3.
「はぁ……」
思わずため息がもれた。
学園に入学して、もう一ヶ月。
王都にも学園にも、まだうまく馴染めずにいる。
人の多い廊下を避けるように歩いていると、校舎の裏に小さな温室を見つけた。
「こんな場所があったんだ……」
ガラス越しに見えた緑に、少しだけ心が惹かれる。
(気分転換に、何か描こうかな)
そう思って、ソフィアは静かに扉を開けた。
「わぁ!」
思わず小さな声が漏れた。
ガラス張りの温室には、柔らかな陽の光が差し込んでいる。
蔦は天井近くまで伸び、古びた棚や机には小さな鉢植えが無造作に並べられていた。
手入れは完璧とは言えない。けれど、その少し寂れた空気が不思議と心地よく感じる。
(雰囲気があって、なんだかいいなぁ)
中に入ると、先客がいた。
何かを書いている様子の彼の手元を覗き込み、ソフィアは思わず声を上げた。
「すごく上手ですね!」
彼は驚いたように顔を上げ、少し訝しげにこちらを見る。
けれどソフィアは気づかないまま、温室を見渡して続けた。
「でも、ここ……とても素敵ですもんね。描きたくなる気持ち、分かります」
「君は……」
彼は何か言いかけて、不思議そうに目を細めた。
(あれ、もしかして馴れ馴れしすぎたかな)
急に不安になってくる。
困ったような顔でこちらを見る彼に、どうしていいかわからなくなってしまう。
「お、お邪魔してごめんなさい!」
ソフィアは勢いよく頭を下げると、逃げるようにその場を後にした。
その日の夜、ソフィアは昼間のことを思い出していた。
(あの人、上級生かな)
王都の人は洗練されているとは思っていたけれど、あんなに綺麗な人は初めて見た。
(変な子だと思われたかもしれない)
思い出して少し恥ずかしくなる。
けれど……ふと、陽だまりのような温室の景色が脳裏に浮かんだ。
(また、会えるかな……)
◇◇◇
それから数日後の朝。
登校中、前方から聞こえてきた黄色い声にソフィアは思わず顔を上げた。
「見て、テオドール殿下とアリア様よ」
「お二人は本当にお似合いね」
「素敵だわ……」
皆が視線を向ける先を見る。
そこでソフィアは思わず目を見開いた。
(あの人……)
数日前、温室で出会った青年がそこにいた。
その隣には、銀色の髪を揺らす美しい令嬢が寄り添っている。
(綺麗な人……)
凛としていて、まるで物語の中の姫君みたいだった。
そして二人は、誰が見ても並び立つのが自然に思えるほどよく似合っていた。
(王子様だったんだ……)
その瞬間、温室で交わした何気ない会話が急に遠いものに思えた。
◇◇◇
あの日から数日、ソフィアはずっと思い悩んでいた。
彼が王子様だと知った以上、もう会いに行くようなことはしない方がいい。
頭ではそうわかっている。
でも、ただ単純にあの温室が気に入って、絵を描きたいという気持ちもあった。
(そうだよ。私は絵が描きたいだけだもん……)
それに、王子様だってあの日はたまたまいただけかもしれない。
私は心の中でそう言い訳しながら、再び温室へ向かった。
中に入ると、今日は彼の姿はなかった。
(やっぱり、ここいいなぁ)
柔らかな陽の光が差し込む温室の中を見渡しながら、私はそっと息を吐く。
蔦の絡まる古い棚。
少し色褪せた机。
静かな空気。
やっぱりこの場所は落ち着く。
私は指でフレームを作るように景色を切り取りながら、どこを描こうかとうろうろ歩き始めた。
その時、後ろから小さく笑う声が聞こえた。
振り向くと、そこには彼が立っていた。
「あっ……あの、この前は申し訳ありませんでした。王子様だと気づかず、本当に失礼なことを……」
慌てて頭を下げようとした私を、彼は軽く手を上げて制した。
「ああ、大丈夫。謝罪はいらないよ。それに、ここは学園だ。身分は気にしなくていい」
そう言って彼は温室の奥へ歩いていく。
「そういえば、この前も言っていたけど、君も絵を描くんだね。ここが気に入ったの?」
「あ……はい、そうなんです。あの……王子様はここにはよく来るのですか?」
