39話:保健室の天井と、至った結論
目を覚ますと、そこはいつもの静かな保健室のベッドの上だった。
窓の外ですっかり暮れきった夜のとばりが、すりガラスの向こうに青い影を落としている。枕元には白衣を着た保健医の花鶴先生と、腕を組んで窓際に立っている担任の古賀崎先生の姿があった。
「気がついたか、一ノ瀬」
「……れ……せんせい……?」
起き上がろうとしたオレに、花鶴先生が手際よくコップの水を差し出しながら微笑んだ。
「無理しなくていいわよ。天宮さんと黒木さんは、私から言って先に帰らせたから。あいつらがいつまでもそばでギャアギャア言い合ってたら、お前も落ち着いて眠れないでしょう?」
「……あいつら、帰ったんですか」
「ああ。真っ青な顔で倒れたお前を見て、二人とも半泣きだったぞ。……まあ、自業自得といえばそれまでだがな」
古賀崎先生はそう言ってフッと鼻で笑ったが、その声音には、いつもの冷徹さや棘ではなく、妙な優しさが含まれていた。
「オレ……倒れたんですか……?」
「そうだな。頭の中でフル回転させすぎて、短時間に集中した思考がオーバーヒートを起こしてショートした感じかな。パソコンでいうなら、CPUの熱暴走ってやつよ」
花鶴先生の言葉に、古賀崎先生がやれやれと頭を振って続ける。
「進路の決断なんて、いきなり完璧にできる奴はいない。……だがな、何も最初から人生のすべてを完全設計する必要はないんだ。天宮のように緻密に敷いたレールを走る奴もいれば、黒木のように直感で突っ走る奴もいる。人間いろいろだ」
先生は少しだけ視線を落とし、真面目なトーンで言葉を紡いだ。
「人生において絶対の正解なんてない。だがだからといって、何も考えずに無策でいれば、選べるはずの選択肢まで減っていき、いつか必ず後悔することになる。……お前は、自分の頭の良さと客観的な分析力ばかりに気を取られて、肝心の『自分自身がどうしたいのか』を見落としている。もっと自分の能力を正しく自覚しろ。そして、親ともよく話せ」
「母さんと……話す……そうだ。適当な進路なんて許さないって母親が言っていたが……」
「それはな、お前が心配だからに他ならない。親とはきちんと向き合うことが大切だ」
古賀崎先生は一呼吸置くと、まっすぐにオレの目を見た。
「いいか、今の段階で求められているのは、最終的なゴールを完璧に決め切ることじゃない。……『自分は東西南北のどちらに進むのか』、その大きな向きを決めることだ。途中で細かい行き先が変わることもあるし、歩き疲れて真逆の道へ引き返すことだってある。その場合は多少の苦労を伴うだろうがな」
逃げ場のない現実の厳しさと、それでも前を向くための羅針盤。
先生の言葉は、これまでの人生で「正しい正解」ばかりを探して立ち止まっていたオレの胸に、深く、重く突き刺さった。
「それでも、人間は立ち止まることはできない。進むしかないんだ。だから……誰かのためでも、誰かの敷いたレールのためでもなく、**自分のために選択する**んだ。……分かったら、今日はさっさと帰って寝ろ」
「……はい。ありがとうございます、先生」
頭を下げ、オレは重い足取りで保健室を後にし、夜の静まり返った街を一人で帰路についた。
◇
家までの帰り道。冷たい夜風に吹かれながら、オレの頭の中では、これまでの出来事が走馬灯のようにリピートしていた。
——天宮とサキという強烈な個性に翻弄されながらも、なんとかクラスの均衡を保とうと中立を守ってきた日々。
——トラブルが起きるたびに脳内スレッドを全開にして、分析と折衷案を模索し続けた時間。
——二人の真っ直ぐな思いに応えるために、スマートさのかけらもない泥臭い方法で奮闘したスポーツ大会。
振り返ってみれば、いつの間にかそれらのドタバタが、オレにとってかけがえのない「日常」になっていた。
それまでのオレは、すべてを斜に構えて受け身で生き、面倒なことから逃げ続けるだけの傍観者だった。それなのに、あの二人の存在とぶつかり合ううちに、オレはいつの間にか——「二人のために、そして自分自身のために、積極的に動こう」としていたのだ。
他人の期待に応えるためでもなく、誰かのマウント合戦の勝者になるためでもなく。
ただ、あの不器用で真っ直ぐな二人の隣に、自分の意思で立ち続けたい。
(ああ……オレは……)
冷え切った夜空の下で、ようやく一つの結論にたどり着いた。
自分の意思という核を持たなかった男が、初めて見つけた、進むべき「向き」。
明日、母と向き合い、そしてあの二人に向き合おう。
ポケットの中で拳を強く握り締めながら、オレは家路へと急ぐのだった。




