翌日の園長先生、筋肉痛につき
第3話
翌日の園長先生、筋肉痛につき
2048年10月。
秋のやわらかな空気が、博多の朝を包んでいた。
前夜、地元のママさんバレーの初練習に参加した美鈴は、久しぶりにボールを追い、笑い、汗をかいた。
思うように動けない悔しさもあった。
それでも、胸の奥にしまい込んでいた「やっぱりバレーが好き」という思いを、もう一度はっきりと確かめた夜でもあった。
――が。
その代償は、翌朝きっちりやってきた。
「……っっっっ……」
和室の方から聞こえてきた、何とも言えないうめき声に、先に起きていた優馬が顔を上げる。
「……美鈴?」
少し間があってから、障子の向こうからか細い声が返ってきた。
「……優馬……」
「おう」
「……私、昨日、体育館に体の一部ば忘れて帰ってきたかもしれん……」
優馬は一瞬黙ったあと、すぐに察した。
「筋肉痛やな」
「筋肉痛やな、じゃなか」
「全身が“昨日の件について抗議したか”って言いよる……」
「しかもかなり正式な文書で……」
障子を開けると、そこには布団の上で中途半端に起き上がったまま止まっている美鈴がいた。
起きようとしている。
だが、腰が浮いたところで完全に静止している。
「……何しよると」
「起き上がろうとしよる」
「それは見たらわかる。なんで止まっとると」
「ここから先に行く許可が太ももから下りん」
優馬は口を押さえた。
「笑ったやろ今」
「いや」
「絶対笑った」
「まだ笑っとらん」
「“まだ”って何ね!」
優馬の肩が震え始める。
「昨日はあんなに“行ってこい、美鈴”とか格好よく送り出しといて、翌朝これ見て笑うの、夫としてどうなん」
「いや……だって……」
「その格好、途中で時が止まった人みたいやもん……!」
「言うな!」
ついに優馬は耐えきれず、畳に手をついて笑い始めた。
「ははははっ……! いかん……! 朝から腹筋に悪い!」
「許可が下りんって何やそれ……!」
美鈴も半泣き半笑いになる。
「ほんとに下りんとよ! 今、私の足の中で労働組合がストライキ起こしとる!」
「やめろっ……! 朝からほんとにきつい……!」
⸻
数分後。
優馬に支えられて、どうにか立ち上がった美鈴は、壁に手をつきながら一歩ずつ進んでいた。
その歩き方は、もはや「歩行」というより「慎重な搬送」に近かった。
「……美鈴」
「……なに」
「それ、歩きよるというより、古いタンスば運びよる人の動きやぞ」
「どういうたとえ!?」
「そーっとせんと全部外れそうな感じ」
「外れそうなのは事実やけど!」
一歩、二歩、三歩。
「いっ……」
美鈴が止まる。
「また会議か」
「今度はふくらはぎ……」
「“昨日のジャンプは業務内容に含まれておりません”って……」
優馬はもうだめだった。
「はははっ! なんで全部そんな具体的なん!」
「お前の筋肉、全員しゃべりすぎやろ!」
⸻
その時だった。
リビングのテレビ画面に映していた、徳島支部との朝のリモート通話から、にぎやかな声が飛び込んできた。
画面の向こうでは、徳島支部の福田由理恵と福田香苗が笑いをこらえていて、その手前で、インコ一家が止まり木の上に並んでいた。
先頭で胸を張るのは、初代せきちゃん閣下。
その横に、せいちゃん姫。
さらに、しらゆき、きびまる、あわまるが並んでいる。
せきちゃん閣下が、得意げに叫ぶ。
「せきちゃん、きんにくつう!」
美鈴が目を丸くする。
「なんであんたまで筋肉痛ね!」
すると、しらゆきが小首をかしげた。
「しらゆきも、ちょっといたいかもー」
それに便乗するように、きびまるも羽をふくらませる。
「ぼくも筋肉痛! ぼくも筋肉痛!」
すると、せいちゃん姫とあわまるが、ほぼ同時にツッコんだ。
「いや、あんたら運動してないやろ!」
「メタボなだけや!」
その瞬間、美鈴と優馬の腹筋が崩壊した。
「ぶっ……!」
「はははははっ!!」
優馬はテーブルに突っ伏し、美鈴は壁に手をついたまま笑い崩れる。
「やめてっ……! 朝からインコに“メタボ”言われる世界ある!?」
「しかもツッコミが鋭すぎるっ……!」
画面の向こうで、由理恵も香苗も笑っている。
由理恵が涙をぬぐいながら言う。
「美鈴さん、すみません……朝からうちの一家が……」
香苗も肩を震わせる。
「いやでも、きびまるとしらゆき、ほんと最近ちょっと丸いんですよ」
「公式認定された!?」
美鈴がつっこみ、また笑いが広がる。
するとせきちゃん閣下が、さらに得意げに叫んだ。
「せきちゃん、ふっきんつう!」
あわまるが即座に返す。
「それ笑いすぎやろ」
優馬が机を叩いて笑う。
「もうだめや……! リモートでここまで破壊力あるんか……!」
⸻
どうにか朝食を済ませ、美鈴は出勤の支度に入った。
だが、靴下を履く段階でまた動きが止まった。
「……」
「どうした」
「前屈という文化が、今日の私にはない」
「大げさやな」
