」
「そのやり方、ぜんぜん向いてないわよ」
「その自覚は、ありますね」
素直だ……と思った。
そのやり取りを最後に、わたしたちは、また黙って進んだ。
しばらくすると、木々の密度が少しだけ薄くなった。
視界の先に、暗い森の中では不自然なくらい整った空間が見えてきた。
最初に目に入ったのは、傾いた木柵だった。古く、ところどころ朽ちている。しかし、完全には崩れておらず、人が意図して境界を作った痕跡が残っていた。
その向こうに、小さな家が建っている。
木造の、質素な小屋だった。
屋根には苔が生え、煙突は黒ずんでいた。窓は小さく、壁には乾燥させた薬草らしき束が吊るされていた。
見た目だけなら、森にひっそり暮らす薬師の家だと言われても納得してしまいそうなくらい、普通だった。
けれど、その“普通さ”が、逆に気味悪かった。
これだけ森そのものが不穏なのに、その中心にある家だけが、童話めいた分かりやすい姿をしている。
まるで、こちらが思い描く“魔女の家”の形へわざと寄せているみたいだと思った。
「あれね……?」
わたしの声が、喉のあたりで少し上擦る。
「ええ」
セアトーは短く答えた。
「目的地です」
冗談みたいな光景なのに、彼の声音は、少しも揺れない。
「ここで待っていてください」
「中に入るの?」
「そのつもりです」
「一人で?」
「そのために来たと言ったはずですが」
確かにそうだけれど、実際にその場面へ来てみると、話は別だった。
わたしは、思わずセアトーの袖をつかみかけて、寸前で手を止めた。
「ちょっと待って。作戦とかないの?」
「あります」
「あるのね……」
ちょっと安心しかけた、その次の言葉が最悪だった。
「相手の気配を見て、潰す」
「それ作戦っていうより気合いでは?」
「まあ、そうですね」
「ちょっと、大丈夫なの?」
こんなときでも会話が成立してしまうのが恐ろしい。
いや、たぶん、会話していないとわたしの方が緊張でおかしくなりそうだから、ある意味ありがたいのかもしれない。
セアトーは、木立の陰を示した。
「あなたは、あそこに。何があっても、自分から出てこないように」
「それ、すごく嫌な前振りに聞こえる」
「嫌でも従ってください」
「……分かった」
ここで言い争っても意味がない。わたしはフェルを肩に乗せたまま、少し離れた太い木の陰へ身を潜めた。地面は湿っていて、膝下に冷気がまとわりつく。
心臓の音がうるさかった。
セアトーは、そのまま小屋の前まで歩いていった。迷いのない足取りだった。彼は一度だけ周囲を見回し、それから扉の正面に立つ。
ほんの一瞬、空気がぴんと張った。
次の瞬間、地面に青白い紋様が走る。
「森の魔女」
セアトーの声は、静かでありながら、驚くほどよく通った。
「ロード・セアトーだ。用がある」
いきなり名乗った。しかも、ずいぶん正面突破だった。
もう少しこう、こっそり様子をうかがうとか、罠を張るとか、そういう発想はないのだろうか。
いや、この人には最初からなさそうだ。分かってはいたけれど。
しばらく何も起こらなかった。
森が静まり返った。
それから、ぎい、と鈍い音を立てて、小屋の扉がゆっくり開いた。
出てきたのは、老婆だった。
腰は曲がり、白髪は、ぼさぼさだ。擦り切れたローブを羽織り、節くれだった杖を持っていた。
顔には深い皺が刻まれ、片方の目は赤く濁っていた。見た目だけなら、森に住む孤独な老人だ。
けれど、その姿を認めた瞬間、空気がさらに冷えた気がした。
なにかが、異常だった。
寒気が止まらなかった。はっきりと分かる。これ、人の形をしているだけで、中身はまるで別のものだ。
