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爆笑三姉妹〜陽翔・結音誕生から、燈真・灯乃、彩羽・悠翔誕生まで  作者: リンダ


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美鈴、バレー復帰



美鈴がママさんバレーを始めるきっかけ


春のやわらかな日差しが、博多南幼稚園の園庭いっぱいに広がっていた。


園庭では、子どもたちが元気よく走り回り、砂場では小さな山がいくつも作られている。

「園長先生ー!」

そう呼ばれて振り向くたびに、美鈴は自然と笑顔になる。


かつて、あれほどの大事故で重傷を負い、生死の境をさまよった自分が、こうして再び子どもたちの笑い声の中に立っている。

その事実だけで、何度胸が熱くなったかわからない。


最初は、立つことすら怖かった。

歩くことも、階段を上ることも、長時間立ち続けることも、全部が「前のようにはいかないかもしれない」という不安との戦いだった。


それでも、美鈴は幼稚園教諭の仕事を手放さなかった。


子どもたちの前に立つたびに、力をもらった。

泣いていた子が笑ってくれた日。

「園長先生、だいすき」と小さな手で抱きつかれた日。

運動会で一生懸命に走る姿を見た日。


そんな一つ一つが、美鈴の中で「まだ私は前に進める」という確かな灯になっていた。


今では、博多南幼稚園の園長を任されるまでになった。

責任は大きい。忙しさも増えた。

けれど、その分だけやりがいもあった。


ただ――


心の奥に、ずっと残っている思いがあった。


夕方、子どもたちを見送ったあと。

職員室の窓から空を見上げながら、美鈴はふと、自分の手を見つめた。


昔、何度もボールを受けた手。

レシーブで赤くなり、トスの感覚を覚え、スパイクの音に胸を躍らせた手。


「……やっぱり、バレーしたか……」


思わず、ぽつりと声が漏れた。


若い頃、美鈴はバレーが大好きだった。

ボールをつなぐ感覚。

仲間と声を掛け合う空気。

一本拾えた時の嬉しさ。

苦しいラリーの末に決まった一点の重み。


事故のあと、その思いは一度、自分の中でそっとしまい込んだ。


もう無理かもしれない。

仕事だけでも十分幸せじゃないか。

家族もおる。子どもたちもおる。

今さら、自分の「やりたいこと」を口にするのは、わがままかもしれん。


そう思っていた。


けれど、その思いは消えなかった。

むしろ、子どもたちが元気に走る姿を見るたび、自分の中で少しずつ膨らんでいった。


「もう一回だけでもいい。いや、できるなら、ちゃんとやりたい」


その気持ちをごまかせなくなったのは、ある日の夕食後だった。


小倉家の食卓。

優馬が湯のみを置き、美香が笑いながら今日あった出来事を話し、光子と優子がいつものようにツッコミを入れている。

にぎやかで、温かくて、何より安心できる時間だった。


美鈴は、しばらくみんなの顔を見ていた。

この人たちには、ちゃんと話したい。

そう思った。


「ねえ、みんな。ちょっと聞いてほしいことがあるっちゃん」


その声に、食卓の空気が少しだけ静かになる。


優馬がやさしく顔を向けた。

「どうした、美鈴」


美香も箸を置く。

光子と優子も、母の表情を見て、いつもの軽口を止めた。


美鈴は少し息を吸ってから、ゆっくりと言った。


「私ね……バレーがしたい」


一瞬、誰も言葉を挟まなかった。


美鈴は続けた。


「事故に遭ってから、ずっと考えんようにしとった。もう前みたいには動けんかもしれんし、仕事もあるし、年齢のこともあるし……いろいろ理由つけて、自分に言い聞かせてきたっちゃん」

