街へ
馬車の扉が開くと、喧騒が飛び込んできた。ダグの手に縋って外へ出る。ハロルドが後ろへ続く。
「ほうほう、すごいね。賑やかだ」
「商店の多い広場ですもの。それでも今日は市の日ではありませんから」
そう言いながらハイレーナは日除けの帽子の鍔を持ち上げた。
フィールドワークの後、義務付けられた二日の休みに合わせて、ハロルドも休みを取った。
「久しぶりに娘と過ごしたい」
「でしたら、少し早いですが、旦那様のお誕生日をお祝いしては?」
マーサの言葉で、明日は細やかな晩餐を準備している。
今朝、食堂に降りてゆくとハロルドがニコニコしながらハイレーナを待っていた。
「今日は一日一緒に過ごせるね」という父に、何がしたいか聞いてみる。
少しもじもじした父が、ぽつりと言った。
「ハイレーナが言っていた、街の古本屋に行ってみたい」
「ダレンさんのお店ですか?」
「そう。僕はあまり外出できないから……」
「……ダグが一緒なら、問題ないのでは?」
それからポロダンに馬車を頼み、ダグを同行させて街へ出てきたのだった。
何度も訪れた広場に父を連れて足を踏み入れる。隣でハロルドはきょろきょろ周りを見回している。そのすぐ後ろにダグが付き従う。今日もパン屋には行列ができていて、走り回る子どもたちと、奥さんたちの声は初めてきた時と変わらない。列の最後尾に並んだ。赤い店内とショーケース。甘い香りを吸い込む。隣でハロルドの鼻がヒクヒク動いているのを見て微笑んだ。田舎パンを二つとりんごのブリオッシュを買って、代金を払う。荷物はダグが持った。店を出ると、ハロルドがため息をついた。
「ハイレーナはすごいな」
「いいえ、みんな当たり前にやっていることです。お父様。私も初めての時はひどいものでした」
思い出し笑いが浮かんだ。
ゆっくり広場を散歩して、店先で平パンのサンドイッチと串焼き肉を買い、テラスのテーブルに座る。エールを一口飲んで、顔を顰めたハロルドに笑う。サンドイッチを頬張りながら、エールを飲み、街の人々を観察する。
「ハイレーナの言っていたことが、初めてちゃんとわかった気がするよ」
とハロルドが言った。視線はサンドイッチを包んでいた油紙に向いている。
「街の人々は働き者だね。みんな忙しそうだ」
「手をたくさん動かしてる。ウォード製品はここにはないんだね」
ハイレーナは手を止めて、ハロルドを見た。
「でも、これは」
油紙を摘み上げる。中からソースが一滴テーブルに落ちた。
「人々の暮らしを変えた。確実に」
ハイレーナを見たハロルドはにっこり笑った。
「やっぱり僕の娘は素晴らしい!」
「へええ、こんなところを入って行くのかい?」
一見見落としそうな路地の入り口にハロルドが感心する。クスリと笑って路地へ進む。ガラス戸を開けると奥に向かって声をかけた。
「ダレンさん、お久しぶり!」
鼻メガネの黒い顔がヌッと現れて、髭に隠れた口元がニッと上がる。
「おお、キラキラお嬢!」
「今日は父と一緒なの。ゆっくり見させてもらっていい?」
ダレンはメガネの上からハロルドをじっと見つめる。
「らっしゃい」
ハロルドは本棚に向かっていた視線をぐいともどして、手を挙げた。
「こんにちは」
「……ゆっくりしていけ」
メガネを戻すとダレンは店の奥に戻って行った。
「ここは自由に見ていいのかい?」ハロルドがハイレーナの袖を引いて小声で尋ねる。
頷いて小声で答えた。
「面白そうであれば買いましょう。その場で読み込んではダメですよ。では」
ハイレーナも久しぶりの本屋で気分が高揚している。
――何度来てもここは宝探ししている気分。
「これは宝探しみたいだな」
と、背後で父の声がして、笑ってしまった。
いつものように端から棚を見始める。
――あら、前回と変わってる。
目新しい本を手に取ってパラパラとめくる。父も本棚の迷路へ宝探しに出たようだった。書架に戻してもう一冊。奥へ。二冊ほど興味を惹かれた本を手に持ち、書架を回り込んだところ、角の椅子に座って足を組み、本に屈み込んでいるもじゃもじゃの頭が目に入った。
――うそ!
一歩後退って踵を返そうとした瞬間、もじゃもじゃ頭が持ち上がって、隠れて見えないはずの目と目が合った。
お互いの動きが止まった。グレンの口がゆっくり開く。
「ハイレーナ!」
ハロルドの声が響いた。
「分類の仕方が独特で、面白いね。見え方が変わるよ。僕が普段読まないような本が……」
ハイレーナは目を閉じて、唇をかんだ。グレンが人形のように立ち上がる。
「ヴァロネス博士!」
聞いたことのない、弾んだ声だった。本棚を回り込んできたハロルドがハイレーナとグレンを交互に見る。ハイレーナに体を寄せる。
「知り合いかい?」
グレンが直立不動のまま答える。
「グレンバルド・ディ・モンテスと申します。第二でハイレーナ嬢の世話係を勤めております」
「ああ、君の二年前の論文、興味深かったよ」
「読んでくださったのですか!」
――笑ってる……あのグレンが?
その時、奥から濁声が飛んできた。
「ヴァロネス博士だと!冗談とおしゃべりは外でやってくれ!」
ハロルドがびくりと肩をすぼめた。ハロルドとハイレーナが会計をすませる間、どうしても後ろに立つグレンをチラチラと見てしまう。店を出るとグレンがすっと礼をした。
「お会いできて光栄です」
ハロルドは少し厳しい視線をグレンに向けた。
「ハイレーナの世話係なんだね。どうだい?娘は少し痩せたみたいで、心配している」
ハイレーナは心の中で両手を合わせた。
――ダメだ。バレた。
グレンは背を伸ばすと、真剣な表情で返した。
「観察眼に優れ、発想力も目を見張るものがあるかと」
「は?」
ハイレーナの声と対照的にハロルドは満面の笑みだ。
「君もそう思うかい!」
ハイレーナは買ったばかりの本を握り締め、ハロルドの袖を引いた。
「そろそろ参りませんと……」
「そうか、では」
と背を向けて二歩。ハロルドがグレンを振り返った。
「君、明日も休みだろう?晩餐をするんだが、来るかい?もっと色々聞かせてほしいな」
「お父様!」
と叫んで口を押さえた。グレンの満面の笑みが見える。
「ぜひ」
ハロルドは頷いてハイレーナを見ると笑いかけ、歩き出した。
泣きたい気持ちを押し殺し、グレンを思い切り睨みつけると背を向けた。
「おい」
グレンの声が追いかけてくる。嘆息しながら振り返るとニヤリと笑ったグレンが言った。
「学院時代とずいぶん雰囲気が変わったな」




