6.
翌日の学園。
そこには、いつもの温室ではなく、中庭のベンチで話すテオドールとソフィアの姿があった。
木陰になっているとはいえ、ここは温室のような閉ざされた場所ではない。
誰に見られてもおかしくない場所だった。
ソフィアは昨日のお茶会を思い出していた。
『まずは、学園にいるあちらの派閥の方たちへ、お二人が最近親しくしているという噂を流しましょう』
アリアの静かな声。
『ソフィア様。きっと噂はすぐに広がりますわ。そうなれば、貴方へ良からぬ感情を向ける方も現れるでしょう』
その言葉を聞いた時、正直怖いと思った。
私は昔から社交界の空気が苦手だ。
視線も、噂も、誰かを値踏みするような会話も。
だけど……
「ソフィア、本当にいいのか」
隣から、気遣うような声が聞こえる。
ソフィアはゆっくりと顔を上げた。
「昨日のアリア様、とても素敵でしたよね」
風が柔らかく髪を揺らす。
「凛としていて……私もあんな風になりたいって思ったんです」
「しかし……」
不安そうに眉を寄せるテオドールに、ソフィアは小さく笑った。
そして、まっすぐ彼を見る。
「私も同じです」
少しだけ緊張したように息を吸う。
「テオドール様……私にも、諦められない思いがあるんです」
その言葉に、テオドールは小さく目を見開いた。
“王子様”ではなく、“テオドール様”。
初めて変わった呼び方。
胸の奥がわずかに熱くなる。
けれど同時に、それ以上に強く込み上げてきたのは不安だった。
この先、彼女はきっと傷つく。
噂も、悪意も、すべて自分が巻き込むものだ。
それでも彼女は、逃げずにここへ立っている。
テオドールは静かに息を吐き、困ったように微笑んだ。
「……敵わないな、君には」
最近、ソフィアへ話しかけてくる生徒が増えていた。
特に同じ宮廷科の下級貴族の令嬢たちだ。
以前は遠巻きに見ているだけだった彼女たちも、最近では休み時間になると自然に声をかけてくる。
「最近、テオドール殿下とよくご一緒されていますよね」
「この前も中庭でお見かけしましたわ」
探るような笑み。
けれど、その奥にあるのは純粋な好奇心だけではない。
ソフィアは曖昧に微笑みながら、そっと視線を落とした。
(もう、噂は広がり始めている)
廊下を歩けば感じる視線。
ひそひそと交わされる声。
その中心に自分がいるのだと、嫌でもわかってしまう。
それでも……ふと、中庭で困ったように笑っていたテオドールの姿を思い出す。
ソフィアは小さく息を吐き、静かに顔を上げた。
もう、逃げたくはなかった。
◇◇◇
机の上にはいくつもの招待状が並べられていた。
舞踏会、夜会、茶会——季節が変わるこの時期は特に社交の誘いが多い。
アリアはその中から一枚を取り上げた。
「ローゼン侯爵家、夜会……」
開催は二週間後。
ちょうど良い頃合いだろう。
学園で流れ始めた噂が、社交界へ届く頃だ。
「こちらになさいますか?」
背後のマーサの問いに、アリアは静かに頷いた。
「ええ。……そろそろ皆様の反応も見ておきたいしね」
そして迎えた夜会当日。
煌びやかなシャンデリアの光の下、色鮮やかなドレスが広間を彩っていた。
談笑する貴族たち。
流れる音楽。
グラスの触れ合う音。
その中でアリアは、一人の令嬢に声をかけられる。
「アリア様、最近学園で面白い噂を耳にいたしましたの」
「まあ、どのような?」
アリアは微笑みを崩さない。
令嬢は扇子で口元を隠しながら続けた。
「テオドール殿下が、随分親しくされている方がいるとか」
周囲の視線がわずかにこちらへ向く。
探っているのだ。
噂は本当なのか。
婚約者はどう思っているのか。
アリアはグラスへ静かに口をつけた。
そして穏やかに微笑む。
「ふふ、殿下は昔からお優しい方ですもの」
それだけ言って視線を流す。
否定もしない。
だが、動揺も見せない。
その余裕ある態度に、逆に周囲は言葉を続けられなくなっていた。
アリアはグラスを傾けながら、静かに周囲を見渡した。
噂は確かに広がっている。
好奇の視線。
探るような会話。
同情混じりのため息。
だが……肝心のホルスト派には、まだ大きな動きは見られなかった。
「……さすがに慎重ですわね」
小さく呟く。
けれど、それでいい。
焦って動けば警戒される。
今はまだ、“様子見”の段階なのだ。
◇◇◇
夜会から戻ったアリアは、自室で髪をほどきながら小さく息を吐いた。
大きな収穫はない。
だが、噂が十分に広がっていることは確認できた。
