8.
卒業前夜会が始まった。
王城の大広間には眩いほどのシャンデリアが輝き、色鮮やかなドレスと礼装が行き交っている。
卒業を祝う華やかな夜。
本来なら、未来ある若者たちを祝福する穏やかな宴になるはずだった。
けれど今夜の会場には、どこか落ち着かない空気が流れている。
視線。
囁き声。
扇子の奥に隠された好奇心。
その中心にいるのは、一組の男女だった。
そして。
「アリア・ブランベル公爵令嬢。君との婚約を破棄する」
静まり返った会場へ、大きな声が響く。
声の主は、この国の第一王子テオドール殿下。
私の婚約者だ。
殿下の後ろには、最近親しいと噂されている男爵令嬢ソフィア・ハーヴィーが、怯えたように立っていた。
ざわり、と空気が揺れる。
「やはり噂は本当だったのね……」
「こんな公の場で……」
「アリア様が気の毒だわ……」
あちこちから囁き声が漏れる。
けれど不思議と、私の心は静かなままだった。
それよりも、今、この舞台の中心に立つ二人を見て、私は少しだけ可笑しくなる。
(殿下もソフィア様も、随分と緊張されているようだわ)
思わず零れそうになった笑みを胸の奥へ押し込み、私は静かに歩き出した。
カツ、カツ、とヒールの音が広間へ響く。
淡い青のドレスがシャンデリアの光を受けて揺れた。
私は真っ直ぐテオドール殿下を見つめる。
「殿下、そのお話……詳しくお聞かせください」
ゆったりと微笑む。
その瞬間、会場中の視線が一斉に私へ集まった。
「君がここにいるソフィアへ悪質な嫌がらせをしていたことは分かっている」
静まり返った会場の中、テオドールの声が響く。
「まあ……」
アリアは小さく目を見開いた。
「私には覚えのないことですが……証拠はございますの?」
「ここにいるソフィアがそう言っている。間違いない」
ざわり、と会場が揺れる。
証拠もなく、一方の証言だけで婚約者を糾弾する。
あまりにも感情的な物言いだった。
ソフィアは不安げに俯いている。
アリアはそんな二人を静かに見つめ……やがて小さく息を吐いた。
「殿下」
その声はどこまでも穏やかだった。
「証拠もなく人を糾弾するのはおやめくださいませ」
会場の空気が少し張り詰める。
けれどアリアは表情を崩さない。
「……ですが」
淡い青のドレスの裾を静かに揺らしながら、一歩後ろへ下がる。
「そこまで仰るのでしたら、この婚約……解消して差し上げますわ」
息を呑む音が広間に広がった。
アリアは優雅に礼をし、テオドールの横を静かに通り過ぎる。
その瞬間。
テオドールはほんの僅かにクラウスへ視線を向けた。
クラウスもまた、小さく頷く。
それを確認し、アリアは静かに会場を後にした。
閉ざされた扉の向こう。
先程までの喧騒が嘘のように静かだった。
アリアはゆっくりと息を吐く。
(これで、ホルスト公爵が動いてくださると良いのだけれど)
青いドレスの裾を揺らしながら、アリアは静かに前を見据えるのだった。
◇◇◇
夜会から数日。
アリアは届いた報告書へ目を通し、小さく息を吐いた。
「……さすがに、こんなに早くは動きませんわね」
「慎重な方ですから」
向かいに立つフィデルが静かに言う。
ホルスト公爵ほどの人物だ。
卒業記念夜会の後も、すぐには尻尾を見せないらしい。
アリアは少し考え込み……ふと口元を緩めた。
「フィデル。殿下が私と元の関係に戻ろうとしている……そんな噂を少し流してくださらない?」
「は?」
珍しく間の抜けた声を出したフィデルに、アリアはくすっと笑う。
「このままでは、“婚約破棄は感情的な衝突だった”で終わってしまうでしょう?」
ホルスト公爵ほど慎重な人物なら、まだ様子を見る可能性が高い。
「せっかく完全に壊れたと思っている関係ですもの。少しくらい未練を見せた方が、焦ってくださるかもしれませんわ」
フィデルは呆れたように肩を竦めた。
「……随分大胆ですね」
「貴方は引き続きホルスト公爵の動きを追っていてね」
「ですが私は、アリア様のお側を離れないよう命じられて戻ってきたのですが」
「あら、私の指示に従ってくださるのでしょう?」
にっこり微笑むと、フィデルは小さく肩を落とした。
「それに、顔を知られていない貴方の方が適任ですわ」
その噂は数日のうちに社交界へ広がった。
“婚約破棄を宣言したはずのテオドール殿下が、アリア嬢との復縁を望んでいるらしい”——と。
そのおかげか、クラウスが花束を持って訪れても、不自然に思う者はいなくなっていた。
「失礼いたします」
部屋へ入ってきたクラウスの腕には、大きな花束が抱えられていた。
「ふふ、貴方、随分お花が似合うのね」
「ご冗談を……」
クラウスは困ったように眉を下げる。
「殿下からです。あまり長居はできませんので、状況だけご報告に参りました」
アリアは静かに頷いた。
◇◇◇
そしてさらに数日後。
「動きがありそうです」
フィデルの言葉に、アリアは勢いよく顔を上げる。
「本当?」
報告を聞こうとした、その時だった。
「お嬢様、お客様が……!」
珍しく慌てた様子でマーサが部屋へ入ってくる。
その後ろから、ゆっくりと姿を現した人物を見た瞬間——アリアは息を呑んだ。
「リア……久しぶりだね」
ライアンだった。
懐かしい声。
変わらない優しい笑み。
目を離せなかった。
固まったままのアリアを見て、ライアンは小さく笑う。
そして静かに書類を差し出した。
「これを」
それは、自分たちがずっと追っていたものだった。
ホルスト公爵に繋がる証拠。
けれど今は、それ以上に……目の前にライアンがいることへ意識が向いてしまう。
ライアンは真っ直ぐアリアを見つめた。
「まだ……終わりじゃないだろう?」
その声はどこまでも穏やかだった。
「ええ……まだ……」
しばらく互いを見つめ合った後、アリアは小さく頷くのだった。




