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桜の季節・ゆかり

31回目の春が来る。

 私が春を好きなのは良い別れがあるからだ。夏別れるより春のほうが思い出に残る。どんな別れでもすべていい思い出に変わる。

 それなのにここ10年季節らしさを感じていないのは私の右隣に渚さんが居るからだ。

 ライターになるための専門学校を卒業した翌日の夜、一人旅として京都に向かう新幹線の中で声をかけられた。彼はまだ着慣れていない和服姿だった。細身で背が高いからか、和服のほうが似合っているように感じた。

 彼との2時間半の会話の中で断面的ではあるがいろいろなことを知った。一方的に彼が話しているのを聞いていただけだけど。内容はこうだ。


・彼は落語家の見習いをやっているようで、芸名は本名そのままの渚という。

・渚という名前は横浜生まれだということから来ているようで横浜が大好きなようだった。

・今日彼は、師匠が出演するテレビ番組の収録に見学にいくためで、見学といっても楽屋でお弁当を食べたりすることだけで、普段の師匠の衣装を畳んだりする仕事はテレビ局の方がやってくれるのでやらなくてもいいということ。

・彼は私と同い年で横浜の大学で文学を学んでいたが1年生の夏から学校に行かなくなり演芸場の年間パスポートを購入し毎日のように演芸場に通っていたこと。


 京都駅のホームで連絡先を交換してから、私たちはトントン拍子に付き合うことになった。付き合うといっても音楽にあるような甘いものではなく、気付いたら隣に居たという感じで、大して愛の囁きなどなかった。そんなところが私が一番彼に対して好きなところだった。

 そして気付いたら10年も隣に居た。彼が苦しんでいるときは同じ布団で一緒に寝た。私が苦しいときは落語を聞かせてくれた。オチまでなかなかたどりつかない彼の落語が嫌なことを忘れさせてくれるのにちょうどよかった。

 お互い一緒に乗り越えてきたけれど、彼はこの春、真打という一番上の階級に昇進することが決まってこのままダラダラとこの関係を続けるのはダメだなと思っていた。彼には隠していたが仕事を辞めて京都に行きたいという願望があった。

 そんな時、彼のお祝いとして横浜の港が一望できるレストランで食事をしていた。彼が震えた声で「一緒に東京に来ないか」と言った。私は恥ずかしいのと言いたいことを言えず「それどころじゃない」という一言で誤魔化した。

 3月もあと3日。次こそ言おう。

 彼も私も思い出の春を迎えよう。


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