#52 正義?悪?
『それでね』
バアルはレヴィを見る。
『森を整えながら暮らしてた頃に、こいつと会った』
『こいつって言わないで下さい』
『レヴィは南東に広がる海の主みたいなものでさ』
レヴィは腕を組む。
『当時の海は酷い状態だったのよ』
『赤い海だったね!』
『赤い……?』
『大量に増えた小さな生き物のせいでね。水の中の酸素が減って、魚も貝もどんどん死んでた』
バアルは指先をくるくる回す。
『だから、その増え過ぎた奴らだけに感染する病をちょちょちょいってプレゼントしたのさ』
『病を……?』
『正確にはウイルスみたいなものかな。数が減れば海の中の栄養もまた回り始める。魚も戻る。海が戻れば、森にも恩恵がある』
レヴィが小さく鼻を鳴らす。
『勝手に私の海へ入り込んで好き放題したのよ』
『結果良くなったでしょ?』
『それは認めますけど』
『それから何百年も、森と海でお互い好き勝手やりながら、まあ上手くやってきたって訳』
『好き勝手はバアル様だけです』
バアルは笑った。
だが次の言葉では、その笑みが少しだけ消えた。
『そこへ突然、人間の住む場所が現れた』
マリ達の表情が変わる。
『僕達からしたら、本当に突然だったんだ』
昨日まで入れなかった場所。
存在しているのに触れられなかった場所。
時空の歪みのような壁が無くなり、人が現れた。
『不思議な事にさ、最初は人に会いたくて探してたはずなのに数百年後にようやく出会えた【人間】に対して僕が抱いた感情は【嫌悪感】だった。人だった頃の僕よりも人蟲として生きた時間の方が長くなったからかもね』
少し寂しそうなバアル。
『僕は人間が何をしてきた生き物なのか知ってる』
バアルは樹海へ視線を向ける。
『森を切る。川を汚す。海を汚す。必要以上に獲る』
『だから人間を敵だと?』
マリが尋ねる。
『最初から敵だとは決めてないよ』
バアルは即答した。
『だから調べた』
最初に向かわせたのは、北の海沿いに現れた小さな集落だった。
フレルティ。
人の姿になれる赤黒い大百足。
『あいつに周辺を見てきてもらった』
そこで分かった事があった。
人間の住む場所には、なぜか蟲達が近寄りにくい。
中心にある神社や神聖な物へ近づけば近づくほど、その力は強くなる。
『フレルティ自身も近づいて確かめた』
バアルの目が細くなる。
『青白い炎で身体を焼かれた』
『青白い炎……』
雪舟が呟いた。
『僕はその炎を知ってた』
先ほどまでの軽い声音が消える。
『魂を燃やす炎。地獄で何度も見てきたからね』
誰も口を挟まなかった。
『普通の火とは違う。肉を焼くんじゃない。魂そのものに触れる炎だ』
そして、フレルティの調査からもう一つ分かった事があった。
人間の中にも、神社の力とは別に、とてつもなく強い力を持つ者がいる。
『その後、フレルティはこの辺りで消えた』
バアルは元東の集落の方を見る。
『青白い炎で死んだ訳じゃない』
セオリの眉が動く。
『報告にあったのは赤い炎だった』
『赤い炎……?』
『炎の姿をした化け物が放った炎』
マリが僅かに目を細める。
『それで、フレルティは消えた』
バアルは膝に肘を乗せた。
『次に聞こえてきたのが、この集落には炎の化け物になる巫女がいるって話』
『それを調べに?』
『ミュリンがね』
蜘蛛の人蟲。
『あいつがその巫女と戦った事は知ってる。赤い炎で焼かれた事も』
『じゃあ、そのミュリンも……』
『いや』
バアルは首を横に振った。
『ミュリンはその時は死んでない』
セオリは驚き雪舟を見る。
『焼かれたのに死んでない?』
『僕たち蟲はしぶといんだよ』
バアルが笑う。
『その後も生きてた。そこまでは分かってる』
そして。
バアルの表情から完全に笑みが消えた。