「でも、やっぱり好きなんよ。バレーが」

「子どもたちが元気に走り回るの見よったら、私もまだ体を動かしたいって思ってしまって」

「本気で上手にできるとか、昔みたいに動けるとか、そげん大きなことやなくてよか。ただ……もう一回、コートに立ちたい」


その声は、少し震えていた。


「地元のママさんバレーのチームが、今メンバーば募集しとるって聞いて……」

「入ってみたいって思っとる」

「でも、みんなに何も言わんで決めるのは違うと思って」


言い終えたあと、美鈴は少しだけ目を伏せた。


すると、最初に口を開いたのは優馬だった。


「……なんで、そんな大事なこと、もっと早う言わんかったと」


責めるような言い方ではなかった。

むしろ、どこまでもやさしい声だった。


美鈴が顔を上げると、優馬は静かに笑っていた。


「美鈴がバレー好きなことくらい、俺はよう知っとる」

「事故のあと、どれだけ無理して笑っとったかも、わかっとるつもりや」

「やけん、今こうして『したい』って言えたの、俺はすごく嬉しか」


美鈴の目が少し潤む。


優馬は続けた。


「もちろん無理はしたらいかん。そこは家族でちゃんと支え合わないかん」

「でも、やりたい気持ちまで我慢せんでよかろうもん」

「やりたいなら、やろう。俺は応援する」


「優馬……」


今度は美香が、ぐっと身を乗り出した。


「お母さん、それ絶対よかよ!」

「だって、お母さん、バレーの話するときだけ目が違うもん。昔っからずーっと好きなんやなってわかる」

「事故のあとも、仕事頑張って、家族支えて、それでまだ自分の好きなことまで諦める必要ないやん」


光子も大きくうなずく。


「そうそう。お母さん、普段は落ち着いとるけど、バレーの試合テレビで見よる時だけ、めっちゃ前のめりやもん」

「レシーブの時とか、体まで一緒に動いとるけんね」


優子がすかさず入る。


「しかも実況より先に『今のコース甘か!』『ブロックの位置が高すぎる!』とか言いよるし」

「もう半分現役やろ」


美鈴が思わず吹き出す。


「なんね、それ」


光子がにやっと笑う。


「よかやん、お母さん。入団しんしゃい」

「うちら、応援行くけん」

「なんなら横断幕作るばい。『博多南の鉄壁リベロ・美鈴』って」


「いや、勝手にポジション決めんでよ!」


優子も大笑いしながら言う。


「でもほんと、お母さんが『やりたい』って言うの、めっちゃええと思う」

「事故ば乗り越えて、先生としても園長としても頑張って、それでもなお『好き』を捨てんかったっちゃろ?」

「それ、すごいことやん」


その言葉に、美鈴は胸がいっぱいになった。


自分のわがままかもしれない。

そう思っていた。

でも、家族は誰ひとりそんなふうには受け取らなかった。


むしろ、自分の口からその思いが出てきたことを、喜んでくれていた。


美鈴は目元を押さえ、少し笑いながら言った。


「……ありがとう」

「なんか、言っただけで泣きそうになる」


優馬が穏やかに言う。


「泣いてよかたい。ずっと抱えとったっちゃろ」


美香も、光子も、優子も、大きくうなずいた。


その夜、美鈴は久しぶりに、自分の中に眠っていた気持ちがすっとほどけていくのを感じていた。


数日後。


地元の体育館で行われているママさんバレーの練習日。

美鈴は、少し緊張した面持ちで入口に立っていた。


体育館の中からは、ボールを打つ乾いた音と、明るい声が響いてくる。

シューズのきしむ音。

「ナイス!」「もう一本!」という掛け声。


その音を聞いた瞬間、美鈴の胸がどくんと鳴った。


懐かしい。

怖い。

でも、それ以上に――嬉しい。


入口まで送ってきた優馬が、そっと言った。


「大丈夫か?」


美鈴は深く息を吸って、笑った。


「うん。緊張するけど……嬉しい」


「それならよかった」


その時、館内からメンバーの一人が気づいて駆け寄ってきた。


「小倉さんですよね? お話聞いてます! よかったらぜひ、一緒にやりましょう!」


あたたかい笑顔だった。


美鈴はぺこりと頭を下げた。


「こちらこそ、よろしくお願いします。久しぶりやけん、ほんとに何もできんかもしれませんけど……」


すると、その女性はからっと笑った。


「大丈夫ですよ! うちら、勝つことも大事やけど、まずは楽しくやるのが一番やけん!」


