大きな一歩
「グレン?」
実験台のいつもの位置に座っていると思っていたグレンの姿が見えなかった。研究室の窓は開け放たれ、早朝の爽やかな微風が吹き込んでいる。足音を忍ばせ中に入ると、貯蔵室をのぞき、会議室へ向かった。そおっと扉を開けて中を覗くとソファの影にもじゃもじゃの髪がのぞいていた。
「……いた!よかった眠ってる」
グレンは長い手足を窮屈そうに折り曲げて、眠っている。頬がこけて無精髭に覆われていた。夏用の毛布が床に落ちているのを拾い上げて、かける。ここ数日マルチインクの完成に向けて、研究室に篭りっきりだったグレン。昨日の夜は流石に、ハイレーナは宿舎に戻り、風呂に入って一眠りして戻ってきたのだった。
足音を忍ばせ会議室を出るとコンロに向かう。持ってきた朝食用の食材を置いて、まず湯を沸かしてお茶を入れた。カップを持って実験台に戻ると、繭の様子を見る。
「異常なし」
温度を測り、指先でひと撫でした。ふと送風機の前に置いた繭へ目が行った。カップを台に置き、しゃがみ込むと両手で繭を持ち上げる。
「えっ」
手に当たる感触は冷たいけれど……。
「乾燥してる?」
急いで台に乗せ、拡大鏡を取り出して覗き込んだ。
人の気配に目が覚めた。朝日が眩しくて腕を目元にあてる。二、三度瞬きをして、体を起こした。ぱらりと毛布が床に落ちる。微かに紅茶の香りが漂っていた。
「……来てるか」
会議室を出ると顔を洗った。タオルで水滴を拭い、コンロの前に置かれた食材を目に留めた。
――やけに静かだな。
タオルを首にかけたまま、実験室へ向かった。
台の上の前にかがみ込むハイレーナが目に入る。近づくグレンの気配に全く気が付かず、拡大鏡を見ながらピンセットで何かを突いている。
「何か見つけたのか」
声をかけると拡大鏡から顔を上げたハイレーナの緑の瞳がグレンを覗き込んだ。朝日が反射しているのか、宝石のようにきらきらと光る。次の瞬間、花が開くようにふんわりと笑った。
「見てください!割れました!」
ピンセットにつままれた糸のようなものが目の前に突き出される。
「風です!熱じゃなかった。送風機の前のやつ、乾燥してぱりんと!」
ピンセットの糸を皿の上に乗せると、次から次へと糸を剥がしてゆく。ぱりんぱりんと二センチくらいの棒状の糸が、皿の上に乗った。グレンが手を伸ばそうとすると、ハイレーナの動きが止まる。ピンセットをパンと置くと立ち上がった。そのまま扉へ向かって、走り出す。途中で振り返って、言った。
「私、フェイドンのところへ行ってきます!箱、作ってもらう!」
バタンと扉が閉まった。
「……」
ふう、と息を吐き、拡大鏡を取り上げ、皿の上の糸を観察する。ピンセットで摘み上げたそれは簡単に割れた。口角が少し上がる。拡大鏡を置く手元にハイレーナのカップがあった。
「紅茶か……」
喉の渇きを覚えて流しへ行った。コップ一杯の水を流し込む。物足りなさを感じて首を振った。
――まったく、感情の豊かな娘だ。
資料棚へ向かうと、完成したインクと記録を取り出し、いつもの位置へ腰を下ろす。レポートを書き始めた。
ばん、扉が開くと同時にハイレーナの声がする。
「フェイドン、いませんでした!」
息切れして細切れになった声へ、片手をあげて返事をする。そのままレポートに戻る。しばらく呼吸を整えていたハイレーナが近づいてくる気配がする。
「これって……もしかして?」
白い手が伸びてきて、目の前のインクに触れた。
「……ああ、完成だ」
「……」
レポートにペンを走らせる。沈黙にふと顔を上げた。
ハイレーナがじっとインクを見つめている。首を傾げてその顔を様伺う。ハイレーナの目からポタリ、と雫が台に落ちた。
「……よかった……おめでとうございます……やっぱりグレンは……すごいなぁ」
「……」
「あ、泣いてません!お祝いしなくっちゃ、そうだ!朝ごはん作りますね。豪華なやつ!」
と踵を返すとコンロの方に走っていく。
「おい、実証はこれからだぞ」
と声をかけた時には流しの奥に姿が隠れた。
とん、と置かれた盛りだくさんの朝食を平らげ、再びレポートに集中する。隣ではハイレーナが繭の乾燥箱の絵を描いていた。ペンの音に混ざるように、彼女の鉛筆の音がする。カタンと鉛筆が置かれ、とんとんを紙を整える音がすると、ハイレーナが立ち上がった。
「私、もう一度フェイドンのところへ行ってきますね」
描き終わったスケッチを持って扉へ向かう彼女を呼び止めた。
「ついでにシュテファンを呼んできてくれ」
振り返ったハイレーナが満面の笑みを浮かべる。
「はい!」
大きな返事が返ってきて、扉が閉まった。




