4.
用意してもらったのは、これまでのスケッチ帳とは比べものにならないほど大きなキャンバスだった。
二人で相談して、あの日温室で見た夕暮れの景色を描くことにした。私は主に背景を担当し、ソフィア嬢は花や光を描き込んでいく。
こんなふうに誰かと並んで絵を描くのは初めてだった。自分とは違う視点が入るのも、自分なら選ばない色が重なっていくのも、不思議と面白い。
少しずつ完成へ近づいていくキャンバスを眺めながら、私は気づいていた。
いつの間にか、この時間そのものを楽しみにしていることに。
それからしばらくの間、放課後になると二人で温室に集まり、少しずつ絵を描き進めていった。
「この辺り、もう少し明るい方が……」
ソフィア嬢がキャンバスへ身を寄せた瞬間、ゴツ、と小さく額がぶつかった。
「あっ……」
驚いたように離れようとした彼女がバランスを崩しかけた。
「ソフィア、大丈夫か?」
思わずそう呼んでしまってから、自分でも一瞬言葉を失った。
彼女もまた目を丸くしている。
温室の中が、妙に静かだった。
◇◇◇
ある日の夜。
自室でテオドールは一人考えていた。
ここしばらく忙しく、温室へは行けていない。
机に向かっていても、ふとした瞬間に思い出すのは、あの日のことだった。
額がぶつかった瞬間。
驚いたように目を見開いたソフィア。
『ソフィア、大丈夫か?』
思わず口にした言葉を、今でもはっきり覚えている。
「……ずいぶん驚いていたな」
小さく呟いて、テオドールは息を吐いた。
それも当然だ。
自分自身ですら、あの瞬間ひどく動揺していたのだから。
いつからだったのだろう。
温室で過ごす時間を心地よいと思い始めたのは。
彼女が笑うと、少し安心するようになったのは。
夕陽に照らされた横顔を、綺麗だと思ってしまったのは。
「……はは」
自嘲するように笑う。
もう気づいている。
自分の中にある感情に。
けれど……気づいたところで、どうなるわけでもない。
明日はアリア嬢とのお茶会だ。
◇◇◇
翌日のお茶会でも、アリア嬢はいつも通りだった。
中庭には柔らかな風が吹き、テーブルの上では紅茶から湯気が立ちのぼっている。
「最近、生徒会の仕事がかなり忙しそうですね」
「ああ。学園祭も近いからね」
テオドールが苦笑すると、アリアは静かに紅茶を置いた。
「そういえば、この前は仕事を代わってもらってすまなかった」
「いいえ。報告書もまとめてありますので、後でお渡しいたしますわ」
「ありがとう。助かったよ」
アリアはそこで一瞬だけ言葉を止めた。
「……殿下」
「どうした?」
「いえ……先日確認した西側の交易報告なのですが、少し気になる点がありまして」
「気になる点?」
「はい。まだ確証はありませんが……少し調べてみたいと思っています」
テオドールは軽く目を細めた。
「君がそこまで言うなら、何かあるのかもしれないな」
「念のためですわ」
そう言って微笑む彼女は、やはり優秀だった。
アリア嬢といる時間は穏やかだ。
無駄に気を遣う必要もなく、仕事を任せることにも不安がない。
本来なら、何も問題はないはずなのに。
ふと、夕陽に照らされた温室の景色が脳裏をよぎる。
「……殿下?」
「いや、すまない」
テオドールは静かに視線を伏せた。
◇◇◇
「いよいよですね。……最後ですし、同時に描きましょう」
今日で、この絵も完成する。
最後に、夕暮れの温室を眺める二人の後ろ姿を描き加えることにした。
「……できた!」
ソフィアはぱっと顔を上げ、満面の笑みをこちらへ向けた。
「王子様、ついに完成ですね」
その笑顔を見て、テオドールは静かにキャンバスへ視線を戻した。
自分にとって絵を描く時間は、ただ好きだからというより、周囲の視線を忘れていられる時間でもあった。
だからこそ、こんなにも大きな絵を最後まで描き切れたことが、不思議と嬉しかった。
ふと隣を見る。
完成した絵を見つめるソフィアの瞳には、薄く涙が滲んでいた。
思わず頬へ手を伸ばしかけて……止める。
代わりにポケットからハンカチを取り出した。
「ソフィア……これを」
彼女は少し驚いたように目を瞬かせ、それから小さく笑って受け取った。
しばらく絵を見つめた後、ソフィアはぽつりと呟く。
「王子様、この絵……私が貰ってもいいですか?」
そして少しだけ困ったように笑った。
「……ずっと、私の宝物にします」
テオドールは静かに目を細める。
「そうだな。私も、君に持っていてほしい」
そう答えてから、もう一度完成した絵を見上げた。
夕陽に染まる温室。
二人で重ねた色。
ここで過ごした時間。
「……だけど、卒業まではここに飾っておかないか」
「え……」
「その後で、改めて君に贈りたい」
◇◇◇
温室を出た後、執務室へ戻ると机の上に資料が置かれていた。
今度向かう視察地についてまとめられた報告書だ。
整った文字を見ただけで、誰が用意したのかわかる。
(アリア嬢には、本当に助けられているな)
母から婚約者が決まったと聞かされた時、テオドールは巻き込まれた相手に対して、気の毒だと思った。
王家の事情に振り回される少女。
そういう認識だった。
だが実際に会った彼女は、自分の立場を理解し、責任から逃げず、常に冷静だった。
その姿を知ってからは、以前の考えがどれほど失礼だったか思い知らされた。
(彼女は信頼できる人だ)
だからこそ……テオドールは静かに目を伏せた。
今の自分は、どうなのだろう。
この先も彼女と共に歩むのなら、隠し事などするべきではない。
まして、こんな中途半端な気持ちを抱えたままなど。
(……身勝手だ)
それでも、自分の気持ちを、正直に伝えたいと思ってしまった。
今度のお茶会で話そう。
そう決めると、不思議と少しだけ胸が軽くなった。
◇◇◇
その日も、温室には柔らかな光が差し込んでいた。
完成した絵は窓際に立てかけられ、夕陽の色を残したまま静かにそこにある。
ソフィアは少し離れた場所から、その絵を眺めていた。
「やっぱり素敵ですね」
嬉しそうに微笑む彼女を見ていると、胸の奥が静かに熱を帯びる。
この時間が好きだ。
そう認めてしまった今では、なおさら。
「王子様?」
名前を呼ばれ、テオドールは我に返る。
相変わらず彼女は自分を“王子様”と呼ぶ。
その呼び方は優しくて、けれどどこか距離がある。
彼女なりに線を引いているのだと、テオドールも気づいていた。
それでも……いつかその呼び方が変わればいいと、そんなことを思ってしまう自分がいる。
その時だった。
コンコン、と静かなノックの音が響く。
こんな場所を訪ねてくる者など珍しい。
テオドールが扉へ視線を向ける。
温室に差し込む、柔らかな陽の光を背に立っていたのは……アリア嬢だった。
「……アリア嬢?」
アリアはゆっくりと二人へ歩み寄る。
そして、穏やかな笑みを浮かべたまま口を開いた。
「殿下、ソフィア様。お二人に大切なお話がありますの」
その微笑みはいつも通り優雅で、けれどどこか、不敵だった。