その言葉に、美鈴の肩の力が少し抜けた。


優馬が後ろから言う。


「美鈴、行ってこい」


振り返ると、優馬はいつものやさしい目で立っていた。


「……うん」


美鈴は体育館へ足を踏み入れた。


木の床の感触。

ボールの音。

ネットの向こうに広がるコート。


全部が懐かしくて、胸が熱くなる。


試しに軽くパスを受ける。

最初の一本は少しぶれた。

でも、次の一本は、きれいに相手へ返った。


ぱん、と気持ちのいい音が響く。


その瞬間、美鈴は思った。


ああ、帰ってきた。

私は、ここに帰ってきたんだ。


事故で失ったものは、確かにたくさんあった。

痛みも、不安も、消えることはない。


それでも。


好きなものを、もう一度好きと言えること。

やりたいことに、もう一度手を伸ばせること。

それを支えてくれる家族がいること。


そのすべてが、美鈴に新しい一歩をくれた。


ボールを抱えた美鈴の表情は、博多南幼稚園の園長先生の顔とも、家族を支える母の顔とも少し違っていた。


そこにいたのは、ただ純粋に――

バレーが大好きな、一人の女性だった。


そしてこの日が、のちに博多ドンタクスのキャプテンとして、多くの仲間をまとめ、笑いと汗にあふれた新しい青春を歩み始める、最初の一歩となるのだった。




美鈴、ママさんバレー初練習


――そして炸裂する、天然ボケツッコミマシーン


地元の体育館の床は、夕方の光を受けてつやつやと光っていた。


入口に立った美鈴は、胸の前でバッグの持ち手をぎゅっと握った。

館内からは、ボールを打つ乾いた音。

誰かの「ナイス!」という声。

シューズが床をきゅっと鳴らす音。


どれもこれも、懐かしい。


その懐かしさが、逆に少し怖かった。


「……うわぁ……ほんとに来てしもうた……」


ぽつりとつぶやいた美鈴の隣で、優馬が笑う。


「自分で来るって決めたっちゃろ」


「そりゃそうやけど、決めるのと来るのはまた別たい」

「温泉入りに来たわけやなかとよ、バレーたい、バレー」

「筋肉が“何十年ぶりですか?”って聞いてきそうやもん」


優馬が肩を揺らした。


「筋肉はしゃべらん」


「いや、今日ばかりはしゃべる気がすると」

「“無理です園長先生、今日は見学にしましょう”って」


「誰が園長先生に意見しよるとや」


そのやり取りだけで、入口の緊張が少しほぐれた。


中から、チームの代表らしき女性が駆け寄ってくる。

古賀真理子だった。


「小倉さんですよね? よう来てくれました!」


美鈴は慌てて頭を下げた。


「こちらこそ、よろしくお願いします。ほんと久しぶりやけん、足ば引っ張るかもしれませんけど……」


すると、真理子はにかっと笑った。


「大丈夫ですって。うちら、最初から完璧な人なんておらんけん。まずは楽しくやりましょ」


そのひと言に、美鈴の肩から力が抜ける。


「ありがとうございます……」


「それに聞いとるんですよ。小倉さん、昔バレー好いとったって」


「好きは好きでしたけど……今はもう、“元・好き”みたいな感じで……」


「何ですかその冷凍保存したみたいな言い方」


その瞬間、美鈴は自分で言った言葉に一拍遅れて気づき、

「あっ、ほんとや」とつぶやいた。


真理子はさっそく笑いをこらえきれず、横で聞いていた高山由紀も吹き出した。


「冷凍保存した好きって何ね!」


「いや、なんか……気持ちはあるけど、解凍に時間がかかるというか……」


「レンジでチンするもんじゃなかろうもん!」


さっそく、美鈴の天然ボケが炸裂した。


本人はいたって真面目だった。



準備運動が始まる。


肩を回し、アキレス腱を伸ばし、軽くその場で足踏みをする。

美鈴もみんなに混じって体を動かし始めたが、数分後にはもう顔が少し真剣になっていた。


「……あれ」


「どうしました?」と森本さやか。


「右足は“やる気あります”って言いよるけど、左足が“ちょっと一回会議させてください”って言いよる」


「また筋肉しゃべりよる!」


「今日は体内の組織がよく会話する日やね……」


「せんでよか会議ば開くな!」


ついには本人が左太ももを軽くさすりながら、


「議題はたぶん、“昔のようには動けません”やね」


と言い出し、また笑いが起きる。


だが、その笑いの奥で、真理子たちはちゃんと気づいていた。

