おじさん、スカウトされる
約束の時間より十分早く、俺はダンジョンのゲート前に着いていた。
二月の午後二時。日差しはあるのに、空気は乾いている。
風は冷たくもないが、優しくもない。
ベンチに腰を下ろして、呼吸を整えるふりをしながら、視線だけで周囲を一周した。
ゲート、受付、警備員、出入りする冒険者。
いつも通りの顔ぶれを順に確認して、最後に監視カメラへ視線を滑らせる。
目立たない位置に、目立たない顔で、ちゃんといる。
ああいうのは、見えていないふりをした瞬間に見られている側になる。
桐島は何を話しに来るのか。
「良い話」だと言っていた。
ダンジョン管理局の人間が持ってくる良い話。
それが俺にとって良いとは限らない。
向こうの良いは、こっちの腹事情とは別の場所で決まる。
逃げ道を作るな。逃げ道があると、人は逃げる。
逃げたら追われる。追われたら、今より面倒になる。
――だから、来た。
ぼんやり座っているようで、頭の中だけが忙しい。
そんな時、視界の端に影が差した。
スーツ姿。桐島だ。
ここでスーツは浮くはずなのに、本人だけは「自分が正しい場所にいる」という顔をしている。
「お待たせしました」
無表情は前回と同じ。
けれど今日は、目が違う。観察の目じゃない。手続きを進める目だ。
事務と営業の中間みたいな、嫌な慣れがある。
「時間通りだな」
「約束は守る主義なので」
桐島はベンチの隣に腰を下ろした。スーツが皺になるのを気にする様子もない。
身なりより、“目的”だけが大事なんだろう。こういう人間は。
「で、話というのは?」
回りくどいのは嫌いだ。
それが伝わったのか、桐島は小さく頷いた。
「ええ。本題に入りましょう」
内ポケットから封筒を取り出す。封筒の角が妙にきちんとしている。
何度も出し入れされた紙の角じゃない。つまり今日のために用意したものだ。
嫌な予感は、だいたい当たる。
「これを」
受け取って中を見る。書類が数枚。
視線が止まった。
「……これは」
「冒険者免許の取得申請書です。必要事項はこちらで記入済み。あなたは署名するだけで結構です」
冒険者免許。
ゲートの機械に通すためのカード。
持っていない人間は、どれだけ正しいことを言っても、まずそうじゃない側に振り分けられる。
社会ってのは、そういう仕組みだ。
「なぜ、こんなものを」
「管理局として、あなたに正式な免許を取得していただきたいのです」
「金がないと言っただろう。講習費も試験費も――」
「すべて免除します」
「……は?」
声が出た。
桐島は表情ひとつ変えずに続ける。
「特例措置です。局長決裁で、事情がある者には費用を免除できます」
事情。
人間を箱に入れる時の言い方だ。
「その事情ってのは何だ」
「あなたのことです」
桐島は、ほんの少しだけ口角を上げた。
笑顔というより、答え合わせみたいな形。
「荒谷雅貴さん。十年前に失踪届が出され、七年前に死亡宣告が出た方ですね」
心臓が跳ねて、それから腹の底へ沈む。
名前を呼ばれるだけで、体が勝手に固くなる。
「……調べたのか」
「当然です。無免許でダンジョンに出入りする人物を、放置するわけにはいきません」
責めるでもなく脅すでもない。ただ事務の声。だから余計に怖い。
怖いのは、感情じゃなく仕組みのほうだ。
「ただ、調べても分からないことがありました」
桐島が俺を見る。
「十年間、あなたはどこにいたのですか?」
どこにいた。
異世界。アルセイバル。勇者。魔王。十年。
言葉にした瞬間、全部が軽く聞こえる。馬鹿みたいだ。
――でも俺の十年はそれしかない。
「信じてもらえないだろうが」
「試しに言ってみてください」
からかいはない。
真剣な目だ。真剣なまま、人を追い詰める目。
「異世界だ」
「異世界」
「ああ。アルセイバルって世界に召喚された。勇者として魔王を討って、十年。戻ってきたら、こっちの俺は死んだことになってた」
息を吐く。
嘘じゃないのに、嘘みたいだ。言うたびに、自分の十年が薄くなる気がする。
――なのに。
桐島は笑わなかった。
「……なるほど」
「信じるのか?」
「信じるも何も。ダンジョンが出現したんですよ。中は漫画みたいなモンスターが溢れていて、異世界があっても不思議ではありません」
拍子抜けするほど、あっさり。
