希望の緑
ぱち、ぱちっと暖炉の火がはぜる。伸ばした足に柔らかい毛皮の敷物が心地いい。ハイレーナは手を伸ばして、シャンパングラスを持ち上げた。こくりと飲むと口の中に爽やかな香りが広がる。後ろからグレンがハイレーナの頭に顎を乗せた。
「いいか、これは特殊なことなんだ」
さっきの研究所の会話をまた続けるつもりらしい。
腰に回ったグレンの腕越しに、グラスを置いてバターナッツをひとつまみ口に入れる。
「伝達物質のこれまでの常識がひっくり返るんだぞ……」
ポリポリと噛むとバターの香りが鼻に抜ける。
「それに、糸状のものをどう定着させるか、あれもこれも、研究課題は山のようにある。分かってるか?」
ナッツを飲み込んで、シャンパンを口に含む。大きな手が頬をとらえると、くるっと後ろに向かせる。
グレンの青い目がハイレーナを覗き込んだ。
「聴いてるか?もっと研究をすすめて全容を……」
——吸い込まれそうに深い色……。
グレンの眉がひそめられるのに、微笑みを返す。
「いいの。冷気が使えるならそれで。私一人で研究を進めても、時間がかかるばかりでしょう?」
「……」
「みんなで開発したほうが早いじゃない」
「……お前は……まったく」
ハイレーナは頷くと暖炉へ向き直って背中をグレンに預けた。
「いいんだな?」
盛大なグレンのため息が聞こえてきた。
「なら、そのままドラゼッリに報告する」
ハイレーナはナッツをつまむ。
「発表の仕方を考えるか……」
身を捩って、グレンの口にナッツを運ぶ。ふっと開いた唇にナッツが消え、そのまま唇が降りてきた。
コーヒーテーブルの上に置かれた糸が、ぶうんと振動を止めた。微細な光が消え、沈黙が落ちる。目の前のドラゼッリは腕を組んで身を乗り出した姿勢のまま、動かない。ハイレーナはグレンと視線を交わし、そのまま待った。
「ふうむ……なるほど」
ドラゼッリがフィラ繭糸を取り上げると片眼鏡を装着してじっくりと観察する。
「これは……伝達物質の歴史を塗り替える発見……」
テーブルの上の資料を取り上げ、もう一度しっかりと目を通す。最後のページを読み終え、テーブルの上にぽさりと置くと、じっくり時間をかけてお茶を啜った。
「……で、この状態で発表すると?」
「はい。できるだけ早く、皆さんに知ってほしいと思いまして」
「つまり、この先は他人に委ねる、ということですか?」
「はい。私は冷気ができただけで十分です」
「全く欲のないことだ。しかし、研究者としては、どうでしょうかな」
ドラゼッリは片眼鏡越し鋭い視線をハイレーナに送ってよこした。思わず顎を引いて姿勢を正す。その視線はグレンに一瞬向けられ、それから宙へ向いた。口元に手を当ててしばらく動かない。ハイレーナは背筋を伸ばしたまま、目線を泳がせた。グレンの手が膝に置かれ、すぐに引っ込んだ。
「……分かりました」
ドラゼッリがようやく動く。
「早急に場を用意しましょう」
「あなた、発表は初めてでしたね?」
ぽんぽんと大きく手を叩いて、隣室のセラードを呼ぶ。
ハイレーナが頷くと同時に、セラードが扉を開けた。ドラゼッリは秘書に向けて手を振ると同時に、言葉を続けた。
「私がまとめましょう。モンテス、しっかり指導してくださいよ。セラード、シュテファンを呼んで日程を……」
頷いて立ち上がるグレンに続く。ドラゼッリに礼をして部屋の外へ向かった。
「まあ、色々と、解決したようですしね……」
二人の背中をドラゼッリの呟きが追いかけたきた。
僅か一ヶ月後、新芽がちらほら見え始めたその日、ハイレーナは舞台の真ん中に立って、客席をぼうっと眺めていた。客席は窓から入る春の光で明るい。8割ほど埋まった会場は静まり返ったまま。
——お父様ったらそんな心配そうな顔しなくても。ええと……。
