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乙女ゲームは終了したのに帰れません〜ハッピーエンドの後に、ひとりぼっちになったヒロインですが、自分の力で生きていきます〜  作者: 国枝 彩乃
研究所編

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五月雨

「五月雨か……」

 午後に降り始めた雨が、ダグが丹精した紫陽花に水滴を落としている。こもった空気が嫌で、ハイレーナは窓を開けた。留守の間も、マーサが掃除を欠かさないおかげで、研究所に移る前と何ら変わりない自分の部屋。

「お嬢様?お茶をお持ちしました」

 開いたままの扉をノックしてマーサが入ってきた。

「あら、下に降りたのに」

「いえいえ、私がこのお部屋にいらっしゃるお嬢様を味わいたかったのですよ」

 手際よくお茶を淹れながらマーサが微笑んだ。二人でソファーに腰掛けて向かい合う。満ちてくる紅茶の香りにほっと息をついた。

「お疲れですか?お忙しかったのでしょう?」

「うん……。そうね」

 マーサはこくりとお茶を飲むと、静かにカップを置いた。

「……グレン様ですか?」

 ハイレーナはクッキーを口に運ぼうをしていた手を止めて、目を伏せた。

「ラナスにね……行ってしまうの」

 目をあげて、マーサの瞳を見て笑った。

「先週、正式に決まったの。8月には旅立つそうよ」

 マーサの目が見開かれ、眉が下がる。上手く微笑むことができなかったかもしれない。

「……お嬢様……」

「フィラ糸関係が落ち着いたと思ったら、それで。シュテファンも同行するから、研究室の片付けとか、色々ね」

 クッキーを口に入れる。ポリポリと噛み砕いたレモンクッキーに、あまり甘さを感じなかった。窓からポツポツと雨音が聞こえる。マーサがふうっと長い息を吐いた。

「お嬢様には気分転換が必要ですわ!」

 立ち上がると、エプロンをぱんぱんと叩いた。

「お忙しさに紛れて、お肌のお手入れも、お髪もおろそかになさってますでしょう?毛先を整えるだけでも、軽くなりますわ。さあ、旦那様がお帰りになるまで、まだ時間がございます。『今日は早く帰る』と仰せでしたけれども……」

 喋りながらハイレーナを鏡台に座らせるとケープをかけて、髪を梳る。

「先日、お嬢様の発表のあった日は、帰っていらっしゃるなり、お泣きになりましてね……イレーネ様のお部屋に行かれて……」

 シャキンシャキンと髪を切る音がする。切られた毛先がぽさっと落ちる。鏡越しに整っていく髪を見ていた。

「……お寂しいですか?」

 マーサの声に目を伏せた。息を吸って、吐く。視線をあげて、鏡越しのマーサと目を合わせた。

「大丈夫よ。たくさん話し合ったの。一緒に行けるように手を尽くしてくれた。王家の許可は降りなかったけど……」

「グレン様はなんと?」

 ふふふとハイレーナは笑った。昨夜、シュテファンが研究室に現れて、グレンの胸元を掴まんばかりに迫った顔が頭に浮かんでいた。

『結婚すればいいじゃないですか!家族は同行できるんですから、何をまたぐずぐずと!』

『ハイレーナにはハイレーナの研究がある』

 大人しくシュテファンに揺さぶられたままグレンが答えた。

『そんなこと言って!後悔しないんですか!』

 シュテファンの腕に手を添えて、ハイレーナも答えた。

『私も、グレンには好きなだけ研究してもらいたい。それに、ラナスに行くために結婚するのは違う、と思うの』


 ハイレーナを見つめるマーサに視線を合わせ、言った。

「グレンは私と、私の研究を尊重してくれるの。それにね、新しいプロジェクトに誘われているし。グレンがいなくなるのは寂しい。でも」

 パラパラと雨音が一瞬強くなった。湿った緑の匂いがする。ハイレーナは静かにその香りを吸い込んだ。

「グレンはグレンの道を。私は私のやりたいことを。じゃないと絶対後悔する」

 鏡の中のマーサは目尻に皺が増えた。眉尻を下げて、少し潤んだ目でハイレーナを見ている。目を伏せると、香油の瓶を取り、丁重に髪に塗りこんでもう一度梳る。両脇から編み込んでまとめ、髪飾りで留めた。

「さあ、できましたよ」

 マーサの手が肩に置かれ、温もりが沁みてくる。その手に手を重ねて微笑んだ。

「ありがとうマーサ」

 


