勇者、カメラマンになる
公園のベンチで目を覚ますのは、これで三日目になる。
俺の名前は荒谷雅貴、二十八歳——いや、戸籍がどうなっているかは分からない。
十年前に失踪届が出されていれば、もう死亡扱いになっていてもおかしくない。
届けを出す人間がいれば、の話だが。
十年前、俺は異世界に召喚された。
理由は単純で、魔王を倒すためだ。
勇者として戦い、仲間を得て、何度も死にかけて、それでも諦めずに剣を振るい続けた。
そしてつい先日、ようやく魔王を討伐し、この世界に帰還した。
――帰還した、のだが。
「寒ぃ……」
一月の夜風が、容赦なく体温を削っていく。
異世界で関わった精霊たちが気まぐれに降臨しないかと祈ってみても、いつまでたっても空気は冷たいままだ。
……届く範囲に居ないのだろう。あいつらはいつも都合のいいときだけ現れる。
俺の城——築五十五年、トイレ共同、風呂なしの素晴らしきオンボロアパートは、巨大なダンジョンの敷地内に飲み込まれていた。
周辺一帯の民家も、駄菓子屋も、よく立ち読みをしていた本屋も、すべてが金属の壁と重厚なゲートの向こう側に消えている。
家賃二万三千円。田舎から出てきたばかりの文無しの俺が借りられる、最高の城だった。
あの六畳一間が、もうこの世界のどこにも存在しない。
実家に連絡を取ろうにも、スマホは異世界で魔王城の床に叩きつけて壊した。
怒りに任せて関係のないところで八つ当たりをするのはみっともないと分かってはいたが、あの時は限界だったのだ。
公衆電話を探す気力もなければ、そもそも金がない。
身分証もない。
銀行口座が生きているかすら怪しい。
社会との接点が、何ひとつ残っていなかった。
詰んでいる。
完全に、詰んでいる。
「勇者がホームレスって、笑えねぇ……」
魔王を倒した右手で、自分の体を抱きしめる。
この手で何百体ものモンスターを屠り、魔王の首を落とした。
その同じ手が、今は自分の体温を逃がすまいと必死にしがみついている。
星空を見上げた。見慣れた星座がそこにある。
北斗七星、オリオン座、冬の大三角。
異世界の夜空にはなかった光の配置が、確かに頭上に広がっていた。
帰ってきたんだ。確かに。
でも帰る場所が、もうない。
□
翌朝、近くの広場で炊き出しをやっていると聞いて足を運んだ。
教えてくれたのは三澤さんという五十代の男性で、この公園近くの橋の下に段ボールで居を構えている先輩ホームレスだ。
異世界帰りとは言えないので、ダンジョンに挑もうと上京したが失敗続きで文無しになった若者——という設定で通している。
三澤さんも似たような経歴らしく、同じ境遇の俺を気にかけてくれているのだ。
広場に着くと、年配の男女に混じって若い子たちが配膳の準備をしていた。
湯気を立てる大鍋、積み上げられた使い捨て容器、手際よく動くボランティアたち。
この光景を見ると、異世界でも似たようなことをやっていたのを思い出す。
あの時は配る側だった。……まさか自分が、受け取る側に回るとは。
「見ろ、あそこ」
三澤さんが顎で指した先に、三人の女子高生がいた。
ボランティアの中でもひときわ目立つ存在だ。
制服ではなく私服だが、どう見ても高校生くらいの年齢で、しかも全員がどこか垢抜けている。
化粧なのか、立ち居振る舞いなのか、俺には判別がつかない。
とにかく「見られること」に慣れている雰囲気があった。
「あの子たち、冒険者なんだ。ダンジョンで稼いだ金で、こうして寄付をしてる」
「へぇ」
「配信で有名になってきてるらしい。再生数がどうとか、登録者がどうとか。俺にはよく分からんが、若いのに大したもんだよ」
配信。再生数。登録者。
十年のブランクがある俺でも、なんとなく意味は分かる。
