#56 記憶の先に
同じ頃、“住”を任されたルナとクロは、猫の都から北へ向かっていた。
頼りにするのは、今回もルナの記憶だった。
「本当にこっちで合っているのか?」
「もう、疑ってるの?」
「いや。お前が忘れているところを見てみたいだけだ」
「残念でした。ちゃんと覚えてるよ」
ルナが得意げに笑うと、クロの口元も僅かに緩んだ。
かつて五人衆で旅をしていた頃、巨大化した野犬に襲われていた三匹の子豚を助けたことがある。
藁の家も木の家も壊され、残った家さえ今にも崩れそうな有様だった。
五人衆は野犬を追い払い、三匹が新しい家を建て始めるところまで見届けて、その場を後にした。
それから数百年。
「確か、この辺りだったはずなんだけど……」
ルナが足を止めた先に、一軒の木造家屋があった。
以前よりも太い丸太が使われ、風雨にも耐えられるよう補強されている。数百年という年月を考えれば、何度も修繕を重ねてきたのだろう。
「間違いないね。ブーさんたちの家だよ」
クロは返事の代わりに、周囲を見回した。
人の気配がない。
畑は荒れ、薪置き場には一本の薪も積まれていなかった。
ルナが戸を叩く。
「ブーさんたち、いらっしゃいますか?」
返事はない。
戸に鍵も掛かっていなかった。
「失礼します」
二人が中へ入ると、家具や食器は残っていた。争った跡もない。
ただ、大工道具のほとんどが持ち出されている。
机の上には何枚もの紙が広げられていた。
「これは……橋の設計図みたいだね」
丸太を組み、太いロープで吊り上げる大橋。その脇には、家から北へ延びる道を記した地図も置かれている。
地図の終点に描かれていたのは、細い海峡だった。
旧本州と旧北海道。
大停電後に起きた地殻変動によって、二つの大地はかつてよりもずっと近くなっている。
「行こう、クロ」
「ああ」
二人は地図を手に、さらに北へ向かった。
やがて潮の匂いが濃くなり、木々の向こうから波の音が聞こえてくる。
森を抜けた先で、ルナは思わず息を呑んだ。
海岸を埋め尽くすように、巨大な蟻が群がっていた。
その数、およそ百匹。
どれも大型犬ほどの大きさがあり、忙しなく顎を鳴らしながら辺りを這い回っている。
その中心で、三人の青年が丸太を運ばされていた。
「ブーさんたち!」
三人が一斉に振り返る。
藁を編んだ服を着た青年。
木の板を組み合わせた装いの青年。
煉瓦色の服に身を包んだ青年。
「あれは!?」
「あの時の猫又さんたち!」
「どうしてここに!?」
声に反応した軍隊蟻たちが、一斉に二人へ向き直った。
「話はあとです。少しだけ眠っていてくださいね」
ルナが両手を広げる。
『――眠りの霧』
その手の先から白い霧が勢いよく放たれ、見る間に海岸を覆っていく。
軍隊蟻は数歩進んだところで足をもつれさせ、一匹、また一匹と砂浜へ倒れ込んだ。
逃げる間もなかった三人の青年も、次々とその場へ崩れ落ちる。
やがて霧が晴れると、百匹近い軍隊蟻と三匹の子豚が、砂浜で深い眠りについていた。
しかし、橋の上にいた五匹だけは眠らなかった。
ほかよりもひと回り大きく、身体は燃えるように赤い。
隊長格なのだろう。
五匹の赤い軍隊蟻は丸太の上を這い、一直線にこちらへ迫ってくる。
クロが刀の柄に手を掛けた。
「クロ、橋は傷つけないでね」
「ああ」
短く答えた次の瞬間、クロの姿が消えた。
細い丸太の上を、黒い影が駆け抜ける。
五匹の軍隊蟻とすれ違い、クロは橋の途中で静かに刀を鞘へ納めた。
カチンッ。
遅れて、五匹の身体がまとめて宙へ浮く。
赤い軍隊蟻たちは何が起きたのかも分からぬまま、次々と海へ落ちていった。
「ブーさんたち、もう起きても大丈夫ですよ」
ルナが三人の身体を順番に揺する。
「んん……」
「よく寝た……って、蟻は!?」
三人が慌てて飛び起きると、クロが何事もなかったように橋の上から戻ってくるところだった。
「皆さん、ご無事で良かったです。一体、何があったのですか?」
三人は顔を見合わせた。
「ベリトっていう行商人に、橋を造れって命令されたんだ」
「旧北海道まで商売の範囲を広げたいんだって」
「断ったら、この蟻たちに囲まれて……」
ベリト本人は、しばらく前から姿を見せていないらしい。
突如として現れた人間たちの住む場所を調べるため、行商を休んでどこかへ向かったという。
それでも軍隊蟻たちは命令に従い、三人を休む間もなく働かせ続けていた。
「もう大丈夫です。一緒に猫の都へ来ていただけませんか? 皆さんのお力を借りたいのです」
ルナの誘いに、三人はすぐには答えなかった。
代わりに、木の板を身に着けた青年が造りかけの橋を見つめる。
「その前に、お願いがあるの」
「お願い、ですか?」
「この橋を完成させたい」
橋に必要な部品は、すでに全て完成していた。
丸太も組み上がり、ロープも十分な長さがある。
だが、三人の力では対岸までロープを渡すことができず、そこで作業が止まっていたのだ。
「あんな奴に命令されて始めた橋だけどさ」
藁の服を着た青年が悔しそうに唇を噛む。
「途中で投げ出したら、私たちの負けみたいじゃん」
