風
一時間ほど走って、小高い丘の牧草地にたどり着いた。目の前にはなだらかな起伏が広がり、ところどころに木々が枝を伸ばす。一きわ大きな枝ぶりの木の近くで馬を降りた。馬の背を叩いてねぎらい、手綱を縛ることなく放ったままグレンは木の下まで歩いてゆく。木の根元にどかりと腰を下ろすと、そのままゴロンと寝そべった。ハイレーナは馬の背の荷物の中から、大ぶりの布とバスケットを見つけ、グレンの側に近づいた。布を広げてその上に座る。視線を遠くに這わせた。見渡す限りの緑。人影は無い。白く見えるのは羊の群れだろうか。ぽっかり浮かぶ雲と太陽の光。目を閉じるとさわさわと頬を撫でる風の音に聞き入った。
隣で身を起こすグレンに気がついて目を開ける。ごそごそとバスケットを開けて、パンとチーズを取り出していた。ハイレーナも手を貸して、ワイン、トマトとローストチキンを布の上に広げる。パンをちぎり、チーズを切り分けて、トマトとローストチキンを挟む。小さなコップにワインを注ぐ。柔らかなアルコールの匂いがたちのぼった。視線は遥か向こう、空と緑の境界線へ。ひとくち、ひとくち時間をかけて味わった。鳥の鳴き声、風の音。
腹を満たしたグレンが寝そべると、ハイレーナはパン屑を払って残りを丁重にバスケットにしまった。膝を抱えて、顎を膝に乗せる。そのまま目を閉じた。眠気はない。何も考えない時間が愛おしい。
「お前」
グレンの声で目を開け、隣に顔を向ける。グレンは反対側を向いている。
「婚約者とか、いるのか?」
一瞬何を聞かれているのか分からず首を傾げる。瞬きをしてから、慌てて答える。
「は?いませんよ」
「……そうか」
もう一度膝に頭を乗せ目を閉じた。そしてすぐにまた目を開けた。
「なぜ、そんなことを?」
「……」
「グレン?」
腕を解いてグレンの方に身体ごと向ける。隣からは静かな寝息が聞こえてきた。
「……寝てる」
グレンがみじろぎして首がこちらへ向いた。もじゃもじゃの髪が分かれて、間から閉じた目が現れる。鼻筋が通って堀が深く、まつ毛が長い。思わず顔を覗き込んだ。
――そういえばこの人の目の色、知らないんだ。
いつも髪に隠れて見えない瞳。まつ毛がぴくりと揺れ、顔が反対側へ向く。切長の目が隠れたことになぜかほっとした。
馬たちが草をはんでいる。午後の光が少しずつ和らいで、布の上に寝そべって頭の後ろで手を組むと雲の動きを眺めた。
「笑われるかもしれないけど……」
独り言のつもりで言葉が滑り出た。
「私、同じ夢を何度も見るんです。便利なものがたくさんあって、身分もなくて……物が豊富で豊かで……」
目を閉じて思い出す。マンションの廊下、学校の校舎。
「全然別の世界……」
公園、笑う子供たち。
「……あの場所のように、飢える子供のいない世界にしたい……」
少女の針金のような手。
――私にできること……。
「冷気、あきらめない……」
「ハイレーナ」
ゆっくり目を開ける。グレンが見下ろしていた。
「帰るぞ」
そう言うと、立ち上がって馬たちの方へ行く。ハイレーナもゆっくり起き上がった。太陽が傾き始め、日差しにオレンジ色が濃くなった。
――ハイレーナって……。
布を畳んでバスケットと共にグレンのところへ持っていく。荷をくくりつけると、鞍に跨った。
「明日は戻る」
力強い声でグレンが言った。鐙を蹴って歩き出す。
「冷気を作れ」
ゆっくりと丘を降り始めた。
その夜、貴族街に大きな声が響いた。
「通達!通達!王家より緊急通達!」
馬上の騎士たちが貴族街を走り声を上げる。一方で徒歩の者が一軒一軒屋敷を周り、通達の紙を当主に手渡して回る。いつもは静かな貴族街が騒然とした雰囲気に包まれた。
夕食時に玄関まで呼び出された当主たちは、不機嫌な手で封蝋された通達を受け取り、一読して顔色を失った。
『ラナスでウォード鉱石発見』