老婆は、ねじれた口元を少し持ち上げた。
「……ああ、また面倒なのが来たねえ」
しゃがれた声が、妙に湿っている。聞いただけで肌が粟立つ声だった。
セアトーは、一歩も引かなかった。
「あなたの活動は周辺へ被害を及ぼしている。ここで止める」
「ひゃっ」
老婆――魔女が、喉の奥で笑う。
「若いのは景気がよくていいねえ。嫌いじゃないよ」
その声音に、わたしは思わず木の幹へ身体を押しつけた。
こんな距離で向かい合っているセアトーは、本当に大丈夫なのだろうか。
先程まで彼の実力をそれなりに信用していたはずなのに、この魔女を前にすると、そういう計算が意味を失う感じがする。
セアトーが、低く呪文を紡いだ。
空気が震え、地面の紋様が広がる。目に見える光は細いのに、その中に圧縮された力は、先程盗賊を吹き飛ばしたときよりずっと強いと分かった。
風ではなく、鋭い刃のような魔力が、まっすぐ魔女へ向かって走る。
いけるかもしれない。
そう思ったのは、本当に一瞬だった。
魔女が、杖を軽く持ち上げる。
それだけで、セアトーの魔法が、まるで水へ墨を垂らしたみたいに崩れた。
「え」
わたしの喉から、勝手に声が漏れた。
次の瞬間、黒い影のようなものが地面から湧き、セアトーの足首に絡みつく。
黒い影は、そのまま一気に這い上がり、膝、胴、腕、喉元を締めつけた。
彼が舌打ちしたのが聞こえた。
「その程度で、わたしを狩れると思ったのかい?」
魔女の濁った目が、赤く光る。
ぞっとする。
理屈じゃなく、本能で分かる。
これは、まずい。
セアトーが再度何かを唱えようとした。
しかし、声が途中で途切れた。黒い拘束が喉元をさらに締め上げたらしい。
「さあて。綺麗な顔をしているねえ。骨まで上等そうだ」
魔女が、ゆっくりと彼へ歩み寄る。
そのとき、わたしは動いていた。
考えるより先に、木陰から飛び出していたのだ。
「やめて!」
自分でも、何をしているのかと思う。
出てくるなと言われたのに。しかも相手は明らかに普通じゃない魔女だ。
わたしが飛び出したところでどうにかなるとは思えない。
でも、見ていられなかった。
魔女の顔が、こちらへ向いた。
その瞬間、背骨の中まで凍るみたいな感覚が走った。
「……ほう」
魔女は、わたしを見て、ゆっくりと笑った。
「そっちの隠し玉かい」
隠し玉って何よ。隠れていたのはたしかだけれど。
わたしは無意識に後ずさる。それでも目は逸らせなかった。逸らしたら終わる気がしたからだ。
魔女の視線が、わたしの顔から肩へ、手元へ、全身を舐めるように動く。
「いいねえ。すごくいい。品があって、まだ柔らかい」
「……っ」
ぞっとして、思わず腕を抱いた。
その間に、セアトーが歯を食いしばった声を絞り出す。
「出てくるなと、言ったはずですが……!」
「あなたが食べられそうだったからでしょう!」
「食べられそう、という表現は不本意です」
こんな状況でそんな返しをするあたり、本当にこの人はどうかしている。
でも、その言葉に、少しだけ張り詰めていた呼吸が戻った。ほんの少しだけ。
魔女は、ひゃっひゃっと笑った。
「変わった取り合わせだねえ。若い魔法使いと、お姫さまみたいな娘と、赤い鳥か」
その言葉に、わたしの背中が冷たくなる。
お姫さまみたい、ではなく、見抜かれたのではないか。そんな不安がよぎった。
フェルが、わたしの肩から飛び立つ。魔女の視線が、一瞬だけ鳥へ向いた。
「ほう?」
その隙に、セアトーが最後の力を振り絞るように腕を動かした。指先に短い光が生まれる。魔女は面倒そうに杖を払った。
その一撃で、セアトーの身体が横へ弾き飛ばされた。
「セアトー!」
