10.
その日、ブランベル公爵家では、あの日と同じようにお茶会が開かれていた。
柔らかな陽射し。
静かに香る紅茶。
けれど、あの時のような張り詰めた空気はもうない。
「殿下、ソフィア様。あの時、私の提案を受け入れてくださって……」
「待ってくれ」
アリアの言葉を、テオドールが遮った。
「礼を言うべきなのは、こちらの方だ」
「いいえ、殿下」
二人が譲らないまま見つめ合っていると……くすくす、と小さな笑い声が聞こえた。
見ると、ソフィアがどこかおかしそうに笑っている。
その表情につられるように、アリアも柔らかく微笑んだ。
「……ふふ、やめましょうか」
ティーカップをそっと置く。
「今日はお祝いのお茶会ですもの」
穏やかな時間が流れる。
あの日と同じ部屋。
けれど、そこにいる三人の関係は、あの頃とは少し違っていた。
「それにしても、卒業式の前に終わらせることができて本当に良かったですわ」
「ああ……そうだな。もう卒業か」
テオドールが静かに呟く。
「お二人は、この後どうされるのですか?」
会話は尽きない。
窓の外では、柔らかな春風が青い花を揺らしていた。
ホルスト公爵の不正が明るみに出たことで、長く続いていた王位継承争いは大きく揺れることとなった。
卒業前夜会での婚約破棄騒動もまた、公爵を動かすための芝居だったと公表され、テオドールの名誉は回復している。
もっとも、突然の発表に社交界が大混乱になったことは言うまでもない。
◇◇◇
そして迎えた卒業式当日。
空はどこまでも青く澄み渡っていた。
春の柔らかな風が花々を揺らし、卒業を祝う鐘の音が学園中へ響いている。
未来を祝福する、晴れの日。
多くの生徒たちが笑顔を浮かべる中、テオドールは静かに前へ進み出た。
会場の視線が集まる。
彼はゆっくりと周囲を見渡し、そして落ち着いた声で告げた。
「私は、本日をもって王位継承権を放棄します」
会場がどよめく。
けれど、テオドールの表情はどこまでも穏やかだった。
「元より私は、王になりたいと思ったことはありません。ですが、この国の王族として果たすべき責任だけは、最後まで果たしたかった」
静かな声が講堂へ響く。
「……ようやく、自分で自分の道を選べそうです」
その言葉に、ざわめきは少しずつ静まっていった。
アリアはそんなテオドールの姿を静かに見つめていた。
あの日、お茶会で見せた迷い。
温室で穏やかに笑っていた姿。
そして今、自らの意思で前へ進もうとしている姿。
(本当に強くなられましたのね、殿下)
胸の奥が少しだけ温かくなる。
アリアは誰にも気づかれないほど小さく微笑み、誇らしげに彼を見つめていた。
◇◇◇
ガラス張りの温室には、柔らかな陽の光が差し込んでいる。
蔦は天井近くまで伸び、古びた棚や机には小さな鉢植えが無造作に並べられていた。
ソフィアは、初めてここへ来た日のことを思い出していた。
あの時は、まさか王子様だなんて思ってもいなかった。
ふふっと小さく笑みが零れる。
「ソフィア」
遅れてやってきたテオドールが、優しく名前を呼んだ。
「テオドール様」
振り向いたソフィアは、柔らかく微笑む。
二人はしばらく、いつものように他愛のない話を楽しんでいた。
穏やかで、静かな時間。
けれど不意に、テオドールが真剣な表情になる。
「ソフィア」
「はい」
「事件の処理がまだ残っていて……しばらくは忙しい日々が続きそうなんだ」
ソフィアは小さく頷いた。
テオドールは少しだけ迷うように目を伏せ、そして真っ直ぐ彼女を見つめる。
「だけど、必ず君を迎えに行く」
静かな声だった。
「待っていてくれないか」
「……はい」
ソフィアの瞳に涙が浮かぶ。
それを見たテオドールは、今度は迷わずそっと手を伸ばした。
