36話:冬の足音と、進路希望調査の嵐
スポーツ大会の保健室での一件からしばらく経つ——。
季節は巡り、校内の木々がすっかり葉を落とした冷たい冬の風が吹き抜ける頃、2年B組の教室には独特の重苦しい空気が立ち込めていた。
黒板の横に張り出された『進路希望調査の提出期限』の文字。
その五文字だけで、生徒たちのテンションは一気に現実に引き戻されていた。
「なぁ、神原はどこ受けるの?」
「僕は一応、経済学部の指定校を……志摩さんは?」
「あたしは……まあ、神原と同じところ狙えたらなって思ってさ」
「え?……いいの?」「なっ?……そ、そりゃ一緒が良いじゃない!」
窓際の席では、志摩と神原がノートを広げながら、すっかり受験モードに入った会話を交わしていた。
あの修学旅行の「初キッス事件」以降、二人は周囲が気恥ずかしくなるほど真っ直ぐに将来を見据え、同じ大学を目指して足並みを揃えて勉強に励んでいた。その姿には、かつての突っ張りや尖ったところはなく、確かな「大人の階段を登る者」の頼もしさがあった。
——それに引き換え、オレの机の上にある進路希望調査の用紙は、見事に真っ白だった。
(将来の進路、か……)
頭では分かっている。大学に行くのか、専門学校か、あるいは就職か。
オレの脳内スレッドは、日本の大学進学率や学部ごとの就職率、さらには将来予測される産業構造の変化まで、ありとあらゆるデータを瞬時に引き出すことができる。頭の中だけで未来をシミュレーションすることなど容易かった。
だが——「じゃあ、お前は何がしたいのか?」と問われると、一文字も言葉が出てこなかった。
「……ため息なんてついて、どうしたのよ悠」
いつの間にか席に近づいてきたサキが、腕を組んでジト目で覗き込んできた。その手には、彼女なりの進路希望が書き込まれた用紙が握られている。
「あれ?天宮さんは?」
「む、私の前で先に天宮の話をするなよ悠……」
「あ、いや、ごめん……」
「ふん!彼女なら生徒会役員会の会合とかでさっき生徒会室に行ったぞ」
「俺が悩んでいるのを見て、気を使ってくれたのかな?」
「いつも冷静に事態を分析する悠が何を悩んでるの?」
「いや……進路調査票のさ、『将来の希望』の欄がどうしても埋まらなくてさ」
「は? 悠なら、パソコンとかプログラミングとか、いくらでも道があるでしょ」
「そういうデータ上の選択肢じゃなくてさ……。オレが本当にやりたいことって、何なんだろうなって」
オレの歯切れの悪い返答に、サキは少しだけ眉をひそめ、それからふっと遠くを見るような目を隠した。
「……あたしはさ、実家の家業を継ぐか、それとも自分の足で何か動かす仕事をしたいって、うっすら思ってるけどさ……。でも、悠みたいに頭が良すぎて何でも先が見えすぎちゃうと、逆に動けなくなるのかもね」
その時、教室の扉がガラリと開き、担任の古賀崎先生が冷徹な視線を飛ばしながら入ってきた。
「一ノ瀬。お前のその白い紙、まさか白紙で出すつもりじゃないだろうな?」
「い、いや、今まさに考えているところでして……」
「ふん。お前のようなタイプは、社会に出ても『正しい正解』ばかりを探して立ち止まる。だが、人生はテストの答案用紙みたいに綺麗な選択肢ばかりじゃないぞ」
先生の容赦ない一言に、周囲の空気がさらにピリッと引き締まる。
◇
放課後。
家に帰るやいなや、リビングのテーブルには母・冴子が淹れたコーヒーのカップが置かれていた。
キャリアウーマンとして常に完璧な決断を下してきた母は、オレが出した白紙に近い進路調査票を冷ややかに見据え、容赦ない宣告を叩きつけた。
「悠……サキちゃんから聞いたわよ。目的ややりたいこともないまま、何となく大学に進学するようなお金の使い方は、お母さんは絶対に認めないわ」
……修学旅行への送迎で、母は天宮さんとサキとも連絡先を交換している……抜け目がない。
「……わかってるよ、母さん」
「大学は、自分が何を学ぶために行くのかを明確にする場所よ。それが決まっていないなら、働いて社会勉強でもしなさい。……あなた、いつまでも頭の中だけで逃げ続けるつもり?」
母の正論は、鋭く胸に突き刺さった。反論したくても、自分の言葉で「これがやりたい」と言い切れない自分が情けなかった。
その夜、スマホの画面を開くと、サキからメッセージが届いていた。
> 【サキ】:明日、放課後ちょっと付き合え。相談したいことがある。
さらに、天宮さんからもほぼ同時刻にメッセージが入る。
> 【天宮】:一ノ瀬さん、明日の放課後、私たちの今後の進路についてお話ししませんか? 貴方の迷い、私にはお見通しですわ。
期末テスト、そしてその後に控える「年越しイベント(クリスマス〜年末年始)」という一大イベントを目前に控えながら、オレたちの関係は、いよいよ「現実の未来」という避けて通れない壁に直面しようとしていた。