美鈴が、冗談に変えながらも、少し不安を抱えていることを。


だからこそ、誰も急かさなかった。


「よし、じゃあまずは軽く対人パスからいきましょう」


ネットの手前で二人組になり、ボールを回し始める。

美鈴の相手は中原志穂だった。


「よろしくお願いします」


「こちらこそ。無理せんで、まずは軽くでよかですよ」


「はい」


最初の一本。


ぽん。


思ったより、ちゃんと返せた。


「おっ」


二本目。


ぽん。


少し高いが、届く。


三本目。


「よし……!」


と気合いを入れた瞬間、ボールの下に入りすぎて、

ぽーん、と真上に上がりすぎた。


「あっ、高っ!」


ボールは美鈴の頭上をゆっくり越え、後ろへ。


「うわわわわ!」


慌てて後ろを向き、追いかけようとして二、三歩出たところで、

自分のバッグに足を引っかけた。


「ちょっ、犯人おった!」


どすっ。


尻もち。


一瞬、館内がしんとなる。


全員が「大丈夫!?」と顔を上げた次の瞬間、美鈴は床に座ったままバッグをにらみつけた。


「なんねあんた、さっきまで入口でおとなしくしとったやろ!」

「急に守備妨害してから!」

「味方のふりしたスパイか!」


爆笑だった。


志穂が腹を抱える。


「バッグにツッコミ入れた人初めて見た!」


高山由紀はネット際で膝を叩いている。


「しかも守備妨害て! バッグが何ば守るとよ!」


森本さやかが涙目で言う。


「いやもう、まだ練習始まって五分よ! 早すぎるやろ!」


美鈴は自分でもおかしくなって、尻もちをついたまま笑ってしまった。


「いや……ごめんなさい、なんか……バッグに裏切られた気分で……」


真理子が手を差し出す。


「大丈夫? 立てます?」


「はい、大丈夫です」

「でもこのバッグはあとで事情聴取します」


「せんでよか!」


体育館の空気は、完全に和んでいた。



そのあと、レシーブ練習に入る。


コーチ役の経験者が軽くボールを打ち、美鈴たちが拾う形だ。

最初は慎重に、緩い球から始まった。


美鈴は膝を曲げ、低い姿勢を取る。


――来る。


ぱん。


腕には当たった。

けれど、角度がわずかにずれて、ボールは斜め横へ飛んでいった。


「あーっ!」


「ドンマイ!」


もう一本。


今度は低め。


美鈴は飛び込むまではいかないが、一歩踏み出して腕を出す。


ぱしっ。


今度はきれいに上がった。


「ナイス!」


「おおー!」


その瞬間だった。

美鈴が、自分でもびっくりした顔で言った。


「おっ……今の、ちょっとバレー選手みたいやった!」


すぐさま志穂が返す。


「ちょっとじゃなかろうもん、今バレーしよったとよ!」


「そうやった! ここ体育館やった!」


「今さら!?」


笑いがまた起きる。


だが、次の一本ではタイミングが遅れ、空振りに近い形になってしまう。


「あっ……!」


ボールは背後へ転がる。


その瞬間、美鈴は天を仰いだ。


「体は“行きます!”って言ったのに、足が“現場まで遠いです”って……」


「また足がしゃべりよる!」


「伝達系統どうなっとると!」


「脳内の交通整理が追いついとらん!」


本人の口から飛び出す表現がいちいち予想外で、もはや練習どころじゃないくらいみんな笑っている。


それでも、不思議だった。

笑いながら、美鈴は少しずつ動けるようになっていた。


一本失敗しても、空気が重くならない。

むしろ「次いこ!」と明るくなる。

美鈴自身も、笑いながら次の一本に向かえる。


小倉家の血筋――というより、もはや小倉家そのものだった。



休憩時間。


みんなが水筒を手に輪になって座る中、美鈴は壁にもたれて息を整えていた。


額には汗。

太ももは少し張っている。

肩も重い。


でも、心は不思議なくらい晴れていた。


真理子が隣に座る。


「どうです? 久しぶりのバレーは」


美鈴は少し考えてから笑った。


「きついです」


「正直!」


「きつい。でも……めちゃくちゃ嬉しかです」

「思うように動けんし、頭の中のイメージと全然違うし、さっきから自分の体が別人みたいで」

「でも、ボール触った瞬間に、“ああ、これやった”って思いました」


真理子はうなずいた。


「それでよかとですよ」

