近くの空
燃え上がるような緑の中を、グレンの背を追って馬を走らせていた。軽く汗ばんだ肌を風が撫でてゆく。昨日までの研究室での日々がまるで夢の中の出来事のように思えた。
「ユルヴィナ研究員」
肩を揺すぶられて、鉛のように重い瞼をやっと持ち上げた。目に入ったのは実験台とガラス瓶。ゆるゆる頭を持ち上げると、すぐ側に突っ伏しているもじゃもじゃ頭があり、ずらりと並ぶガラス瓶を覗き込んでいるシュテファンと目が合った。
「終わったんですか?」
「お、わり……ました」
朝日が目に眩しくて、ぎゅっと目をつぶる。漏れ出てくるあくびを抑えようと口に手を当てた。隣でもぞもぞ動いた頭がぐいんと持ち上がった。その頭をシュテファンが資料ではたく。
「グレン様、まさか全部やらせたんですか!」
「……グレンはマルチインクの方を……」
はぁぁぁと呆れ声を漏らしながら、シュテファンは並んだインクの数を数え、箱に詰めてゆく。
「全く何日徹夜したんですか、あなた達は」
「……」
「……」
もう一度、箱に詰めたインクを確認して「確かに依頼分きちんと揃ってますね」と頷いた後、ハイレーナとグレンに向き直った。
「2日は休んでください」
「俺は……まだ終わってな」
「そんな状態でいい結果が出せるはずないでしょう!」
「食べて寝て……」
シュテファンが散乱する食べ物の包み紙を摘み上げてゴミ箱に放り込んだ。
「風呂に入ってリフレッシュした方がよっぽどいい!」
もう一度グレンの頭をはたく。
「あなたが上司なんですから、責任もって休ませないでどうするんですか。世話係でしょうが!」
「はい、帰った、帰った。ここは出入り禁止です。いいですね」
背中から扉の外へ押し出される。扉の内側に残ったシュテファンが、グレンの袖をつかまえた。
「グレン様、いいですね。ユルヴィナ研究員をちゃんと休ませてあげてくださいよ」
バタンと音を立てて扉が閉められた。
「……」
「……」
ハイレーナが目を瞬かせて、頭を振っていると、グレンが数歩前へ歩き出す。振り返っていつもの調子で言った。
「ついてこい」
「……」
――まだ何かやることが?
霞のかかった頭のまま後を追った。内門を過ぎ、馬車溜まりまで来ると、一台の立派な馬車の前で立ち止まった。
「乗れ」
――どこへ行くの?
一瞬浮かんだ疑問は、クイっとしゃくられたグレンの顎の動きを見た途端、溶けていった。考える気力がもう残っていない。馬車に乗り込むとゆっくり出発する車輪の音と共に目が閉じた。
「着いたぞ、起きろ」
グレンの声に瞼を開けると、辺りを見回した。グレンはもう扉から半分外へ足を踏み出している。慌てて後ろに従った。一歩外へ出ると、瀟洒な屋敷が目に入った。玄関前に使用人がずらりと並んで、頭を下げている。
「……ここは?」
「俺ん家だ」
言い捨てるようにしてずんずん使用人の間を通って玄関へ向かう。
「は?」というハイレーナの声に振り向いて頭をしゃくった。
「なにしてる。早く来い」
――もう知らない……。と一歩踏み出すと、ささっとメイドが近づいてきて、ハイレーナのリュックを受け取った。
「ようこそおいでくださいました」
執事らしい中年の男に丁重に挨拶され、食堂へ誘われる。あれよあれよという間に座らされて、湯気のたつスープが目の前に現れた。グレンは黙々とスプーンを口に運んでいる。ハイレーナもひと匙、口へ運んだ。野菜の甘みが口の中に広がって、喉を温かいものが滑り落ちてゆく。身体の芯から潤っていくようで、夢中になって食べ始めた。食後の紅茶をゆっくり口に含むと、さっさと飲み終えたグレンが席を立った。
「食ったら休め」
食堂を出てゆくその姿をぼーっと見つめていると、先ほどのメイドが近づいてきて、微笑んだ。
「お部屋へご案内いたします」
「あ、あの……」
というハイレーナの声にメイドが微笑みで答えた。
「大丈夫ですよ。どうぞゆっくりお休みになってくださいまし」
案内された客間は豪奢で呆れるほど天井が高かった。じっくり見回す間もなく湯殿に連れて行かれ、身包み剥がれて湯船に沈まされる。ラベンダーの香りに包まれて、思わずはぁーと吐息が漏れる。
――もう指一本動かしたくない。
と思っていると、スッと気持ちの良い手が腕を撫でた。
「マッサージいたします。お疲れでしょう?」
首から肩、腕に指まで丁重にマッサージされ、夢見心地のまま寝巻きに着替え、ベッドに横たわる。
「なんて、ふかふか……」
メイドの扉を閉める音を聞きながら、深い眠りに落ちて行った。
瞼の奥に光が刺して、目を開ける。見知らぬ天蓋をしばらくぼんやりと見つめた。
――そうか、グレンの家だ……。
居心地の良い布団の中で寝返りを打つ。身体に巻き付けるようにしてくるまった。再び目を閉じて、開ける。むくりと身体を起こした。と同時に扉が開かれる。
「おはようございます、ユルヴィナ様」
「おはよう、今何時かしら」
「七時にございます」
「七時?」
どう見ても朝だ。
「はい、朝の七時にございます。よくお休みでした」
洗面具が差し出され、流れ作業のように肌触りの良いドレスを着せられ、髪を結われて食堂へ連れてゆかれた。
ほとんど食べ終えた皿を前に、長い足を組んで論文を読むグレンがいた。
「おはようございます」
と声をかけると頭がこちらへ向き、しばらくそのまま止まった。そして頷いてまた論文に戻る。食卓に座ると朝をゆっくり味わった。最後のパンを口に入れたときグレンが論文を置いた。
「食ったら出かけるぞ。着替えてこい」
「どこへ?」
「気晴らしだ」
――全く何の答えにもなってないじゃない……。
慣れた様子のメイドについて、部屋へ戻ると乗馬服を着せられた。上質の布と丁寧な仕立てで動きやすい。
「これは?」
「グレン様の姉君のものを調達いたしました。お似合いでございます」
庭をまわり込んで、裏の馬場へ案内された。小屋の前に二頭の栗毛の馬が待っていた。馬丁が鞍をつけ、小さな荷物を乗せて、グレンが背中を叩いて話しかけている。
――馬にはちゃんと話しかけるんだ……。
ハイレーナに気がつくと、グレンの口角がにっと持ち上がった。ひらりと馬の背に乗ると手綱を掴んで鐙に足をかけた。
「行くぞ」
ハイレーナももう一頭に近づくと手綱を取る。
「どこへ?」
返事は期待しない。背にふわりとのぼる。
「お前、乗馬、好きだろうが」
と言って馬首をめぐらし、走り出した。手綱を操り、すぐ後ろを追った。
「行ってらっしゃいませ」
と馬蹄とメイドの声が聞こえた。