『でも、そこから先が無い』
『無い?』
『消息がぷっつり消えた』
マリが黙ってバアルを見る。
『この世界、見渡す限り蟲だらけなのにだよ?』
バアルは両手を広げた。
『空にもいる。木にもいる。地面の下にもいる。誰かが動けば、どこかの誰かが見てる』
声が少し低くなる。
『なのにミュリンがどこへ消えたのか、誰も知らない』
『……』
『それどころか、その辺りにいた蟲達の話まで妙なんだ』
『妙?』
『何かが抜け落ちてる』
バアルはこめかみを指で叩く。
『見てたはずなのに覚えてない。そこにいたはずなのに、何があったか分からない』
雪舟の目が細くなる。
『そんな馬鹿げた話、あると思う?』
誰も答えなかった。
ある。
実際には起きていた。
だが、その真相を知る者はこの場にはいない。
バアルは続ける。
『しかも、ミュリンが消えたのとほとんど同じ頃から、この集落へ近づける距離が更に伸びた』
マリが雪舟へ目を向ける。
『結界が弱くなった……?』
『僕にはそう見えた』
『原因は分からなかったの?』
『正確にはね』
バアルは肩を竦めた。
誰かがいなくなったのか。
神社そのものに何か起きたのか。
原因までは分からない。
ただ、神聖な土地を覆う力が一定ではない事だけは分かった。
『それで僕やベリトが、ここまで来られるようになった』
セオリが拳を握る。
『それで襲ってきたって言うの?』
『だから違うって』
レヴィがまた口を挟みかける。
『レヴィ』
『……はい』
バアルが小さく息を吐く。
『僕は様子を見てきてって頼んだだけだったんだよ』
『スズメバチに?』
『うん』
バアルは困ったように笑う。
『あいつ、ちょっとコミュニケーションが下手なんだよ』
『ちょっと?』
マリが思わず聞き返す。
『……結構?』
レヴィが横から呟く。
『かなりです』
『レヴィ!?』
『事実でしょう』
バアルは咳払いした。
『とにかく。僕達から見れば、部下が立て続けに消えた。近づけなかった人間の場所に近づけるようになった。そこには神社とは別の、とんでもない力を持つ人間までいる』
マリは黙って聞いている。
『だから僕も来た』
蟲の王自らが双山村へ姿を現した理由。
『元凶が何なのか、自分の目で見たかった』
沈黙が落ちた。
長かった戦いの音が嘘のように、風だけが空き地を通り抜ける。
やがてマリが口を開いた。
『……私達から見れば、貴方達は突然現れて、人を殺した敵だった』
『うん』
『でも貴方達から見れば、人間が突然現れて、仲間が消えていった』
『そういう事』
『……。』
『別に僕は仕返しをしようとかも思ってるわけじゃない』
バアルはあっさり答えた。
『死ぬやつらが弱くて死んだ。ただそれだけ』
セオリが反射的に言い返そうとする。
だが雪舟が片手を上げて止めた。
『分かり合おうとする事が無理な事もある』
『……』
『ワシ達にも言い分がある。向こうにもある。それだけ分かったなら今日は十分じゃろ』
バアルが楽しそうに笑う。
『お爺ちゃん、話が早いね』
『誰が爺ちゃんじゃ』
『お爺ちゃんももしかして強いのかな?』
『余計なお世話じゃ』
マリは少し考える。
『一つだけ聞かせて』
『何?』
『貴方達の目的は、人間を滅ぼす事?』
バアルはすぐには答えなかった。
森を見る。
空を見る。
そして海の方角を見る。
『僕が守りたいのは、僕達が千年かけて作ってきた世界だよ』
『……』
『森も、海も、そこに生きてる奴らも』
バアルはマリへ視線を戻す。
『人間がそれを壊さないなら、わざわざ全部殺す理由なんて無い』
レヴィが少し不満そうな顔をしたが、否定はしなかった。
『でも壊すなら?』
『僕のおもちゃを壊す奴らは全て敵になるね!』
