#58 いないない
それから数ヶ月。
猫の都は、以前とは見違えるほど賑やかになっていた。
都の外れには、鶴子の希望どおり静かな養蚕場と住居が建てられた。
養蚕場では何百匹もの蚕が育てられ、鶴子はその繭から糸を紡ぎ、反物へと仕上げていく。
その仕事場だけは、固く閉ざされていた。
『私が織っている作業中は、決して中を覗かないこと』
鶴子との約束を守るため、ユアピが大きな立札まで用意したのだ。
都の別の場所には、雀たちが料理を振る舞うための宿も完成していた。
セイナとフーラは人の姿で暮らしているが、ほかの五十羽は今も雀の姿で過ごしている。
都の外周にある木々や建物の高所には、鳥の巣が点々と作られた。
雀たちは決まった家を持たず、その日の気分や仕事に合わせて寝床を変える。
たまに人の姿で身体を休められるよう、共同の宿舎も一つだけ用意されていた。
一方、三匹の子豚たちが中心となって進めている大規模な工事は、まだ終わっていない。
猫神社を起点として新たに四つの神社を建て、五芒星を描く。
その中央には、都全体を見渡せる塔を建てる予定だ。
立派な城ではない。
首脳陣が集まる会議室と、周囲を監視できるだけの高さがあればいい。
まだ骨組みしかない中央塔の周りでは、今日もガイ、マシュ、オルテが忙しなく働いていた。
猫の都は、少しずつその姿を変え始めていた。
―――――
その猫の都が発展を続けていた頃。
遥か北、旧北海道の一角で、一人の女が地面に大の字になっていた。
「暇だぁぁぁ……」
名を、しらたき三蔵。
黒いブラトップの上に派手なギャル服のジャケットを羽織り、ゆったりとした黒いパンツと編み上げブーツを身に着けている。
かつては時間さえあればゲームに没頭していた彼女にとって、この世界はあまりにも娯楽が少なかった。
電気はない。
当然、通信もない。
遊べるゲームもなければ、新作が発売されることもない。
相方のクールは、黒いサバイバルゲーム用の装備を点検していた。
実戦で使うことなど想定していなかった服だが、丈夫で動きやすく、この世界では普段着よりも役に立つ。
「クール、なんか面白いことしてよ」
「昨日も聞いたぞ、それ」
「昨日は昨日。今日は今日じゃん」
「なら寝てろ」
「寝るのにも飽きたんだってば」
三蔵が寝返りを打った、その時だった。
頭の中へ、女の声が流れ込んでくる。
『まずはアヌビスをピラミッドから連れ出し、南へ向かいなさい』
遥か離れた場所で、イーリスがマアトへ送った思念だった。
『地獄からの脱出者への牽制として、道中で人々に神の存在を伝えて回るのです』
『アヌビスは私から指示されるのを嫌がるかもしれませんよ?』
『その時は噛みつきなさい』
『噛みつくのですか……? まさしく神も地に着きましたね……』
しかし、何らかの理由で混線した思念は、途切れ途切れにしか三蔵へ届かなかった。
『まずは……を連れ出し……南へ向かいなさい……人々に神の存在を……カミツキ……カミモチ……』
三蔵は勢いよく身体を起こした。
「今の……神様のお告げじゃん!」
装備を点検していたクールが手を止める。
「寝言か?」
「起きてるわ!」
三蔵は立ち上がると、頭の中で聞こえた言葉を一つずつ整理した。
誰かを連れ出し、南へ向かえ。
連れ出す相手の名前は聞き取れなかった。
なら、相方でいいだろう。
神の存在を人々へ伝える。
そして神の力を持つ者には、二つの種類があるらしい。
神の力に直接憑かれた者――神憑き。
神の力を何らかの形で持つ者――神持ち。
「なるほどね……全部分かったわ」
「その顔は、絶対に何も分かってない顔だな」
三蔵はクールを指差した。
「クール! 明日から旅に出るよ!」
「随分急だなぁ。まぁいいけど、んでどちらまで?」
「南に向かう!」
「向かうたって、こんな世界じゃ船も飛行機もないし、それこそ青函トンネルなんて残ってるとは思えねぇぞ?」
「そんなの、うちも知らねーわ! とりあえず南に向かえって神様が言うからさ!」
「そこ、一番大事なところじゃねぇのか?」
「行けば何とかなるっしょ!」
三蔵はそこまで言うと、ふと自分の身体を見下ろした。
「待って。お告げが届いたってことはさ……うちって神の遣いじゃね?」
「話が一段飛んだな」