叫びながら駆け寄ろうとしたわたしの前へ、杖がぴたりと突きつけられる。
「動くんじゃないよ」
足が止まった。身体が、命令に逆らえなくなるみたいに硬直する。
魔女は、歯のほとんどない口でにやりと笑った。
「こっちは、気に入ったよ」
最悪だった。
目の前でセアトーが意識を失う。フェルは高く旋回し、どこかへ飛び去ってしまった。
わたしは魔女の前で動けず、ただ息をすることしかできなかった。
「さあ、来な!」
そして、そのまま、手を引かれて、小屋の中へ連れ込まれた。
***
そこから始まった日々は、王女としての人生とは正反対だった。
朝は、日の出前に叩き起こされる。
薪を割り、水を汲み、鍋を磨き、床を拭き、薬草をより分ける。
昼は森へ出て、魔女に指定された草や茸を集める。
名前も知らないものばかりで、間違えるたびに怒鳴られる。
夕方には洗濯と火の番。夜は奇妙な液体の煮えた鍋のそばで、次の日の準備をさせられた。
食事は、粗末だった。
だいたい、硬いパンと薄いスープで、たまに根菜や干し肉が少しだけでた。
王宮の食卓と比べるまでもない。けれど、疲れきった身体には、それでもありがたかったのが悔しい。
何より嫌だったのは、ずっと見張られていることだ。
魔女は、四六時中べったり監視するわけではない。むしろ視界から消える時間のほうが多いくらいだ。
でも、その不在こそが罠なのではないかと思わせる。
どこで見ているのか分からない。何を知っているのか分からない。だから、少しでも手を抜いたり、隠れて何かを探ろうとしたりするたび、背中に冷たいものが走る。
失敗すれば怒鳴られる。
逆らえば、杖の先が向く。
ときどき、脅しのように呟かれる。
「怠けたら、蛙にでも変えてやるよ」
「逃げたら、脚から石にしていこうかね」
冗談だと思えないのが最悪だった。
数日も経てば、手のひらには豆が潰れて硬くなり、腕や脚は筋肉痛でだるくなった。
日差しと風に晒されて肌は荒れ、爪の先には土が入り込み、髪も綺麗にはまとまらなくなった。
ある夜、板張りの床に座り込んだまま、自分の手を見て、少しだけ笑いそうになった。
「……ほんと、王女の手じゃなくなってる」
そう呟いたとき、部屋の隅の暗がりから、低い咳のような音が聞こえた。
はっとして顔を上げる。
そこは、魔女がほとんど近づかせない扉の向こう側だった。完全には見えない。でも、その奥に誰かいる。いや、誰か、というより――
「セアトー……?」
返事はない。
でも、あれは幻聴ではない気がした。
魔女に捕まった直後から、セアトーの姿は見ていない。死んだとも言われていないけれど、生きているとも確かめられていなかった。
なのに、今の咳が本物なら。
「生きてる?」
小さく口にした瞬間、胸の奥に、かすかな火が灯った気がした。
逃げられない。
ここは最悪で、魔女は恐ろしい。
でも、完全に詰んだ訳ではない。
その事実が、今のわたしには思った以上に大きかった。
翌日から、わたしは少しずつ周囲を見るようになった。
どの棚に何が置いてあるか、魔女がどの時間にどこへ行くか、触れさせたくないものは何か――。
そして、家の中で、不自然に避けている場所はどこか。
薪を運ぶふりをし、床を拭くふりをし、怒鳴られて俯くふりをしながら――。
見て、覚えて、つなげる。
王女の教育の中で身につけた“空気を読む力”が、こんなところで役に立つなんて皮肉だと思った。でも、使えるものは何でも使うしかない。
泣いて終わるのは、もう嫌だった。
わたしは囚われている。
でも、ただ囚われたままではいない。
その気持ちだけが、かろうじて、わたしを、わたしのままにしていた。