冒険者がダンジョンに潜る様子を撮影して、ネットに動画を上げる。視聴者が増えれば広告収入が入り、それが彼女たちの収益になる。
モンスターを倒して得た魔石を売るだけでなく、その過程そのものを商品にしているわけだ。
この世界らしいやり方だと思った。
「俺らみたいなのに飯を配れるってことは、相当稼いでんだろうな」
三澤さんの声には、羨望と諦めが絶妙な配分で混じっていた。
俺には痛いほどその気持ちが分かる。
俺がいない十年の間に、この国は様変わりしていた。
ダンジョンは国が管理し、中に潜るには免許が必要で、冒険者たちは冒険者ギルドが一括で面倒を見ている。
異世界と似たようなシステムだ。
分け隔てなく誰でも挑めた昔とは違い、体が成長した年齢を基準に適性検査を受け、合格した者だけが免許を取得できる仕組みになっているらしい。
そして俺は——免許を持っていない。
異世界で何百体ものモンスターを屠ってきた勇者が、この世界ではダンジョンに入ることすら許されない。なんという皮肉だろうか。
「免許を取るには金がいる。試験を受けるにも、講習に通うにも。でも金を稼ぐにはダンジョンに潜って魔石を集めるのが一番手っ取り早い。そしてダンジョンに潜るには免許が必要ときた」
「詰んでるな」
「あぁ、詰んでる。俺たちみたいなのは、ここでこうして炊き出しをもらいながら、日銭を稼いで細々と生きていくしかねぇんだ」
二人して空を見上げた。雲ひとつない冬の青空が広がっている。清々しいはずの光景が、今の俺たちにはやけに憎たらしく映った。
□
炊き出しの列に並び、温かいおにぎりと豚汁を受け取った。
口に入れた瞬間、体の芯から温まっていくのが分かる。
異世界でどれだけ美味いものを食べてきたか分からないが、この瞬間だけは、この世界に帰ってきて良かったと素直に思えた。
情けないくらい、素直に。
ベンチに座って黙々と食べていると、影が差した。
顔を上げると、女子高生の一人が立っていた。
茶色いセミロングの髪を揺らし、明るい目元でこちらを見下ろしている。
さっき三澤さんが指差していた三人組の一人だ。近くで見ると、愛嬌のある顔立ちをしている。
「あの、すみません。アンケートに答えてもらえませんか?」
「あぁ、いいよ」
断る理由もない。
暇を持て余していたし、炊き出しを受けた身としては、これくらいの協力は当然だろう。
差し出されたバインダーを受け取り、ペンを走らせ始めた。
名前、年齢。住所は「なし」と書くわけにもいかないので、適当に公園の名前を書いておく。
そのあとに簡単な質問がいくつか続いていた。
三問目に差し掛かったところで、手が止まった。
質問の文字が滲んでいる。
いや、滲んでいるのではない。
文字の下に、別の文字列が透けて見えていた。
見覚えのある古代語の羅列。
魔力を帯びた特殊なインクで記された術式だ。
魔力適性を測る判定式。
異世界でも似たような仕掛けを見たことがある。
相手に悟られないよう、普通の質問に偽装して魔力の有無を判定する古典的な手法だ。
精度は低いが、大量に配布して広く網をかけるには向いている。
向こうでは冒険者ギルドの入団試験の前段階として使われていたが、ここでも同じようなものが流通しているらしい。
——誰がこんなものを用意した?
女子高生の手作りとは思えない。
どこかから仕入れたのか、それとも誰かに渡されたのか。
背筋に冷たいものが走った。
勇者召喚は国家機密だったはずだ。
ダンジョンができているということは、勇者に関する情報が日本にもある可能性がある。
監視の目が、すでに俺に向けられている可能性がある。
この術式入りのアンケートは、帰還した勇者を探すための網なのか?
それとも——ただの偶然か?