「でも、この格好じゃ神の遣いっぽくなくない?」
「格好から入るのかよ」
「見た目、大事っしょ!」
思い立った三蔵は、その足で集落の神社へ向かった。
クールも仕方なく、その後をついていく。
神社は集落の外れにひっそりと建っていた。
境内には落ち葉が積もり、参道にも人の通った形跡がほとんどない。
拝殿の前を掃いていたのは、腰の曲がった年老いた巫女だけだった。
「ばあちゃん、宮司さんいる?」
三蔵が声を掛けると、巫女は箒を止めた。
「宮司なら、もうおりませんよ」
「どっか出掛けてんの?」
「狩りに出たきり、帰ってきません」
巫女はそれだけ言うと、再び力なく箒を動かした。
いつ帰るのかとは、誰も尋ねなかった。
クールが境内を見回す。
「あんた一人で、ここを守ってんのか?」
「守っているのか、ただ残っているだけなのか……私にも分かりません」
その声には、何もかも諦めてしまったような響きがあった。
三蔵は少しだけ言葉に詰まったが、すぐに胸を張った。
「うち、さっき神様のお告げを聞いたんだよね」
巫女の手が止まる。
「だから、神の存在を伝える旅に出ることにしたの。でも、今の格好じゃ雰囲気が出ないじゃん?」
「それで神社へ?」
「神の遣いっぽい服とか道具、余ってない?」
あまりにも遠慮のない頼みだった。
だが、巫女は怒ることも、呆れることもなかった。
「何か欲しいものがあるなら、何でも持っていきなさい」
「えっ、何でも?」
「私が死ねば、ここにある物も朽ちていくだけですから」
三蔵の顔から、僅かに笑みが消えた。
「……死ぬまで借りるってことでいい?」
巫女がゆっくりと顔を上げる。
「うちが旅を終えて戻ってきた時、ばあちゃんがまだここにいたら返す。いなかったら、うちが最後まで使う。それでいいっしょ?」
「お好きになさい」
巫女に案内され、二人は神社の物置へ入った。
古びた祭具や奉納品の中から、三蔵は赤と白を基調とした大きな羽織を見つける。
「これ、めっちゃそれっぽい!」
ギャル服のジャケットを脱ぎ、黒い装いの上から羽織を重ねた。
さらに首と両腕へ数珠を掛け、錫杖を手に取る。
物置の奥には、古い経文を収めた筒も残されていた。
「この筒も背負った方がいい感じじゃね?」
「何に使うか分かってんのか?」
「全然。でも、神の遣い感が増した!」
三蔵は経筒を背負い、満足そうに錫杖を鳴らした。
一方、クールが宮司の部屋で見つけたのは、壁に飾られた二振りの刀だった。
宮司が趣味で集めていた物らしい。
飾り物として置かれていたが、刀身は本物だった。
クールは一本ずつ鞘から抜き、重さと重心を確かめる。
「こいつも貰っていいのか?」
「ええ。あの人が戻らない今、飾っておく意味もありません」
クールは巫女へ頭を下げると、二振りの刀を腰へ差した。
神社を出る時、三蔵は石段の下から振り返った。
「ばあちゃん! 神様の存在、ちゃんと広めてくるから!」
巫女は何も答えなかった。
ただ、境内の端に立ち、二人の姿が見えなくなるまで見送っていた。
翌朝。
二人は最低限の荷物を背負い、南へ向かって歩き始めた。
旅の目的は、神の存在を人々へ伝えること。
ただし、三蔵自身も神が何者なのかはよく分かっていない。
それでも退屈な日々から抜け出せるなら、細かいことはどうでもよかった。
二人が旧本州との境までたどり着いたのは、それからしばらく経った頃だった。
海峡を前に、クールが足を止める。
「おい、三蔵」
「なに?」
「橋があるぞ」
「……なんでこんな所に橋が?」
二人の前には、対岸まで延びる一本の吊り橋があった。
丸太とロープを組み合わせた、簡素な橋である。
木材はまだ新しく、縄にもほとんど傷みがない。
三蔵は吊り橋へ駆け寄ると、その表面を触った。
「これ、まだ出来たてホヤホヤじゃね?」
「みたいだな」
三蔵は胸を張り、得意げにクールを振り返った。
「これが神の力ってやつ! 分かったかい、クールくん?」
「神の力の割には……頼りなさそうな橋だけどな」
「神様だって、予算とか納期とかあんじゃね?」
「急にありがたみがなくなったな」
クールは吊り橋へ片足を乗せ、慎重に体重を掛ける。
橋は大きく軋んだが、壊れる様子はない。
二人は揺れる橋を渡り、旧本州へと足を踏み入れた。