肩透かしを食らって、逆に身構え直す。
「それに、あなたの動きは常人離れしています。判断の速さ、落ち着き、言葉の選び方。……経験が見えます」
「カメラワークまで言うのか」
「褒めてはいません。観測です」
腹が立つ言い方だが、嘘は感じない。
「異世界で戦っていたなら、納得がいきます」
桐島は封筒を軽く叩いた。
「だからこそ、免許を取ってもらいたい」
「なぜだ」
「簡単です。あなたにこちらが管理できる枠に入ってもらいたい」
枠に入れたいのか。行政はすぐ枠を作りたがる。
作って、名前をつけて、それで安心する。
枠の外にいる奴は、いつまでも例外のままだ。
「ダンジョン配信で培った知名度。独自の戦術。カメラマンとしての技術。――それらを、もっと大きな形で活かしてほしいのです」
「大きな形?」
「育成です。若い冒険者の指導」
指導。つまり管理局の側へ寄せたい。
囲って、監督して、扱いやすくする。
「……断る」
口をついて出かけて、俺は半歩だけ飲み込んだ。
「断りたいところだ」
「ところだで止めたのは進歩です」
こいつ。
軽口なのか本気なのか、いつも判別がつかない。
「俺にはあの子たちとの撮影がある。余計なことをする余裕はない」
「配信活動は続けていただいて構いません。むしろ、続けてください。管理局としても配信の普及は推進しています」
「なら、なおさら俺に絡む理由が薄いだろ」
桐島は少し間を置いてから、言葉を選ばずに落とした。
「あなたを把握したいのです」
監視と言わない。言わないだけで、意味は同じだ。
「正直に申し上げます。異世界帰還者は未知数です。能力も精神状態も価値観も分からない。分からないものは、事故を起こす前に把握する」
「……正直だな」
「あなたは回りくどい言い方を嫌う」
当たっているから、反論できない。
「免許を取得すれば、あなたは正式に活動できます。収入を作れる。生活が安定する可能性も上がる」
可能性。
夢を売らない言い方は現実の人間だということだ。
「条件は、定期的な報告です。活動内容と体調。異常の有無。――言い方を変えるなら、定期健診みたいなものです」
「健診で免許を取り消すのか」
「サボれば、取り消しです」
健診の圧が強い。
「報告を怠ったら、それだけ?」
「それだけです。拘束もしません。研究所にも連れていきません」
「信じろ、と?」
「信じてください、とは言いません。――ただ、現状よりはマシです」
それは確かに、そうだ。
今の俺は“無免許の不審者”として目に引っかかっている。枠に入ったほうが、動きやすくなる――かもしれない。
俺は署名欄を見た。白い余白が、妙に目に刺さる。
「……考えさせてくれ」
「もちろんです。期限は設けません。ただ、早いほうがあなたの生活は安定する」
桐島は立ち上がる。
「書類はお預けします。署名して、管理局に持ってきてください。それで免許は発行されます」
「……分かった」
「では。良いお返事を」
桐島は軽く頭を下げて去っていった。歩き方まで無駄がない。腹が立つくらいに。
俺は封筒を手に、しばらくベンチに座っていた。
免許。
身分。収入。
“死んだことになっていた俺”が、紙一枚で戻ってくる。
魅力的だ。魅力的すぎて、怖い。
だが、ここまで来た以上、避け続けても意味がない。
迷うなら、相談するしかない。
俺はスマホを取り出した。
――もちろん、この場で繋がるわけがない。SIMは死んでいる。
ため息をひとつ。
立ち上がって、コンビニへ向かった。
□
コンビニのイートイン。Wi-Fiに繋ぐ。
世界が戻ってくる感じがするのが、少し嫌だ。
通話アプリを開いて、悠にかけた。
「免許!? マジで!?」
いきなり大声。耳が痛い。
「ああ。ただし条件付きだ」
「条件って?」
「定期報告。要するに、把握される」
「うわ……監視じゃん」
「向こうは健診って言ってた」
「健診で免許取り消しとか、最悪の病院じゃん」
その例えに、危うく笑うところだった。
こういう瞬間、場が軽くなる。腹が立つくらい、救われる。
「大丈夫なの? おじさん、何か隠してることあるんでしょ?」
鋭い。
鋭いくせに、怖がってはいない。そこが一番怖い。
「……ある」
「なら、教えて」
「ある――が、今は言えない」
「なんじゃそりゃ!