分からない。だが、ここで不審な動きを見せるわけにはいかない。
俺は何食わぬ顔でアンケートを書き終え、女子高生にバインダーを返した。
「ありがとうございます」
彼女はにっこりと笑ってぺこりと頭を下げると、軽い足取りで仲間のもとへ戻っていった。
三人で何やら相談している。
こちらを見る視線。
紙面を覗き込んで、驚いた表情。
小さく歓声を上げて、興奮した様子で肩を叩き合っている。
——どうやら、純粋に魔力持ちを探していただけらしい。
俺の数値が高かったのだろう。それはそうだ。
十年間、異世界の最前線で勇者をやっていた男だ。
この国の一般人と比べれば、桁が二つか三つは違うはずだ。
考えすぎだったのかもしれない。
あの術式は、きっと冒険者を志望する若者を見つけるために誰かが開発したもので、それがボランティア団体に流れてきただけなのだろう。
だが、油断はできない。
俺は炊き出しの残りを口に放り込みながら、三人組の様子を視界の端で追い続けた。
□
答えは翌日、やってきた。
「おじさん、起きてる?」
公園のベンチで横になっていた俺の顔を、誰かが覗き込んでいた。
逆光で顔がよく見えないが、声は若い。
昨日の炊き出しで見た女子高生と同じくらいの年齢だろうか。
「……おじさん?」
俺はまだ二十八だ。どこがおじさんだ。
異世界では若手のホープとして期待されていた時期もあったというのに、帰ってきた途端におじさん呼ばわりとは心外にもほどがある。
体を起こして目を擦ると、昨日アンケートを持ってきた女子高生が立っていた。
茶色いセミロングの髪、明るい目元、愛嬌のある顔立ち。間違いない。
「あ、生きてた。よかったー」
失礼な子だ。生きているに決まっているだろう。
寝転がっている人間と死体の違いくらい、見れば分かるはずだ。
後ろには残りの二人も控えていた。
グレーのメッシュが入ったショートウルフに、ダメージジーンズを合わせた活発そうな子。
こちらは目つきが鋭く、どこか挑戦的な雰囲気がある。
もう一人はおさげ髪に、ふわふわした可愛らしい服を着た大人しそうな子。
対照的な二人だが、どちらも昨日と同じ面々だ。
「スカウトしに来たの」
セミロングの子が、単刀直入に切り出した。
「スカウト?」
「うん。おじさん、魔力あるでしょ。昨日のアンケート、見たことないくらいすっごい数値だったんだよね」
やはり、あの術式か。
俺の魔力量を測定して、それで興味を持ったというわけだ。
政府の監視云々は、どうやら杞憂だったらしい……と思いたい。
「今まで何人にも声かけてきたんだけどさ、反応があっても微々たるもので。でもおじさんのは桁が違ったの。こんな人がいるんだって、三人でびっくりしちゃって」
まぁ、そうだろうな。
こちとら十年間、最前線で勇者をやっていたのだ。
魔力量なら、この国の誰にも負けない自信がある。
問題は、それをどこまで隠し通せるかだ。
「それで、スカウトってのは何の話だ?」
「私たち、ダンジョン配信やってて。カメラマンが足りないの」
「カメラマン」
「そう。三人で配信してるんだけどさ、そうすると誰かがカメラ持たなきゃいけないでしょ? そうすると全員では映れないし、戦闘中はカメラなんか構えてる余裕ないし。かといって固定で置いとくと画角が単調になるし、臨場感も出ないし」
なるほど、配信者としては切実な問題だ。
視聴者を飽きさせないためには、映像に変化が必要だ。
しかし三人しかいなければ、誰かが撮影役に回らざるを得ない。
戦闘員を減らすか、映像のクオリティを落とすか。二者択一を迫られる。
「でも素人を連れてくと足手まといになるから、ある程度戦えるカメラマンが欲しかったの。いざという時に自分の身くらいは守れる人。今まで何人も声かけたけど、魔力の数値が低かったり、雰囲気が合わなかったりで全然ダメで」
「それで俺に白羽の矢が立ったと」
「そゆこと。おじさんの数値、ダントツだったんだもん」
