白い光と青い海
「9.8.7.……0」
ハイレーナは蒸し器の蓋を取る。湯気の塊が顔を掠めて登り高窓を曇らせた。蒸し器の中には繭が二つ。今日使える繭の最後だ。試行錯誤を繰り返して二ヶ月。凍結乾燥した繭を蒸して戻すのが最良なのはわかっている。
「はぁ」
ため息しか出てこない。以前書き出した実験は、ほぼやり尽くした。改善はしているものの冷気には程遠い。
「……間に合わせたい」
グレンが黙々とインクを作っている実験室の方向をチラリと見た。
「時間がないのに……」
出口が見えない。取り出した繭を目の高さに持ち上げて観察する。
——この二個を使って、何を試すか考えなければ……。
「あら?」
繭の繊維が少し膨らんで、糸口がささくれのように持ち上がっている。思わず指先でつまんで引っ張った。するすると解けて糸になる。指先にひんやりとした感覚が残る。極細のカシミヤのような手触りに魅せられて、糸をたぐった。指に吸い付いてくる。
「柔らかい……」
ゆっくりと巻き取って毛糸の要領で玉にしていく。微かな弾力も残っている。ふと気がつくと両手に余るほどの大きさになっていた。もう一つの繭も糸口を探して手繰る。
「布にするとか……編む?」
——伝達物質がダメなら、高級糸として売り……ならないよね。
巻き取りながら、ため息が出た。
——もう少し何かマシな……。一人になってやっていけるのかな。
「何やってんだろ、私」
ぷつっと糸が切れた。最後の最後で強く引っ張りすぎたらしい。
「こういう雑なところが駄目なのかも」
もう一度盛大なため息を吐いて、巻き取った糸と、切れ端を持って実験台へ向かう。ウォードランプの下でインクの精製を終えたグレンが顔を上げた。いつものもじゃもじゃ頭に灯りが影を作っている。その頭が傾いてハイレーナが乱暴に置いた玉を見た。
「……それで、何をするつもりだ?」
「……編み物……?」
目を逸らし、つぶやいてから苦笑した。グレンに視線を戻すとしっかり声を出す。
「いえ。それ、最後のですか?」
グレンの手元の資料を覗き込む。以前書き出したリストはことごとく線が引かれて数字が書き込まれている。グレンの手に握られた鉛筆が最後の段に線を付けた。そのままインクを回路ペンに流し込む。
「……引くぞ」
「はい」
ハイレーナはクズウォードを取り出して、回路が引かれる手元を見つめる。以前より透明度が高くなったインクが美しい回路に仕上がっていく。息を止めて静かにウォードを乗せた。ふわっと白い光が立ち、わずかな振動が起こる。
「1.2.3.4.5」
蝋燭の火が消えるように五秒で光は収まった。ハイレーナは止めていた息をゆっくり吐いて、目を閉じた。わかってはいたけれど、手詰まりだ。
「時間は伸びたな。……方向は間違いっていない」
グレンの声に目を開けると、鉛筆をを取り上げて記録を書き込んでいる彼が目に入った。
——どうしたらこんなに冷静でいられるんだろう。
ハイレーナは手だけ動かしてクズウォードを回路から取り上げると、傍へ置いた。ことりと音がした瞬間、ぶうんと振動が手に伝わった。
「え、うそ……」
振動が起こり、白く淡い光が広がる。白い糸の切れ端が光っている。
「グレン!」
さっき台に置いた糸の切れ端にクズウォードが触れていた。思わずグレンの袖を掴んで、もう一方の手を糸に近づける。
「冷たい!」
「いったい……」
グレンが台に手をついて身を乗り出した。
「これは……糸そのものが伝達物質ってことか?」
ぶうんとクズウォードが切れ、糸の発光が消えた。しばらくそこに漂った冷気を感じながら動けずにいた。最初に我に帰ったのはグレンだった。
「もう一度だ。直方体ウォードを持ってこい!」
「はい」
貯蔵室へ駆け出し、直方体ウォードを掴んで戻る。台の上には、ほどかれた糸が縦横無尽に置かれていた。その真ん中へウォードを乗せる。ぶううんと音がして、網目のようになった糸全てが振動して、淡く光る。冷気が勢いよく吹き出した。
「ああ……冷たい!」
ハイレーナは両手をかざして冷気を感じ取る。
「間違いない。……これが伝達物質だ」
グレンに笑顔で振り向こうとした瞬間、冷気が肌を刺激して鼻がむず痒くなる。
「くしゅん」
身を縮ませたハイレーナを押し除けるように手が伸びてきて、グレンがウォードを取り上げた。光が消え、振動が治る。急に訪れた静寂。
「大丈夫か?」
肩を掴んだグレンの手が温かい。
「やったな」
顔を覗き込まれて、ハイレーナは息を止めた。
——冷気、成功したんだ。
グレンの見えない目と視線を合わせ、ゆっくり吐きながら呟いた。
「グレン……お慕いしています……」
蚊の鳴くような声だったかもしれない。しかし、グレンはそのまま動きを止めた。固まって動かない。
——最後にあの青い目が見たい。でも……。
耐えられない沈黙に身を引こうとした瞬間、グレンの手が肩を引き寄せた。顔が近づいてきて、視界を覆う。目を閉じる間もなく、唇が重なった。押し付けられた薄い唇の感覚。心臓の音が鼓膜を叩く。グレンの息遣いと匂い。静かにその唇が離れていくのを追うように、震える指先を伸ばして、グレンの髪をかき上げた。
——あの青い目が見たい……。
現れた鼻筋と深い海の色。じっとハイレーナを見つめる青は優しい。その目を見つめ返し、首に手を這わせて体を寄せた。グレンの腕が背中に回され静かに抱き寄せられた。暖かな体温に包まれて吐息が漏れる。グレンの心臓の鼓動が早い。
ふと思いついて、体を離した。
「念のため聞きますけど」
もう一度髪をかき上げて目を覗き込む。
「私が『ヴァロネスの娘』だからじゃないですよね?」
グレンの目が見開かれ、唇がすっと持ち上がった。白い歯がのぞく。光のような笑顔が現れた。
「バカか……」
そして、もう一度唇が重なった。
やっと、ここまで辿り着きました。第一部を書き始めた時から一番書きたかったエピソード。
読んでくださって、ありがとうございます。
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