向こうでズッコケる音がした。
いや、気のせいかもしれない。
スマホの向こう側から、重々しいような、呆れたようなため息が聞こえる。
「……で、免許の話だけど」
悠が急に真面目になる。
「私は取ったほうがいいと思う。今もう管理局に把握されてるんでしょ? なら、無免許で目立つほうが危ないよ」
正論。悔しいくらい。
「それに、免許取ったら、おじさんも正式に入れるじゃん。今まで“謎のおじさんカメラマン”だったけど、これからは謎のおじさん冒険者になれる!」
「謎を外せ」
「無理! 視聴者が許さない!」
視聴者の権力が強い。
「……考えておく」
「うん。でも一人で抱え込まないで。困ったら言って。チームなんだから」
またそれだ。
腹が立つほど真っ直ぐだ。
「……分かった」
通話が切れた。
俺は封筒を取り出した。
署名欄にペン先を置いて、一度だけ止まる。
荒谷雅貴。
この世界で死んだことになっていた名前。
それを今、公式の紙に書く。線の内側に入る。
――そんな大げさなことを、たった一行でやる。
俺は署名した。
□
手続きは拍子抜けするほど簡単だった。
書類提出。面談。写真。
講習も試験も免除。
桐島の言った通り。簡単すぎて、逆に落とし穴を探してしまう。
探してしまう時点で、もう俺はこの世界に馴染めていない。
免許証を受け取った時、不思議な気持ちになった。
薄いプラスチック。名前。顔写真。ICチップ。
これ一枚で、ゲートの機械が俺を通す。
今まで俺は、同じ場所に立っていても弾かれる側だった。
――いや、そもそも通してもらう資格がなかった。
カードは軽い。
でも、軽いものほど、人生は重く変わる。
□
夕方、悠たちと合流した。
いつもの撮影前の顔合わせだ。
「おじさん、免許取れたんだって!?」
「ああ」
免許証を見せると、三人が寄ってくる。
「見せて見せて!」
悠がひったくるみたいに取って、まじまじと読む。
「荒谷雅貴……二十八歳……って、おじさん本当に二十八だったんだ」
「何度も言っただろう」
「だって“おじさん”って呼んでるし!」
「呼んでるのはお前らだ」
朱音が笑う。
「二十八でおじさんは酷いよね。じゃあ今日から“あらやさん”で」
「やめろ。距離が急におかしくなる」
涼子が小さく笑った。
その笑い方が、妙に安心する。騒がしさの中に、ちゃんと“普通”が混ざっている。
「でも、これで正式な仲間だね!」
悠が免許証を返しながら言う。
「今までは荷物持ちだったけど、これからは冒険者として一緒に戦える!」
「戦うかどうかは――」
「戦ってよ!」
朱音が即座に被せる。
「おじさんの戦闘シーン、絶対バズるって! 謎のおじさん、実は激強は鉄板!」
「鉄板って言うな」
「鉄板は強いんだよ! 焼肉も鉄板だし!」
「理屈が雑すぎる」
涼子が、少しだけためらってから言った。
「……私も。おじさんが戦うところ、見てみたいです」
三対一。
この構図、何度目だ。
「……一回だけだぞ」
「よっしゃ!」
悠がガッツポーズをする。
その勢いで自分のリュックに手が当たってバランスを崩し、朱音に「危なっ」と支えられている。――相変わらずだ。
「じゃあ今日の目標は――おじさんの戦闘デビュー!」
戦闘デビュー。
十年戦ってきた人間に向かって言う言葉じゃない。
でも、この世界では確かに初陣だ。
俺は免許証をポケットにしまった。
薄いカードが、やけに存在感を主張してくる。
重いのはカードじゃない。
そこに乗る“これから”だ。
「……行くぞ」
「はーい!」
三人の返事が、やけに元気だ。
その元気に、少しだけ救われる。
綱渡りは続く。
ただ――今日は、足元にほんの少しだけ“幅”ができた気がした。
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