「まあ、そうだね」
彼は奥に置かれていた小さな椅子を持ってくると、『どうぞ』と私に勧めてくれた。
「私がここに絵を描きに来たら、お邪魔ではないですか?」
「いや、別に構わないよ」
その言葉に少し安心して、私は笑みを浮かべた。
「この前描いていた絵、素敵でしたね。もっと大きなキャンバスで見てみたいと思いました」
すると彼は少し驚いたような顔をした。
「僕のは落書きみたいなものだよ。ちゃんとしたものを描いたことはないんだ」
「そうなんですか? どうして……」
「まあ、時間がなくてね」
「あっ……そうですよね。お忙しいですものね。でも、もったいないです。きっと素敵な絵になると思います」
「ありがとう」
そう言って、彼は少しだけ目を細めた。
「僕も君の描いた絵を見てみたくなったよ。……そういえば、まだ名前を聞いていなかったな」
「あっ、まだ名乗っていませんでしたね。ソフィア・ハーヴィーです」
◇◇◇
それから、週に一度、放課後に温室へ通う日が続いた。
遅くなると家族が心配するため長居はできなかったけれど、それでもその時間は私にとって特別なものになっていた。
(絵が完成するまで……)
ただそれだけの理由で通っているのだと、自分に言い聞かせながら。
王子様は相変わらず小さな手帳にスケッチを描いていたし、時々私の絵を覗き込んでは感想を口にした。
「その色、綺麗だな」
「この花、昼より夕方の方が好きかもしれません」
そんな何気ない会話を交わす時間は、不思議と心地よかった。
その日は、いつもより少し遅れて温室へ向かった。
中に入ると、彼は椅子に腰かけたまま静かに寝息を立てていた。
(疲れているのかな)
起こさないよう、私はそっと足音を忍ばせる。
でも、今日でこの絵も完成するだろう。
そうしたら、もうここへ来る理由もなくなってしまう。
胸の奥に広がった寂しさを振り払うように、私は筆を取った。
そして、ついに絵が完成した。
気づけば、外はすっかり夕暮れになっていた。
赤く染まった光がガラス越しに差し込み、温室の中をやわらかく照らしている。
昼間とはまるで違う景色だった。
蔦の影も、古びた机も、金色の光の中でどこか幻想的に見える。
(わぁ……)
思わず息を呑む。
(これも、素敵だなぁ)
それに、どうしてだろう。
なんだか泣きそうになる。
「……ソフィア嬢?」
振り向くと、いつの間にか彼が目を覚ましていた。
「すまない……眠ってしまったみたいだ。ずいぶん遅くなってしまったな」
「いいえ、気にしないでください。それより見てください」
嬉しくなって、私は両手で絵を掲げた。
「ほら、完成したんです」
ソフィアが嬉しそうに掲げた絵を見て、テオドールは静かに目を見開いた。
陽の光が差し込む温室。
柔らかな光の中で揺れる花々。
そして、その景色を見つめるように描かれた空気までもが、驚くほど丁寧に閉じ込められていた。
「……綺麗だな」
思わずそう呟く。
ソフィアは少し照れたように笑った。
「ありがとうございます。これでやっと完成しました」
その言葉に、テオドールは小さく眉を動かす。
完成した。
つまり……
「……もう、ここへは来ないのか?」
自分でも驚くほど自然に言葉が出ていた。
ソフィアは少し困ったように笑う。
「ええ……元々、この絵を完成させるまでのつもりでしたから」
明るく答えているはずなのに、どこか寂しそうだった。
温室に沈黙が落ちる。
赤い光が静かに二人を包んでいた。
ふと、以前自分が言われた言葉を思い出す。
『もっと大きなキャンバスで見てみたいと思いました』
気づけば、口が動いていた。
「……なら、今度は一緒に描かないか?」
「えっ……」
ソフィアが目を丸くする。
「僕も……ちゃんと描いてみたくなったんだ。だから、その……手伝ってほしい」
言った後になって、自分でもなぜそんなことを口にしたのかわからなかった。
ただ……この時間が終わってしまうことが、少し惜しいと思ったのだ。