「いつまで突っ立ってるんだ!こっちだって忙しいんだぞ!」
「おう!早くしろ!」
声の方へ目を向ける。レカの顰めっ面が見えた。
——何をいうんだっけ……。
壁際に拳を握りしめてたシュテファンが見えた。次の瞬間、真正面から青い目が飛び込んできた。3列目のひときわ高いもじゃもじゃ頭。真ん中で分けた髪の間から、青い目が射抜くようにハイレーナを見ていた。口から言葉が滑り出した。
「新しい伝達物質ができましたことを報告いたします」
青い瞳しか目に入らない。
「冷気を生み出す伝達物質です」
何度も練習した通り、一呼吸おく。そして一気に喋り出す。
「素材はフィラ蛾の繭、幼虫が抜け地面に落ちる前のものを……」
工程の説明を終え、顔を上げると、こちらに向けられた視線全てに目を合わせるように見回した。
大きく息を吸うと、糸玉を取り出し、高く掲げた。
「これが、冷気の伝達物質です!」
一瞬、しんと静まった会場が次の瞬間、騒然となる。
「インクじゃないだと!」
「何を馬鹿なことを!」
前列のレカが拳を振り上げている。その周辺の研究者たちが荒い声を放つ。ハイレーナの視線は彼らを通り越して、グレンの姿を捉えた。
『冷気の可能性を託すんだろ?目的を忘れるな』
舞台袖で言われた言葉が浮かぶ。
「では、実証いたします」
30センチほどに切った糸の上にクズウォードを置き、微振動と光が漏れ始めると、会場の空気が変わった。微かに漏れ出す冷気が行き渡ったかのように静まり返り、研究者たちは前のめりに身を乗り出している。変わらないのはグレンとトニス。そして、ハロルドはニコニコとハイレーナを見つめていた。
五分ぴったりに光が消えると次々と手が上がり、ハイレーナの指示を待たずに声が浴びせられた。
「定着素材はどうするのだ」
「そんな状態で使い物になるのか!」
次々と飛び交う質問の声を聞いていたハイレーナは手を高くあげた。
「確かに、従来のインクではありませんが、糸であることのメリットも考えられます。例えば……」
と、ガサゴソと足元のカバンから丸めたものを取り出し、客席に向かって広げてみせた。
「フィラ糸を使って、編んでみました。バッグです!」
レカの口があんぐりと開くのを確かめて、直方体ウォードを取り出す。
「こんな風にウォード用のポケットを作ってあります」
ウォードをポケットに差し込んだ。ウォーンと光だす。
「冷やしたまま物を運ぶのか!」
誰かが叫んだ。
「はい。これがあれば、お魚やお肉も、あ、氷も溶けません」
身を乗り出す者、頭を抱えるもの。反応を確かめる間もなくハイレーナは、持ち手の冷たさに「あっ」と叫んでバッグを放り出した。ポカンと見つめるレカと目が合い、苦笑するとバッグを拾い上げてウォードを取り出した。
「とにかく、フィラ糸と冷気は多くの可能性を秘めています。まだ、研究半ばではありますが、これから先は皆さんのお力で、開発を進めていただきたい」
しんと静まり返った会場から、ゆっくりとトニスが立ち上がった。ポンと手を打ち鳴らす。それが波のように伝わって会場が拍手に包まれた。ハイレーナはその音を呆然と聞きながら、小さな呼吸を繰り返した。肩から力が抜けてゆく。トニスの隣でハロルドが祈るように手を合わせ、目を潤ませていた。
——お父様……。
唇を引き結んで、涙を堪えグレンを見る。グレンは座ったままハイレーナと目を合わせると、拳を前に押し出す。白い歯がのぞいた。表情を崩すまいとしながらも、グレンに向かって何度も頷きかえした。
ドラゼッリが現れると、杖を舞台に打ちつけ、客席の注意を引きつける。
「以上。新しい伝達物資の幕開けになる研究発表でした。第2会議室で実物と資料を展示します。ユルヴィナ研究員も午後からはそちらへ。では」
そう締め括った。