「大げさやない。今の私は、“下のものは拾わない主義”で生きとる」
「どんな主義や!」
テレビ越しに聞いていたせいちゃん姫が即座に反応する。
「ただ曲がれんだけやろ」
「そうとも言う!」
美鈴が自分で返して、また全員が笑った。
⸻
博多南幼稚園。
門の前では、園児たちがいつものように元気いっぱい登園してくる。
秋の風に金木犀の香りが混じり、やさしい朝の空気が広がっていた。
その中を、美鈴はものすごく慎重に歩いていた。
一歩。
止まる。
一歩。
また止まる。
若い先生が目を丸くする。
「園長先生!? どうされたんですか!?」
美鈴はできるだけ平静を装った笑顔をつくる。
「だ、大丈夫です」
「ちょっと昨日、体が青春ば思い出しすぎただけです」
先生たちが一斉に下を向く。
笑いをこらえているのが丸わかりだった。
そこへ園児の一人が駆け寄ってきた。
「えんちょうせんせー! おはよう!」
美鈴は両手を広げて受け止めようとして、途中で止まった。
「お、おはよう……!」
園児が不思議そうに見上げる。
「せんせい、どうしたと?」
「ちょっとね……今日、園長先生のひざが朝から機嫌悪いと」
「ひざ、けんかしたと?」
「そう。たぶん太ももと」
近くにいた先生が吹き出した。
「園長先生、そこ会話させないでください!」
⸻
午前中、園庭で外遊びを見守る時間。
いつもなら軽やかに歩き回る美鈴は、今日は砂場のそばで微妙に足を開いたまま仁王立ちしていた。
まるで、自分の守備範囲をそこ一帯に限定した守護神のようだった。
若い先生が心配して聞く。
「園長先生、少し休まれますか?」
美鈴は首を振る。
「いや、ここでよか」
「今日は私、移動式やなくて固定砲台やけん」
先生が噴き出す。
「固定砲台!?」
そこへ園児がボールをころころ転がしてきた。
「えんちょうせんせー! とってー!」
美鈴は二歩先のボールを見る。
近い。
だが、今の美鈴には遠い。
「……」
「園長先生?」
美鈴は静かに言った。
「今日はそのボール、自主性ば育てようか」
「えっ」
「自分で取りに行くことも、大事な学びたい」
先生たちの肩が震える。
「ただの筋肉痛を教育理念に変換しないでください!」
美鈴もつい吹き出した。
「いやほんとごめん。今日、園長先生の股関節が教育実習中なんよ」
「意味わからんです!」
⸻
昼前。
ちょうど美香とアキラが、中学1年生になった春介と春海を連れて、博多南幼稚園の近くまで来ていた。
「昨日、おばあちゃんバレー行ったっちゃろ?」
「今日どうなっとるか、ちょっと見に行こうや」
そう言いながら職員室をのぞくと、そこには椅子から立ち上がろうとして、微妙な姿勢のまま固まっている美鈴の姿があった。
春介が一瞬目を丸くしたあと、口元を押さえる。
「……おばあちゃん、まさかそれ、昨日の筋肉痛?」
春海も吹き出しそうになりながら続ける。
「いや、思った以上に重症やん」
「“初練習の翌日あるある”を全身で表現しとるやん」
美鈴がむっとする。
「笑わんでよ。こっちは真剣たい」
すると春介が、わざと実況アナ風に言う。
「さあここで小倉美鈴選手、椅子からの立ち上がりに挑みます!」
「昨日のデビュー戦から一夜、最大の難関・着席解除に苦しんでおります!」
春海もすかさず乗る。
「解説の春海さん、今日のポイントは?」
「そうですね。太もも、ふくらはぎ、股関節、この三連コンボが非常に厳しいですね」
「特に下半身が“本日は休業です”と言うとります」
職員室の先生たちが一斉に吹き出す。
美鈴が呆れながら言う。
「何が悲しくて、孫に筋肉痛の実況解説されないかんと」
美香が笑いながら肩をすくめる。
「でも応援には来たんよね?」
春介はにっと笑って、美鈴の前に立つ。
「そりゃ来るよ。おばあちゃん、せっかくまた好きなこと始めたっちゃけん」
「筋肉痛くらいで心折れたらもったいなかろうもん」
春海も優しくうなずく。
「そうそう。痛いのは昨日ちゃんと頑張った証拠やろ?」
「今日はギャグみたいになっとるけど、それも含めて一歩目やん」
美鈴は少し目を細める。
「……あんたたち、中学生になって急にええこと言うやん」
すると春介がすぐ真顔に戻る。
「でも、おばあちゃん」
「なに?」
「歩き方はだいぶ変」
一瞬の静寂のあと、職員室が爆笑に包まれた。
「春介ー!!」
春海まで肩を震わせる。
「いやでも、それは事実」
「今日のおばあちゃん、園長先生というより“負傷しながら帰還した名将”みたいになっとる」
「春海まで!?」
優馬は机に手をついて笑い、美香は涙をぬぐい、アキラまで苦笑する。
それでも春介は最後に、少し照れくさそうに言った。
「……でも、かっこいいとは思うよ」
「おばあちゃんが“やっぱりやりたい”って言って、ほんとに始めたの」
春海も小さくうなずく。
「うん。そこは、ほんとにすごい」
その言葉に、美鈴は笑いながらも、胸の奥が少し熱くなるのを感じた。