柔らかな笑顔。
だが、その目だけは笑っていなかった。
マリも視線を逸らさない。
『分かった』
『それだけ?』
『今はね』
『あはは』
バアルが立ち上がる。
『やっぱり白龍ちゃんや蝶のお姉さん、面白いなぁ』
『白龍ちゃんじゃなくてセオリよ!』
セオリが少しむっとした顔で訂正する。
『セオリちゃんね、覚えたよ! んで、蝶のお姉さんは?』
バアルが今度はマリを見る。
『……』
マリは露骨に言いたくなさそうな顔をした。
するとセオリが代わりに胸を張る。
『人類最強のマリさんよ!』
『ちょっとセオリ!?』
『マリちゃんね。覚えた!』
その横で、レヴィがじとっとバアルを見る。
『……女子にしか名前聞かないじゃん』
『え?』
『別にぃ~』
レヴィは不貞腐れたように顔を逸らした。
バアルはそんなレヴィを気にする様子もなく、改めてセオリを見る。
『しかし驚いたね。前に来た時は、この聖地の中でも僕の腐食もウイルスも通ってたんだけどね。今は全部浄化されちゃってる。……セオリちゃん、随分と凄い力になったじゃない』
『聖地のハンデと、バアル様がまだ未完な状態ってのをちゃんと言っとかないと、この女が調子に乗ります』
ぎゅっ。
『いてててててっ! レヴィ、太もも抓らないでよ!』
ぴくっ。
セオリの眉も動く。
『……この女?』
『バアル様』
『はい』
『帰りますよ』
『はいはい』
レヴィの身体が再び巨大なリヴァイアサンへ変わる。
風が巻き起こる。
今度こそ、バアルがその背へ飛び乗った。
『じゃあね~』
『そのまま戻ってこなくて大丈夫よ』
マリが言う。
『次に会うとしても数年先かなぁ!』
バアルは笑って手を振った。
『……それは誰に言ってるのよ』
レヴィの低い声が響く。
『みんなにだよ?』
『へぇ、みんなにねぇ…』
『あはははは』
巨大な身体が空へ昇っていく。
海の方角へ。
遠くへ。
遠くへ。
バアルはその背中に座ったまま、小さく手を振っていた。
『じゃあねー』
場違いなほど軽い声。
やがてその姿は雲の向こうへ消えた。
誰もすぐには口を開かなかった。
平将門は消えた。
終末の騎士達も消えた。
バアルとレヴィも去った。
戦いは終わった。
少なくとも、今は。
『……何だったんだ、あいつら』
タツキが空を見上げたまま呟く。
『さあね』
セオリも同じ空を見ていた。
マリは答えなかった。
まだ頭の中で、バアルの話が渦巻いている。
敵。
味方。
人間。
蟲。
どちらか一つの言葉だけでは整理出来ないものが、この世界には多過ぎた。
その時。
『マリ?』
セオリが振り返る。
マリは目を閉じた。
周囲の音が遠ざかっていく。
兵達の声。
風の音。
木々のざわめき。
全てが薄れていく。
そして――。
『脅威ハ既ニ退ク。今ハ戈ヲ収メ、身心ヲ休メヨ。時ノ満ツルマデ、暫ク安息スベシ。』
マリはゆっくりと目を開けた。
『……休め、ってことかな』
『神の啓示?』
セオリが首を傾げる。
『脅威は去った。今は武器を収めて、心と身体を休めろ……そんな感じ』
雪舟がふっと息を吐く。
『今度こそ、前回の啓示は乗り越えたって事じゃな』
マリは少しだけ考えた後、周囲を見回した。
負傷した者。
壊れた防御壁。
戦いの跡。
今回は誰も死ななかった。
『うん』
小さく息を吐く。
『まず怪我人を見よう。今日のところは、それが終わったら休もうか』
『マリさんもだよ?』
セオリが念を押す。
『分かってるって』
『本当に?』
『……たぶん』
『たぶんって何!?』
久しぶりに、その場に小さな笑い声が広がった。
戦いは終わった。
長い長い戦いの末に訪れたものが、本当の平穏なのかはまだ分からない。
それでも。
今だけは――。
静かだった。




