王家の森 〜フィールドワーク〜
虫の描写があります。苦手な方はご注意ください。
「早くつかめ!」
その声に肩をビクッと震わせ、ハイレーナは手を伸ばした。木のうろにモゴモゴと蠢く虫のかたまり。「レジノス甲虫」。――文献で読むのと、実物は違った。想像より遥かに大きい。黒い三層の甲羅は鈍く光る。指の震えが止まらない。
息を詰めて小さめの一匹を掴む。それでもハイレーナの手でギリギリ掴める大きさだった。手の中で蠢く塊。全身鳥肌が立っていた。震える手を制御しながらひっくり返した。腹の筋の交わるところに針を近づけた。
――刺さなくちゃ。ああ、ごめんなさい……。
「チッ」
大きな舌打ちと共にグレンの腕が伸びてくる。すぐ側の一体を掴んだ。
「早くしろ」
思い切って針を腹の合わせ目に押し込む。
――ズレた!
と思った瞬間手の中の虫が暴れ出し、ハイレーナの手を抜けて地面に落ちた。
「何やってる!仲間同士で交信するんだ。逃げられる!」
と言いながら、グレンは迷いなく針を刺し、流れ出た体液をガラス瓶に採取する。すっと針を抜くと、元の場所に戻した。
「早く、上手くやれば気づかれない」
虫は何事もなかったように、餌に張り付いていく。
「素早くやれば……痛みは……ないんですか?」
「知るか!…………死なん」
その間にも、一匹、二匹。
もう自分の体温も感じなくなっていた。もう一度手を伸ばす。
――どうか、痛くありませんように!
と願いながら、針を刺す。無事に褐色の液体が流れ出た。瓶に押し当て採取し、針を抜いて元に戻す。
手を離すと堪えられず横を向いて吐いた。
木々の間からベースのレンガ色が現れて、全身の力が逃げてゆく。森と文明の境界線。中に入るとグレンがすぐにハイレーナの持っている瓶をもぎ取った。保存用の容器に移し替えて、保管庫へ。ハイレーナは帽子と手袋をむしり取って、椅子に放り投げた。今すぐ手を洗いたい。口の中も濯ぎたかった。流しへ向かうハイレーナとすれ違うようにして、グレンは外へ出て行った。
石鹸で両手を何度も洗い、冷たい水で口を濯ぐ。コップに水を注ぐとこくりと飲んだ。水が喉を通って、体の中に落ちてゆく。はぁと一息ついた。小さなウォードコンロの近くに棚がある。中を覗くと、茶葉とカップを見つけた。鍋に水を入れてコンロにかける。ふと窓の外を見ると、グレンが馬に餌をやりながら、体を拭いてやっている。何度も屈んで水をつけ、丁重にブラッシングを繰り返す。お湯が沸くまでその姿を眺めていた。
茶葉にお湯を注ぐ。少し煤けた香りが立ち上った。カップに注ぐと簡易ベッドの上によじ登った。リュックから、毛布を出して体に巻きつける。湯気のたつお茶に口をつけた。あまり味は感じなかった。しばらく無心にベースの中を眺める。簡易ベッドがあと三つ。小さなキッチンに流し台。保管庫に続く扉。レンガの壁。それだけだ。
もう一口飲むとカップを置いて、ノートと鉛筆を取り出した。
「ちゃんと、残しておこう。生命の一部をいただいたんだから、目を逸らさない」
毛布にしっかりと包まり、スケッチを描き始めた。
早朝に目覚め、そっと外へ出る。馬小屋を覗き、傍の井戸の水で顔を洗って体を拭いた。ベースの周りを少し散歩してから戻ると、グレンが突っ立っていた。無精髭を撫でながら、片方の手には昨日のハイレーナのスケッチがあった。目が合うと、無言でノートを突き出された。ノートを受け取る。
――えっ?
手渡される瞬間小さくグレンの頭が縦に振られた気がした。
「何か食っとけ。いくぞ!」
ハイレーナはノートをリュックにしまうと、干し肉を口に放り込んだ。
昨日よりさらに深い森へ入ってゆく。下草がどんどん増えて、膝の辺りまで伸びているのを棒で払いながら進む。深くなるにつれ、音が消えていく。
――ああ、動物がいないからだわ。
王家の森に獣は存在しない。知識としては持っていたけれど、気配がない。音がない。
時折立ち止まり、植物や樹液を採取する。生い茂る葉で光が届かなくなる。風も降りてこない。微かな風が吹くところにシルファの花が見えた。
「取っておくぞ」
かがみ込んでシルファの花びらを採取する。その時ハイレーナの頭上を何かキラキラしたものが通った。目を上げると、ちょうど両手をひらひらさせたくらいの蝶のようなものが、ふわふわと浮かんでいた。羽は薄らと青く光り、羽を動かすたびにキラキラと輝く鱗粉があたりに降り注ぐ。
「……きれい」
蝶はしばらくハイレーナの周りを漂うと、森の奥へ消えていった。
「フィラがだ」
グレンの声がした。
「フィラが?」
「蛾の一種だ」
「……」
初めて聞く名に驚いて、グレンの顔を見る。
「使えないからな。論文はない」
――ああ、まだ知らないことがたくさん。
ハイレーナの頬が緩んだ。
奥に入るにつれ、フィラ蛾が増えていく。静寂の中、瞬く青い羽とキラキラと舞う鱗粉。暗い森が幻想の世界に変わる。
「……本当に使えないんですか?」
「ああ、鱗粉も、体液も全て試した」
グレンのことだから、徹底的に調べたのだろう。
――惜しいな。素敵な灯りになりそうなのに。
ひらひらと舞う一匹が木々の間に留まった。目を凝らすと、半透明の蜘蛛の巣のようなものがある。近づくとうっすら光を帯びているのがわかる。
「巣だ。そうか、繁殖期だな」
さらに進むと下草が消え、木々の間に巣が目立つようになる。巣の中に、繭に似た白い塊がある。
「これは?」
「幼虫だ。抜けると糸が切れてぶら下がる」
確かに、ツリーのオーナメントのようにぶら下がった繭がいくつもあった。
手を伸ばして触ってみる。
「そのうち地面に落ちる」
「これ……」
ぶら下がった繭に触れたまま、動かなくなったハイレーナにグレンが不審そうな目をむけ、近づいてきた。
繭を握って尋ねる。
「伝達物質は素材の性質によるんですよね?」
返事は待たない。
「幼虫が抜けたものなら採取可能ですよね?」
森の生物の許可なき殺傷は許されていない。繭を取り外そうと引っ張る。弾力のある糸は簡単に切れない。
「何に使うつもりだ。光らんぞ」
不機嫌な声が返ってくる。
ハイレーナは振り向くと、グレンに繭を握らせた。
「冷気ですよ!光じゃない」
お読みくださって、ありがとうございます。
安心してください。もう、虫はこれで最後!です。