セミロングの子がにっこりと笑った。
屈託のない笑顔だ。
裏表がないというか、思ったことがそのまま表情に出るタイプなのだろう。
悪い話ではない。
ダンジョンに入れるなら、金を稼ぐ手段が広がる。
免許取得のための資金を貯められるかもしれない。
「でも俺、免許持ってないぞ」
「あぁ、それは大丈夫。荷物持ちとして登録すれば入れるよ。免許持ちの冒険者と一緒に入るなら、同行者として認められるから」
抜け道があるのか。
日本という国は、規制を作る一方で必ず抜け道も用意する。
良くも悪くも、融通が利く国だ。
「報酬は?」
「魔石の取り分、四等分でどう?」
女子高生三人と、ホームレスの男一人で四等分。
彼女たちの取り分が減ることになるが、それでも構わないということか。
カメラマンの価値を、それだけ高く見積もっているのだろう。
「配信の収益は?」
「それは……、私たちのチャンネルだから……」
言いよどむ。
まぁ、そうだ。自分たちが顔を出して、リスクを負って、ファンを獲得してきたのだ。
その収益を分けろというのは虫が良すぎる。
「なら、編集を俺に任せろ」
三人の目が丸くなった。
「編集?」
「動画を撮るだけじゃなく、撮った素材を切って繋いで、一本の作品に仕上げる。それを俺にやらせてくれ」
「え、おじさん、編集できるの?」
「できる」
異世界に行く前、友人がやっていたバンドのPVを作ったことがある。
見様見真似の素人仕事だったが、メンバーからは好評だった。
あれから十年経って、技術も環境も変わっているだろうが、やることの本質は同じはずだ。
それに、俺には十年間の戦闘経験がある。
「戦いには流れがある。観客が息を呑む瞬間、手に汗握る間合い、感情が爆発するタイミング。そういうのを俺は体で分かってる」
三人が顔を見合わせた。
「戦闘は撮る。だが、魅せるのは俺がやる」
言い切った。
ショートウルフの子——活発そうな方——が、ふっと笑った。
「面白いこと言うね、おじさん」
セミロングの子も、にやりと口角を上げる。
「いいよ。編集、任せる。その代わり、数字が落ちたらクビだからね」
「上等だ」
胸の奥が、少しだけ熱くなった。久しぶりに“勝負”の匂いがする。
「じゃあ決まり!」
セミロングの子が、ぱんっと手を叩いた。
「改めまして、私は羽衣悠。悠でいいよ」
手を差し出してきた。細い指、手入れされた爪。握り返すと、意外にしっかりした握力が返ってきた。剣を振っている手だ。
「荒谷雅貴」
「私は岸波朱音」
ショートウルフの子が名乗る。
握手は求めてこなかったが、代わりに品定めするような視線を向けてきた。
まだ信用していない、という目だ。
「舘山寺涼子です」
おさげの子が小さく頭を下げた。
声も仕草も控えめだが、俺と目が合った瞬間、すっと視線を逸らさなかった。
芯のある子だ。
「ところで」
俺は三人の顔を見回した。
「『おじさん』は勘弁してくれないか。俺、まだ二十八なんだが」
三人は顔を見合わせて、それから声を揃えて笑った。
何がおかしいのか分からないが、どうやらツボに入ったらしい。
「えー、でもさ、『おじさん』の方がキャラ立つと思うんだよね」
悠が言った。
「は?」
「配信的にさ。『謎のおじさんカメラマン』って、ちょっと気にならない? 顔出しNGで、声だけ時々入る凄腕のカメラマン。通称おじさん。ミステリアスでいいじゃん」
「いや、俺は——」
「コメント欄で『おじさん乙』とか流れたら、絶対キャッチーだって」
朱音が乗っかってきた。
「視聴者さんって、そういう内輪ネタ好きですよ。『今日もおじさん安定』とか『おじさんの編集神』とか、そういうのが定着したら強いと思います」
涼子まで。
三対一。勝ち目がない。
俺は深々とため息をついた。
「……好きにしろ」
「やったー! じゃあ今日から、おじさんはウチのチームの『おじさん』ね!」