 開け放たれた窓から、馬車の車輪が止まる音が聞こえ、手に取っていた小鳥のブローチを引き出しにしまって、立ち上がった。階段を駆け降りると、ちょうどハロルドが玄関でマーサにカバンを預けたところだった。

「お父様、お帰りなさいませ!」

 ハロルドが眩しそうな目を向ける。

「ハイレーナ!ただいま」

 と腕を広げた。淑やかに近づいて軽く抱擁すると、父の腕をとった。サロンへ腕を組みながら向かう。ハロルドがニコニコとハイレーナの手に手を重ねた。

「イレーネとそっくりになったね」

「お母様は、金髪だったでしょう?」

「それでも、やっぱり似ているよ」

「ふふふ」

 ソファーに座り、甘い食前酒をグラスに注いだ。

「どうだい?あれから忙しかっただろう?」

「やっと、落ち着きました。技術部の方も、生物部の方もうちの研究員もたくさんいらして」

「研究発表の後はいつもそうだ。一段落なのに気が抜けない」

「でも、たくさんの方と意見を交わすのは面白かったです。いろんなアイディアが出て」

 ハロルドがうんうんと頷く。

「冷気を使った製品はこれからたくさん作られる。それが人々の暮らしを変えてゆく。ハイレーナの子供の頃の夢を一つ叶えたね」

 ——そうか、夢が叶ったんだ。

 とその時、門の呼び鈴が鳴った。

「おや、なんだろうね、こんな時間に」

 マーサの足音が響いて玄関へ向かい、たたたと戻ってくる。サロンの扉を忙しなく叩く。

「旦那様、お嬢様」

 言葉の終わらぬうちに扉が開く。

「王家のお使者様がお見えです」

 

 

 正装をした三人の王家の使者を目にすると、ハロルドはあからさまに面倒くさそうな表情を浮かべた。使者は敬礼をすると、巻き物を広げて読み上げた。

「ハロルド・ディ・ヴァロネス博士。貴殿は研究、技術の発展に多大なる功績をあげ、その功績を高く評価し、第四十一回アルバード賞受賞者に選定する」

 ハロルドから大きなため息がもれた。

「……またかい?」

 ハイレーナに向かって首を傾けると「高濃度の時は断ったんだ」と囁いた。ハイレーナはハラハラしながら使者の顔を見上げた。表情を崩すことなく声は続く。

「あわせてその功績に報いるため子爵の爵位を授けることをここに宣す」

 踵を打ち鳴らし、巻き物を閉じてハロルドに差し出す。顰めっ面をしたハロルドが受け取ると、後ろに控えていたもう一人が進み出て、ハイレーナの正面に立った。

「続いて、ハイレーナ・ユルヴィナ研究員。同じく、第四十一回アルバード特別賞受賞者に選定する」

「えっ」

「ハイレーナ!」

 その瞬間ハロルドの腕の中へぎゅっと抱き込まれた。

「とくべつ……賞?」

「ついては、指定の日時に王城大広間へ参列し、アルバード賞授賞式ならびに叙爵式へ出席されたい。王国のさらなる発展のため、今後一層の研鑽と貢献を期待する」

「是非是非、伺います!」

 ハロルドの弾んだ声が胸に響く。

「ハイレーナ!素晴らしいよ。一緒に行けるならこんなに嬉しいことはない」

 その声を聞きながら、ふとグレンの顔がよぎる。かろうじて頭だけハロルドから引き剥がすと使者に尋ねた。

「あの、他の受賞者は?」

 使者は咳払いをすると、仰々しく答えた。

「トニス・ペトリ博士がヴァロネス博士と共にアルバード賞。グレンバルド・ディ・モンテス研究員が新人賞と決まっております」

 ハロルドの腕から抜け出し使者の顔を見つめる。腕はしばらく空中に漂ったままだった。

 ——お父様と、グレンと私。トニスおじ様も。

 差し出された勅書を受け取る。使者はカツンと踵を鳴らし、礼をすると踵を返し去っていった。

 見送って扉を閉めるとハロルドの手がハイレーナの頬に触れた。

「ハイレーナ、改めておめでとう」

「お父様も、おめでとうございます」

 笑みを返す。マーサが二人に向き直って頭を下げる。

「お二人揃っての受賞、おめでとうございます!イレーネ様もどんなにお喜びか」

 滲んだ涙を拭うと、表情を改めた。

「お嬢様のお衣装、何か考えませんと。式典はいつ?」

「7月の2週目と書いてある」

「旦那様の正装も新調いたしますか?叙爵となりますと……」

 

 ——7月中旬か……そして8月……。

 

 ハイレーナは手の中の勅書を抱きしめた。

 

 

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