論文書きの秋
翌朝、研究室の中へ入るとすでにグレンの机の上には資料が広がり、ペンがカリカリと走る音が響いていた。どんよりとした雲に覆われたせいで、机の上にはウォードランプが点っている。ハイレーナはグレンにおずおずと近づいた。
「グレン、私、お手伝いさせてください」
もじゃもじゃ頭がピクッと動き、持ち上がる。じっと睨まれている気がして、小さくなった。
「繭は?」
その言葉に、昨夜の思いつきが甦り、ニヤリと笑ってしまう。
「考えついたことがあるんです!」
側にあった椅子を引っ張り、すとんと腰掛けた。
「成分が抜けないように……」
気がついたら身を乗り出して説明していた。グレンはペンを持ったまま聞いている。最後まで聴き終えて、やっと口を開いた。
「なら、まず生物部へ行って段取りだ。それから、今からやれる検証はしておけ。それからだ」
言い終えた時にはもうペンが動き始めている。
「はい!」
ハイレーナは元気よく立ち上がって、生物部へ向かうべく出て行った。
ふと集中が途切れ、グレンは顔を上げた。部屋の中がずいぶん暗い。机のランプ以外が闇に沈んだようだった。
――遅いな。何してるんだ、いったい。
苛立ちを込めて、ペンを机に置く。雨音につられて立ち上がると、窓辺に行った。外は土砂降りだった。
――傘は?濡れるんじゃないか。
浮かんだ考えに驚き、頭を振って追い出すと、水をいっぱい飲んで席に戻る。ペンを取って手が止まり、再びペンを置いて、資料を手に取った。しばらく資料をめくっていた手が、ふっと止まり時計に目をやった。
――昼、すぎてるじゃないか。
「ただいま、戻りました。遅くなりました!」
とハイレーナの声が飛び込んでくる。見慣れない雨ガッパを脱いでいる間も喋っている。
「生物部にちょうどラザロがいて、協力してくれることになりまして」
つかつかと実験台まで来ると持っていた包をどさりと置く。
「お昼食べました?まだですよね。買ってきましたから、一緒に食べましょう。お茶入れてきますね」
と、言うが早いがコンロの方へ向かっていってしまった。雨は小降りになったようで、部屋も少し明るくなった。
昼食の間は繭の話を聞かされ、お茶を飲み終えるとハイレーナは勢いよく立ち上がる。
「片付けますね。あとは何をすれば?」
グレンはカップをハイレーナの方に推しやって、資料を示した。
「これの整理をしてくれ」
机へ向かってペンを取った。
残暑が去った途端、秋が深まった。ハイレーナはグレンが書いた論文の前半を読んで赤を入れていく。ふっと顔を上げると夕陽に照らされたグレンの顔が見えた。目の下のクマと、削げた頬が影を作っている。無精髭は濃く、髪は伸び放題。
朝来ると、ハイレーナが朝食を作って食べるのが日課になった。その間は資料と論文を遠ざけて、繭やフィラ蛾の巣の話をする。
少しずつ夕闇が迫ったのに気がついて、天井灯をつけた。その時、ノックの音がして、シュテファンが顔を出した。くるりと実験室内を見回すと、グレンのところへ大股で近づいた。
「グレン様。何ですかそのヒゲは。着替えてないでしょう!」
わざとらしく、鼻を突き出してくんくん嗅いでいる。グレンは全く意に介することなく、書き続けている。
「匂います!まったく数日目を離すとこれだ……」
イライラと指先を動かし、ハイレーナに視線を送って寄越す。
「今日は帰りましょう」
ハイレーナに頭をしゃくって催促する。吐息をついて、論文を置いた。
「グレン、資料の精査が必要です」
言葉に反応したグレンがやっと顔を上げた。
「今は精密すぎて焦点がぶれます」
ハイレーナが赤を入れた部分を指で突くと、グレンが手を出してきた。その手を見て見ぬふりをして続ける。
「一度、お風呂に浸かって、ちゃんと寝てください。そうして明日読み返したほうが、きちんと整理できますから」
論文の束を持ち上げてトントンと揃え、グレンから遠ざけた。
その仕草をじっと見ていたグレンはため息をついて、伸びた髪をかき上げた。
――あ、青い目だ。
深い海の色。その瞳はすぐ落ちてきた髪に隠れた。
グレンはゆっくりペンを置く。もう一度大きなため息をつくと、カップに残った紅茶を飲み干して立ち上がった。シュテファンが隣で体の力を抜くのがわかる。ハイレーナに片方だけの笑みを向ける。目が笑っていない。
「ハイレーナ様も帰ってくださいよ。グレン様の資料の整理とか、ダメですからね」
扉に向かっていたグレンが立ち止まってハイレーナを見た。
「……はい」
シュテファンとグレンの視線に、渋々リュックを手に取った。連れ立って研究所を出る。一緒についてくるシュテファンに驚いて視線を投げると、「グレン様が馬車に乗るまで、お見送りします」と片目をつぶって見せた。
日が落ちると途端に涼しくなる.。風に首をすくめて歩いた。ここのところ少し厳しくなった内門の検問を抜け、ハイレーナも何となく馬車溜まりまで付き添った。ひときわ立派なモンテスの紋章付きの馬車がすぐにグレンの前へ進み出る。グレンは無言で乗り込んだ。走り出すまで見守ってシュテファンとともに踵を返す。
「ハイレーナ様がいてくださって、本当に助かっています。あの人、夢中になると、寝ない、食べないで何日でも続けるんです。倒れるまでやるから。まぁ、あなたも同じ匂いがしますけど、もうちょっと人間的というか……」
ハイレーナは唇を尖らせた。宿舎の前でシュテファンと別れて部屋に戻った。灯をつけると、玄関口に今日の手紙が落ちていた。
「オットー!」
手紙を拾うとリュックを置いてソファーまで行く間に封を切る。背もたれに沈むと手紙を引っ張り出した。深呼吸をして、読み始めた。
『無事、北の砦に着いた。王都より早く秋が来るようで朝晩はもう肌寒い。自然が豊かで、一面に麦畑が広がっている。着いて早々ヴァレンスが歓待してくれた。奥さんと、娘にも会ったよ。小柄な奥さんは可愛くて、娘は奥さんに似てとても愛らしい。ヴァレンスに似なくて良かったといったら、頭を叩かれた。ヴァレンスは学院時代より縦にも横にも大きくなった感じだ。今はなんと副師団長を務めている。
この窓から見渡せるボリステレスにも砦が見える。そこに兵が続々と集まっているらしい。しかし、こちらの兵の方が統率が取れているように思う。改めて、この美しい地方と、この国を守らなければと思ったよ。ヴァレンスはヴァレンスのやり方で、僕は僕の戦い方で。
物資を届けたら、王都に戻る予定だったのだけれど、このままラナスへ向かうことになった。父と、合流してひと仕事してくるから、心配しないで。ヴァレンスから、ハナも安心して、頑張れと伝言を頼まれた。絶対に、守り切って見せると笑っていたよ』
静かに手紙を畳んで膝に置いて、目を閉じた。