その時、控えめなノックが響く。
「お嬢様、お客様です」
「こんな時間に?」
訝しげに眉を寄せると、扉の向こうから静かな男の声がした。
「お久しぶりです、アリア様」
部屋へ入ってきたのは、隣国に仕える青年——フィデルだった。
「ライアン様よりお手紙を預かって参りました」
アリアは目を細め、封を切る。
そこに書かれていた内容を読んだ瞬間、表情が僅かに変わった。
「……なるほど」
ホルスト公爵と、隣国のある伯爵家との繋がり。
ようやく見えてきた一本の線。
「それと、今後はアリア様の指示に従うようことづかっております」
アリアは小さく目を見開いた後、ふっと笑みを漏らした。
「相変わらず仕事が早いのね」
そして机へ向かい、便箋を取り出す。
さらさらとペンを走らせた後、封をしてフィデルへ差し出した。
「ライアン様へ」
フィデルが恭しく受け取る。
「それと悪いのだけれど、もう一度向こうへ戻って調べてきてほしいことがあるの」
「……例の伯爵ですか」
「ええ。どのような方なのか、もう少し詳しく知りたいの」
フィデルは少し呆れたように肩を竦めた。
「女好きで、金にもだらしない方ですよ」
「……そう」
アリアは静かに考え込む。
慎重なホルスト公爵本人ではなく、その周囲から崩す。それならば……
窓の外へ視線を向けながら、アリアは静かに目を細めたのだった。
◇◇◇
二週間後。ブラウン侯爵家主催の夜会。
煌びやかなシャンデリアの光が広間を照らし、色鮮やかなドレスと礼装が行き交っている。
そしてその中心には、当然のように視線を集める三人の姿があった。
第一王子であるテオドール。
その婚約者、アリア。
そして、最近噂になっている令嬢、ソフィア。
囁き声があちこちから聞こえてくる。
「本当にいらしてるのね」
「噂は本当だったのかしら」
「アリア様はどうお考えなのかしら……」
ソフィアは視線に気づかないふりをしながら、小さく息を吐いた。
すると隣にいたクラウスが穏やかに声をかける。
「大丈夫ですか、ソフィア様」
テオドールの側近であるクラウスは、さりげなく周囲との距離を取るよう立っていた。
「殿下は少しご挨拶へ向かわれております。その間、私がお側におりますのでご安心ください」
「ありがとうございます……」
以前の自分なら、この空間に立っているだけで逃げ出したくなっていただろう。
けれど今日は、不思議と背筋を伸ばしていられた。
(アリア様のように)
そんなことを考えていると、不意にクラウスが別の貴族に呼び止められる。
「少しだけ失礼いたします」
「はい」
クラウスが離れた、その直後だった。
「ソフィア様でしたかしら?」
数人の令嬢たちが、柔らかな笑みを浮かべながら近づいてくる。
どの顔にも見覚えはない。
けれど、その纏う空気だけで分かった。
(上位貴族)
「最近、殿下と随分親しくしていらっしゃるとか」
「学園でも有名ですのよ」
扇子越しに向けられる笑み。
柔らかな口調。
だが、その輪の中からは逃げられない。
「あ、あの……」
「アリア様もお可哀想ですわね」
「……その辺りでやめておけ」
静かな声が割って入る。
その瞬間、空気が凍りついた。
振り向くと、そこにはテオドールが立っていた。
令嬢達が一斉に顔色を変える。
テオドールは感情を露わにはしていない。
だが、その視線は冷たかった。
「夜会で一人の令嬢を囲むなど、あまり褒められた振る舞いではないな」
「も、申し訳ございません……」
令嬢達は慌てて頭を下げ、その場を離れていく。
残されたソフィアは、ほっとしたように小さく息を吐いた。
「大丈夫か」
「……はい。ありがとうございます」
少し離れた場所でその様子を見ていたアリアは、静かにグラスを傾けた。
(あら)
その瞬間の殿下の表情。
気づく者は少ないだろう。
けれど長年隣にいた自分には分かってしまった。
アリアはわずかに目を伏せ、ほんの少しだけ困ったように微笑んだ。
その小さな変化に、近くで様子を窺っていた婦人達が目を見開く。
「……まあ」
「やはり……」
ひそやかな声が広がっていく。
アリアは何事もなかったかのように再び微笑み、静かに視線を逸らした。
噂はもう十分に広がっている。
そして今日、この場でさらに確信へ変わったはずだ。
ホルスト派はまだ慎重に様子を窺っている。
だが、それでいい。
焦る必要はない。
アリアは小さく口元を緩める。
(今夜の夜会は、上出来ですわね)