悠が両手を挙げて喜んでいる。朱音はニヤニヤと笑い、涼子は小さくガッツポーズをしていた。
こうして俺は、「おじさん」という不本意なあだ名を背負うことになった。
元勇者、現おじさん。
肩書きとしては最悪だが、文句を言える立場でもない。
□
その日の午後、俺たちはダンジョンへ向かった。
入り口は、かつて俺のアパートがあった場所にそびえている。
重厚な金属製のゲート、武装した警備員、手続きのための受付窓口。
物々しい雰囲気だが、行き交う人々の表情は意外と緊張感がない。
日常の一部として、ダンジョンがこの社会に組み込まれているのだろう。
受付で荷物持ちとして登録する。
名前と、簡単な身体検査。身分証の提示は求められなかった。
ダンジョン関連は特例が多く、身元が曖昧な人間でも比較的簡単に登録できるらしい。
助かった、というのが正直な感想だ。
俺の存在は、今のところ誰にも気づかれていないようだ。
このまま静かに金を稼いで、生活基盤を整えられれば——。
「おじさん、装備は?」
悠の声で、思考が中断された。
「このままでいい」
ヨレヨレの平民服のまま、俺は悠から渡されたカメラを構えた。
見た目はただのデジタルカメラだが、手に持つとずっしりとした重みがある。
ダンジョン内での使用を想定して、衝撃に強い設計になっているのだろう。
「戦うつもりはない。今日は様子見だ」
「りょーかい。でも何かあったら、自分の身は自分で守ってね」
「言われなくても」
ゲートをくぐる。
視界が一瞬、暗転した。
空間が歪む感覚。異世界への転移を思い出して、心臓が跳ねる。
……嫌な汗が背中に滲む。
次の瞬間、目の前に広がっていたのは——薄暗い洞窟だった。
湿った空気。岩壁を這う苔が淡い光を放っている。
遠くから水滴が落ちる音が、静かに響いていた。
——懐かしい。
異世界のダンジョンと、空気が似ている。
モンスターの気配も、魔力の流れも、嫌というほど覚えのあるものだ。
体が自然と臨戦態勢に入るのを感じる。
「じゃあ、撮影始めるよー」
悠が明るい声を上げた。
俺の内心など知る由もなく、彼女はカメラに向かって満面の笑みを浮かべている。
「みんな、こんにちは! キラキラスリースターズの羽衣悠でーす!」
「岸波朱音だ!」
「舘山寺涼子です」
三人が並んでポーズを取る。悠はダブルピース、朱音は腰に手を当てて胸を張り、涼子は控えめに手を振っている。
それぞれ個性が出ていて、見ていて飽きない構図だ。
キラキラ系だ、と思った。
異世界にもいた。
冒険を「映え」で捉えて、自分たちの活躍を吟遊詩人に歌わせたがる連中。
大抵は早死にするか、現実の厳しさを知って引退していく。
だがこの三人からは、そういう浮ついた空気を感じない。
笑顔の奥に、覚悟のようなものが見える。遊びでやっているわけではない。
本気で、この道で生きていこうとしている目だ。
「今日の獲物はスライム! 新しいカメラマンさんのお披露目回でもありまーす!」
悠がカメラに向かってウインクした。
「顔出しNGなので映しませんが、通称『おじさん』。これからよろしくね、おじさん」
「……よろしく」
低い声で返事をする。
すでに配信が始まっているらしく、悠の胸元に仕込んだスマホから、コメントの読み上げ音声が聞こえてきた。
『おじさんキタ━━━━(゜∀゜)━━━━!!』
『声おじさんじゃなくない?』
『イケボおじさん草』
『顔見せて』
『絶対イケメンだろ』
……まぁ、いい。
数字が回るなら、それでいい。
俺の仕事は、この三人を魅力的に撮ることだ。
自分が目立つ必要はない。
目立つと——面倒が増える。
「よーし、行くよ!」
悠が剣を抜いて駆け出した。
細身のショートソード。
切れ味よりも取り回しを重視した設計だ。
初心者向けだが、この階層のモンスターを相手にするなら十分だろう。
朱音が続く。
同じタイプの剣を持っているが、構えが微妙に違う。
悠が剣道ベース、朱音は我流か。