優しく頬へ触れる。
二人はしばらく見つめ合っていた。
やがてテオドールが、ふと思い出したように口を開く。
「そうだ、これを」
手を伸ばした先にあるのは、二人で描いた絵だった。
「君へ初めて贈るものが、この絵で良かったと思うんだ」
ソフィアは大切そうに絵を抱きしめる。
「私も嬉しいです。ありがとうございます、テオドール様」
するとテオドールは、少しだけ拗ねたように眉を下げた。
「……“様”はいらないんだけどな」
ソフィアは目を丸くする。
けれど次の瞬間、くすくすと笑い出した。
そして少し照れたように視線を逸らしながら。
「ありがとう、テオドール」
そう呼ばれて、テオドールは静かに目を細める。
温室の外では、陽がゆっくりと落ち始めていた。
赤く染まり始めた空が、二人を優しく包み込んでいた。
◇◇◇
その日の夕食は、久しぶりに家族全員が揃っていた。
穏やかな食卓。
けれど不意に、父が静かに口を開く。
「アリア、お前には苦労をかけたな」
アリアは目を瞬かせた。
父がこうして素直に言葉にするのは珍しい。
「……お父様」
「もういいじゃありませんか」
柔らかな声で微笑んだのは母だった。
「今回の件、本当に驚いたわ。だけど……よく頑張ったわね、アリア」
その言葉に、隣に座る弟も嬉しそうに身を乗り出す。
「そうです! 姉上は昔からすごいんです!」
どこか自慢げな様子に、思わずアリアは笑ってしまう。
父も母も、そんな二人を見ながら誇らしげに目を細めていた。
翌朝。
屋敷の前には、見送りのため家族が集まっていた。
「兄によろしく伝えてちょうだい」
母が優しく微笑む。
「ええ、お母様」
アリアも静かに頷いた。
「お願いを聞いてくださってありがとうございます」
「ふふ、任せておきなさい」
母はどこか楽しそうだった。
その隣で、弟は何か言いたげにしながらも、なかなか口を開けずにいる。
そんな姿を見て、アリアは優しく微笑んだ。
「しっかりね」
そっと弟の頭に手を置く。
「お父様とお母様のことお願いね」
弟は少し寂しそうにしながらも、力強く頷いた。
家族へ別れを告げていると、フィデルが迎えにやってきた。
「アリア様」
「ええ、行きましょう」
アリアは静かに頷く。
そして最後にもう一度だけ振り返り、公爵邸を見つめた。
長い間過ごした、大切な場所。
けれど不思議と、後悔はなかった。
踵を返し、歩き始める。
「向こうへ着いたら、最初に行きたい場所があるの」
その言葉に、フィデルはどこか察したように小さく笑った。
◇◇◇
「お前でもそんな風になることがあるんだな」
からかうような声に、ライアンは眉を寄せた。
「別に、いつも通りですが」
「そういうことにしておいてやる」
呆れたように上司が肩を竦める。
「今日はもう帰れ。どうせ仕事も手につかないんだろう」
ライアンは小さく息を吐き、そして珍しく素直に頭を下げた。
「……失礼します」
足早に部屋を後にする。
馬車を降りたライアンは、側にいた従者へ静かに告げた。
「ここからは一人で行く」
風が、さらりと髪を揺らす。
ゆっくりと丘を登っていく。
やがて見えてきたのは、大きな木。
そして……その下に広がる、青い花畑だった。
視線の先に、愛しい人の姿がある。
ふと、子供の頃のアリアが脳裏を過った。
無邪気に笑っていた、小さな少女。
思わず声が零れる。
「リア!」
その声に、アリアが振り返る。
光がきらきらと反射する中、アリアは嬉しそうに微笑んだ。
ライアンの目が静かに細められる。
「リア……おかえり」
「……ただいま」
その瞬間、アリアが弾けるように笑った。
子供の頃と変わらない。
僕の大好きな笑顔だった。
——完——