「それに、この橋があれば向こうに住む人たちも行き来できるようになる」
煉瓦色の服を着た青年も力強く頷いた。
「だからお願い。最後まで造らせて」
ルナは三人の顔を順番に見て、柔らかく微笑んだ。
「もちろんです。私たちもお手伝いします」
ルナが海へ向き直る。
両手をかざすと、海面が大きく持ち上がった。
陸地と同じ高さまで盛り上がった水が、対岸へ向かって細長く延びていく。
「今のうちに、丸太を!」
三人の青年が、用意していた丸太を次々と水面へ運ぶ。
クロがそれを受け取り、素早くロープで繋ぎ合わせていった。
水に支えられた丸太は、対岸まで続く仮の歩行路となる。
五人はその上を進み、太いロープを向こう岸の大木へと固定した。
そこからの作業は早かった。
長い時間を掛けて用意されていた部品が、三人の手によって次々と組み上げられていく。
最後の結び目を煉瓦色の服を着た青年が締め上げる。
「できた……!」
旧本州と旧北海道を結ぶ吊り橋が、海峡の上に伸びていた。
作業を始めてから、小一時間ほどしか経っていない。
三人は完成した橋を見上げ、しばらく満足そうに頷いていた。
やがて、藁の服を着た青年が思い出したようにルナたちへ向き直る。
「そういえば、まだ名乗ってなかったな。俺はガイ」
「僕はマシュ」
「オルテだ。ずっとブーさんって呼ばれてたから、名乗る機会を逃してたよ」
「ごめんなさい。昔会った時のお名前までは、思い出せなくて。私はルナ。こっちはクロ」
「数百年前のことだろ? 俺たちのことを覚えてただけでも十分だって」
ルナが水の操作を解くと、持ち上げられていた海面がゆっくりと元の位置へ戻っていく。
「さすがだね、ルナ!」
ガイが振り返る。
しかし、そこにルナの姿はなかった。
服の中から、もぞもぞと小さな白い猫が這い出してくる。
霊力を使い果たし、人の姿を保てなくなったルナだった。
『少し……頑張りすぎちゃった』
クロは白猫となったルナを抱き上げると、自分の頭の上へ乗せた。
『クロ、重くない?』
「軽すぎるくらいだ」
「クロ、そのまま連れて帰るの?」
「何か問題があるか」
頭の上でくつろぎ始めた白猫を見て、三人は揃って笑った。
帰りがけに木の家へ立ち寄り、三人は大工道具と最低限の荷物を持ち出した。
こうして猫の都へ、新たに三人の大工が加わることになった。
―――――
一方、猫の都では。
カンカンカンカンッ!
けたたましい警笛が鳴り響いた。
猫神社で腰を下ろしていた素敵なボスと坂巻が、同時に立ち上がる。
「え? 何の音!?」
突然の音に驚き、シュリが二人を見上げた。
「恐らく、タヌキかな」
坂巻が答えた、その瞬間だった。
ドクンッ。
シュリの心臓が大きく高鳴った。
「あ……っ」
呼吸が急激に浅くなる。
胸を押さえ、その場にうずくまったシュリの顔から血の気が引いていく。
「シュリ?」
素敵なボスが駆け寄ろうとしたが、警笛は鳴り止まない。
坂巻がすぐにシュリの背へ手を添えた。
「こちらは私が。ボスは皆さんのところへ」
素敵なボスは一瞬だけ迷い、強く頷いた。
「おじ、シュリを頼む」
そう言い残し、独りで神社を飛び出した。
畑へ向かうと、十匹ほどのタヌキが農作物を荒らしていた。
以前から都の周囲をうろついている者たちだ。
一匹が姿を見せて住民の注意を引き、その隙に別のタヌキが反対側から畑へ入り込む。
追い掛ければ逃げ、足を止めれば別の方角から現れる。
強くはない。
だが、妙に連携が取れていた。
「奴ら、味をしめて来ているな」
素敵なボスは畑を駆け回り、一匹ずつ追い払っていった。
最後の一匹が森へ逃げ込む頃には、警笛も鳴り止んでいた。
幸い、住民に怪我はない。
被害に遭ったのは、収穫を控えていた農作物だけだった。
これまでなら、それで良しとしていた。
作物はまた育てればいい。
住民が無事なら、大きな被害ではない。
五人衆は皆、そう考えていた。
素敵なボスが猫神社へ戻ると、シュリは奥の部屋で横になっていた。
呼吸は落ち着いている。
その傍らでは、坂巻が静かに印を結び、祈祷を続けていた。
「眠ったのか?」
「ええ。もう心配ありません」
素敵なボスは眠るシュリの顔を見つめた。
まだ苦しいのか、胸元の布を強く握り締めている。
「おじ。この娘は、タヌキの声を聞いただけでいつもこうなるのか?」
坂巻はしばらく黙っていた。
やがて祈祷を終えると、眠っているシュリを起こさぬよう、小さな声で答えた。
「シュリさんは、タヌキ被害に遭った集落の生き残りです」
素敵なボスの耳が、僅かに動く。
「大停電が起きた夜、ご家族を亡くしています。あの茶釜を身に纏った化け狸に」
それ以上、聞く必要はなかった。
この数日、素敵なボスはシュリをよく見ていた。
慣れない巫女の仕事に文句を言いながらも、頼まれたことは最後までやり遂げる。
虫を見れば悲鳴を上げ、猫又たちに囲まれれば嬉しそうに顔を緩める。
少し生意気で、危なっかしくて、放っておけない娘だった。
住民のためではない。
都を守る長としてでもない。
あの茶釜の首は、私が取る。
眠るシュリを見つめながら、素敵なボスは胸の内で密かにそう決めた。