三蔵にとっては、神が旅路を用意した何よりの証拠だった。
―――――
二人がさらに南へ進み続け、猫の都まであと僅かという場所へ差し掛かった頃。
三蔵の頭の中へ、再びあの声が流れ込んできた。
『明らさまに神の姿で出歩くのは良くないわ』
イーリスの声だった。
『素性は隠せということですね。それよりイーリス様、アヌビスがピラミッドの外へ出て早々、飛んでいる蠅をバアルだと……』
『そんな所にいない、いない! バアルはアジア圏に潜んでいるはずよ!』
今回も思念は激しく混線する。
三蔵に届いたのは、ほんの僅かな言葉だけだった。
『……素性は隠せ……いない、いない……バア……』
「なるほど……」
三蔵が突然立ち止まる。
クールも足を止め、振り返った。
「今度は何だ?」
「追加のお告げが来た」
「聞くのが怖ぇな」
「素性を隠せってさ」
「お前、神様に名前まで知られてんのか?」
「そういうことっしょ。だから今から、うちらは偽名を使うよ」
三蔵は少しだけ考え、力強く頷いた。
「クール。うちは今から、いないない婆!」
「いないいない婆?」
「違う違う。“いないない婆”! “い”が一個多いとテンポ悪いっしょ?」
「知らねぇよ」
「あんたは……いないない爺ね!」
「俺まで変える必要あんのか?」
「二人組なんだから統一感は大事じゃん!」
「婆と爺を名乗る年でもねぇだろ」
「素性を隠すためだから仕方ないの!」
三蔵は満足そうに頷き、再び南へ歩き始めた。
クールは何かを諦めたように、その後へ続いた。
やがて二人は、小高い丘へたどり着いた。
その頂上から先を見下ろした三蔵が、目を丸くする。
視線の先には、いくつもの建物が並んでいた。
田畑には多くの住民が行き交い、外周の高所には鳥の巣が点在している。
都の中央では、建設途中の大きな塔が空へ向かって骨組みを伸ばしていた。
「なんか、すっげぇ栄えてね?」
「栄えてるなぁ!」
三蔵の顔が、一気に明るくなる。
「タバコあったりして?」
「神の存在を伝える旅じゃなかったのか?」
「それはそれ! これはこれっしょ!」
二人が丘の上から都を眺めている頃。
すぐ近くにある木の上では、フーラが鳥の巣に埋もれるようにして眠っていた。
「んん……」
雀の姿のまま上半身を起こし、大きく伸びをする。
何気なく丘へ目を向けたフーラは、そこに立つ見知らぬ二人を見つけた。
「……誰?」
眠気が一瞬で吹き飛ぶ。
見張り役というわけではない。
たまたま日当たりの良い巣を選び、昼寝をしていただけだった。
しかし、都を見下ろす丘に知らない人間が立っている。
古びた羽織を身に纏い、錫杖を持った派手な女。
その隣には、二本の刀を差した大柄な男がいる。
「た、大変!」
フーラは巣から勢いよく飛び出した。
外周に作られた巣を縫うように飛び、都の中へ急降下していく。
向かった先は、完成したばかりの宿だった。
開け放たれた窓から中へ飛び込み、人の姿へ戻る。
「セイナちゃん! 起きて、セイナちゃん!」
奥の部屋で休んでいたセイナが、慌てて身体を起こす。
「どうしたの、フーラ?」
「丘の上に知らない人がいる! 女の人と、刀を持った大きな男の人!」
「都を見ていたの?」
「うん! ずっとこっちを見てた!」
セイナはすぐに寝床を出た。
二人が宿の外へ出ると、丘にいたはずの男女が都へ向かって歩いてくるところだった。
セイナはフーラを背に庇いながら、その二人の前へ進み出る。
「そこで止まってください」
呼び止められた三蔵とクールが足を止めた。
クールは腰に差した双剣へ手を伸ばさず、敵意がないことを示すように両手を上げる。
「驚かせたなら悪かった。俺たちは――」
「待って、クール! ここはうちがやるから!」
三蔵がクールの前へ出た。
そして、待ち構えるセイナとフーラへ満面の笑みを向ける。
「初めまして! うちらは“いないない”の二人組!」
三蔵は自分の胸を親指で指した。
「うちは、いないない婆!」
続いて、隣のクールを指差す。
「こっちは、いないない爺!」
「……爺です」
クールは否定することを諦め、静かに頭を下げた。
三蔵はさらに胸を張る。
「うちら、神様のお告げを受けて北から来た――神の遣いでーす!」