「最初から昔みたいに動ける人なんておらんです」

「でも、“好き”は戻ってきますけん」


その言葉に、美鈴は静かに目を細めた。


「……はい」


すると向こうから高山由紀が大きな声で言った。


「小倉さーん!」


「はい?」


「次のゲーム形式、ミニ試合やりますよー!」


「えっ、試合!?」


「まだ正式なやつやないですって!」


美鈴は思わず立ち上がりながら、


「いきなり実戦投入!? こっちはまだ心拍数と人生設計が追いついとらんとやけど!」


体育館がまた揺れた。


森本さやかが笑いすぎて床を叩く。


「人生設計って何! バレーでそこまで崩れる!?」


志穂が肩を震わせながら言う。


「もうだめ、今日いちばんおもしろい!」


美鈴は自分でも吹き出しながら頭をかいた。


「いや、なんかもう、緊張すると変なこと言うっちゃん……」


真理子がにやりとする。


「いや、小倉さん、それ素です」


「えっ」


「たぶんずっとそれです」


「うそやろ」


「ほんとです」



ミニゲームが始まる。


美鈴は後衛に入った。

サーブは相手コートへ入り、ラリーが続く。

左右に振られ、前に落とされ、後ろにも飛ばされる。


きつい。

でも、楽しい。


一本、相手の返球が浅く落ちてくる。

美鈴は反応して前へ出る。


「よしっ!」


腕を差し出して拾う。


ぽん、とボールはきれいに上がった。


「ナイス!」


その声に押され、味方がつないで返す。

相手の返球。

今度はやや右。


美鈴が横に動く。


「あっ、そっち! 右右右、私の右、みんなから見て左!」


「どっちやねん!」


「説明が渋滞しとる!」


「落ち着いて!」


その混乱の中でも、なぜかボールはつながった。


ラリーの末、最後は味方の返球が相手コートにぽとりと落ちる。


「よっしゃあ!」


自然に、美鈴が両手を上げた。


その笑顔は、家で見せる母の顔でも、園長先生の顔でもなかった。


ただただ、好きなスポーツをしている人の顔だった。


息を切らしながら、美鈴は笑った。


「はぁ、きつ……でも楽し……なんこれ……」


すると志穂が、肩で息をしながら言う。


「それがバレーです」


高山が続ける。


「そしてそれが、沼です」


森本がうなずく。


「もう抜けられません」


美鈴は目を丸くした。


「え、入団って、そんな怖い契約やったと!?」


「違う違う!」


「言い方!」


また爆笑だった。



練習が終わる頃には、外はすっかり夕暮れになっていた。


美鈴はバッグを肩にかけ、体育館の出口に向かった。

体はくたくただった。

脚も腕も、たぶん明日はしっかり筋肉痛だろう。


でも、足取りは軽かった。


入口のところで待っていた優馬が、美鈴の顔を見てすぐに笑う。


「……その顔見たらわかるな」


「何が?」


「楽しかったっちゃろ」


美鈴は、少し照れたように笑った。


「うん。めちゃくちゃきつかったけど、めちゃくちゃ楽しかった」

「あと、なんか知らんけど、バッグと戦った」


「は?」


「スパイやった」


「何の話や」


「あと、私の左足が会議しよった」


「もっとわからん」


優馬は呆れ半分で首を振ったが、美鈴が本当に楽しそうに笑っているのを見て、その表情をやわらかくした。


「……よかったな、美鈴」


そのひと言に、美鈴はふっと表情をほどいた。


「うん」

「ほんとに、よかった」


事故で傷ついた体。

それでも続けてきた仕事。

家族に支えられてここまで来た日々。

そして、もう一度“好き”の中へ戻れた今日。


その全部が、美鈴の胸の中でつながっていた。


美鈴は夕暮れの空を見上げ、少しだけ目を細めた。


「……私、もう少し頑張ってみる」

「ちゃんと、バレーば続けてみる」


優馬はうなずいた。


「よかやん」

「ただし、バッグとの乱闘はほどほどにな」


「違うと、あれは向こうが仕掛けてきたと」


「まだ言いよる」


二人の笑い声が、春の夕暮れにやさしく溶けていった。


そしてこの日が――

博多ドンタクスのキャプテン・小倉美鈴誕生へとつながる、笑いと汗の第一歩になるのだった。



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