涼子は後方に下がり、弓を構えた。
弓道の経験があるのか、姿勢が美しい。
フォーメーションは悪くない。
前衛二人、後衛一人。
役割分担が明確で、お互いの位置を把握しながら動いている。
素人にしては、よく訓練されている。
だが——。
「涼子、左!」
悠の警告が飛んだ。
遅い。
その声より早く、俺の体は動いていた。
茂みから飛び出してきたスライム——うす緑色のゼリー状の塊——が、涼子に向かって跳躍する。
このままでは涼子の横腹に直撃する軌道だ。
カメラを持ったまま、俺は地を蹴った。
スライムの飛翔経路に割り込み、右足で蹴り上げる。
カメラはブレないよう左手でしっかり保持したまま、蹴った足がフレームに入らない角度を維持する。
スライムは悲鳴のような音を上げながら弧を描いて飛び、悠と朱音の足元に落ちた。
「今だ」
「えっ、う、うん!」
悠が反射的に剣を振り下ろす。
ズムン、という鈍い音。斬撃というより打撃に近い。
朱音が続けて斬りつけ、涼子が弓を引き絞って矢を放った。
スライムの核が砕ける音がして、動きが止まった。
——終わり。
俺は何事もなかったかのようにカメラを下ろした。
「……ナイスファイト。いい絵が撮れた」
「いやいやいや」
朱音が詰め寄ってきた。
「おじさん、今、何した?」
「何って、カメラを回してただけだが」
「嘘つけ。スライム、明らかに軌道変わったじゃん。涼子に当たるはずだったのが、急にこっちに飛んできた」
鋭い。戦闘中でもちゃんと見ていたのか。
「気のせいだろう。スライムは動きが不規則だからな」
「そんなわけ——」
「朱音」
悠が朱音の肩に手を置いた。首を横に振っている。追及するな、という意味だろう。
朱音は不満そうな顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。
「とにかく、今日のところはこれで終わりにしよう」
「えー、もう? まだ一匹しか倒してないのに」
「初回はこんなもんでいい。短くても、編集次第で濃くできる」
素材は十分だ。三人の自己紹介、ダンジョン内の雰囲気、スライムとの戦闘。
これだけあれば、五分程度の動画には仕上げられる。
「それに、今日は顔合わせだ。お互いの動きを知るのが目的だろう。いきなり深く潜って、事故を起こしたら元も子もない」
悠が少し考える素振りを見せてから、頷いた。
「……分かった。おじさんの言う通りにする。でも次はもっと奥まで行くからね」
「あぁ、約束する」
「じゃあ、編集よろしくね、おじさん」
悠が笑った。さっきまでの戦闘モードとは打って変わって、屈託のない笑顔だ。
「任せろ」
俺も笑い返した。
「数字、取ってやる」
その言葉に、三人の目の色が変わった。
期待と、少しの不安。そして——信頼の萌芽のようなもの。
悪くない反応だ。
□
ダンジョンを出ると、空はすでに夕焼け色に染まっていた。
悠たちと別れ、俺は一人でゲートを振り返った。
かつて俺のアパートがあった場所。
今は巨大なダンジョンの入り口が、夕日を受けて黒々とそびえている。
この世界は変わった。
十年の間に、何もかもが。
俺だけが、取り残されている。
——いや。
取り残されているんじゃない。
これから、取り戻すんだ。
失った十年を。居場所を。生きる意味を。
振り返らずに歩き出そうとした、その時だった。
視線を感じた。
反射的に振り返る。
受付窓口の奥——事務所の窓から、誰かがこちらを見ていた。
スーツ姿の男。無表情。
目が合った瞬間、すっとカーテンが閉じた。
偶然か。
それとも——。
答えは分からない。
だが、もう引き返すつもりはない。
俺は歩調を速めて、その場を離れた。
公園のベンチが待っている。明日も、明後日も。
それでも、前に進むしかない。
元勇者は今日も、星空の下で眠る。
いつか、屋根のある場所で眠れる日を夢見ながら。
星、ブクマ、感想をお待ちしています!




