雪と別れ道
「え……ラナスへ?」
食堂にハイレーナの声が反響した。慌てて口を押さえたが、アリスティッドは少し困った顔をして、ハイレーナを見た。
「落ち着け、まだ決まったわけじゃない」
食べそびれた昼食のために食堂へ寄った。食堂の入り口で雪を落とし見回すと、がらんとした食堂で、一人で食事をしていたアリスティッドと目が合った。
「どうした、遅いんだな」
「生物部の帰りです」
プレートを受け取って、向かいに席を取る。
「なかなか思うように行かなくて……」
「繭か。ああ、レナはウォード船チームにはそれで行かなかったんだな」
頷いて、フォークを取った。アリスティッドも野菜の煮込みを口に放り込む。
「王太子妃が昨日見にきたんだそうだ。『レグステラの悲願』なんだと。やり手だねぇ。父王を動かす代わりに取引したんだな」
うんうんと相槌を打つ。なんとなく、チームに参加する研究者たちから漏れ聞いていた。
「さすが、アリスティッド。情報通ですね」
「そういえば、お前、ポロダン息子からなんか聞いてねえか?」
「オットーですか?ラナスに行きっぱなしで会っていません」
「……そうか」
鴨のソテーを味わいながら、アリスティッドの顔を見る。食事を先に終え、肘を机について、ハイレーナを見ていた。
「ラナスに研究所ができるらしい。アルバードとラナス、共同で。ポロダンが出資するんだと」
鴨肉にナイフを入れて切り分け、口に運ぶ。
「今、派遣する人材を厳選してるんだが、どうやら、グレンが最有力候補らしい」
フォークが止まった。
「あいつ、ちょうど大きな成果を出しただろう。ウォード船チームにも参加していないし、動きやすい。ラナス王家の顔を立てるためにも、相応の人物を送り込まにゃならんからな」
アリスティッドは水差しからコップに並々と水を注いだ。ごくごく飲んでテーブルに置く。
「あいつは公爵家出身だし、若手の中じゃ一番の実力者だ。独身だしな」
口に入れた鴨肉が急にパサパサしたものに変わった。
――グレンがいなくなる?
何度も咀嚼して、やっと飲み込む。
――いなくなるとしたらいつ?マルチインクのレクチャーが落ち着いたら、繭を手伝ってくれるって……。
肩にずっしり錘が乗ったような気がして視線が落ちた。食堂の沈黙が重い。アリスティッドがじっとハイレーナを見ている。しばらくすると、ポンと頭に温かい手がのった。
「そんな顔するな。まだ決まったわけじゃないんだから」
研究所の廊下を歩く間も、鍵を回して研究室に入るあいだも、ずっと考え込んでいた。研究室を見回す。グレンが論文を書いた机。実験台のいつもの場所。会議室のソファーからはみ出る手足。
凍結乾燥させた繭を戻そうと、鍋をコンロにかける。ぶくぶくと煮えたぎったお湯の火を止めて、繭を入れ、時間を測る。
ここからグレンの姿が消えるなんて、想像できない。
――私、寂しいのか……。いつの間に?
ちょうど一分経ったところで、鍋を持ち上げ、流しのザルへ傾ける。勢いよく飛び出した熱湯がハイレーナの左手にかかった。
「何をしている!」
大きな声が響いた。
――グレン?
振り向く間もなく左手を掴まれて、流しの水の下へ引っ張られる。冷水が手に当たった。
すぐそばにグレンがいる。自分の手首を掴んでいる大きくて細くて、骨ばった手。
水に濡れた左手がヒリヒリ痛む。段々と感覚が消えてゆく。すぐそばに感じるグレンの体温。
グレンの匂い。
熱いかたまりが盛り上がって、目からこぼれ落ちた。
――ああ、私……。
「どうした……痛むのか?……医務室へ行くか?」
グレンが頭を下げて覗き込んでくる。見ないでほしい、今だけは。
唾を飲み込んで、やっと声を出した。
「大丈夫です。……ちょっとびっくりしただけ」
なんでもないふりをして、笑顔を浮かべる。俯くと自由な右手で涙を拭った。
「ありがとうございます。もう、大丈夫です」
水を止め、グレンの手からそっと引き抜いた。濡れた手を拭う。左手の甲は赤く腫れていた。グレンは動かずじっとハイレーナの左手を見ている。
「医務室で薬を塗ってもらえ。繭は俺が見る」
と言うと、ハイレーナを押しのけるように流しに残ったザルへかがみ込んだ。
一歩退いて、その背中をじっと見つめ、静かに扉へ向かった。
――いつからだろう……。
階段を降りながら、出会った時を思い出す。『ビービー泣くのだけは勘弁な』と言った人。盛り上がった涙を拭きながら、ふっと笑う。
――泣いてちゃダメじゃない。
丘の上で眠っていたグレン。夕日に映った横顔。あの人の横に並び立ちたい、と思った日。
一階の医務室へ向かう足をふと止めて、思った。
――どうして、みんな居なくなってしまうんだろう……。
お母様、エステヴァン、ヴァレンス……。
頭を振ってその考えを打ち消した。みんな、自分の道を前へ進んだだけ。止める権利は誰にもない。私も……。
背筋を伸ばして、止まっていた足を踏み出した。
「繭を頑張ろう。できるところまでやろう」
そして、もしも……。




