グレンと見習い
アリスティッドは三階の廊下を大股で歩いて行く。一番奥の研究室の扉をノックもせずに押し開いた。
実験台の上で書き物をしていたもじゃもじゃ頭が上がった。
「よう、グレン」
手を止めたグレンから、大きなため息が返って来た。
「なんですか、こんな時間に。珍しい」
不機嫌を隠すつもりもないらしい。
「お前、世話係だろう、ちゃんと教えてやれよ」
早足で触れるほどの距離に詰める。グレンは首を傾けて見上げただけだった。
「なんのことです?」
今度はアリスティッドがため息をつく。今日は疲れた。俺だって早く帰りたい。
「回路メモを持ち出そうとしてたぞ」
「……ああ、忘れてました。セラードあたりが教えてるかと……」
肩をすくめて両手を上に上げる仕草に無性に腹が立った。
「面倒だっただけだろうが」
グレンの鼻先まで顔を近づける。
「本人の能力不足で潰れるならまだしも……検問で見つかってみろ。お前だって無傷じゃ済まない」
グレンはアリスティッドから顔を背けると、もう一度大きなため息をつく。
「アリスティッドがそこまで言うとは。――使えるってことですか?」
アリスティッドは身体を起こして、実験台に紙束をどさっと置いた。
「レナのレポートだ。読んでみろ」
しばらくアリスティッドを見上げていたグレンが、渋々レポートを手に取った。読み始めたのを確認すると、椅子を引きずってきて腰をおろす。
グレンの反応をじっくり観察しながら話しかける。
「うちで使ってもいいぞ」
動きを止めたグレンがゆっくりこちらを見る。
「気になるなら、自分の目で確かめてみたらどうだ?」
しばらく睨み合い、ふっとグレンの視線が逸れ、レポートの上に戻る。しばらくして顔を上げた。
「――面白い」
一週間後、ハイレーナはアリスティッドと夕食を共にしていた。テーブルにはジベ爺とラザロがいる。
「そうか、ついにグレンが見習いをつけるんだな」
ジベ爺がアリスティッドと顔を見合わせてくつくつと笑う。首を傾げていると、アリスティッドが人差し指を立てて言った。
「あいつは一匹狼を気取ってるからな。誰とも研究したがらないんだ」
ラザロが頷く。
「……性格が……」
「だな。『大いに難あり』だ」
「それでもだいぶマシになったけどねぇ。新人の頃はもう――」
皆につられてハイレーナも忍び笑いを漏らした。
「しかし、伝達物質に関しては、右に出るものはいない。しっかり学べよ」
アリスティッドがハイレーナに向かって頷く。
「適当に流したほうがいいよ。あの子に付き合ってると、体壊すから」
ジベ爺の言葉に一瞬沈黙した後、三人が笑う。
「……確かに」
笑いながらアリスティッドが手をひらひら振った。
「寝食忘れて没頭するんだ。秘書がいつもキリキリしてる。ヴァロネスとペトリより酷いらしいぞ」
ハイレーナはピクっと反応してしまう。
――お父様より酷いって……。
「嫌になったらいつでも戻っておいでよ」
ジベ爺の言葉にほっこり頬を上気させながら、皆と別れた。
「遅い!」
研究室に怒声が響き渡った。ハイレーナは首をすくめる。綺麗に並べられた伝達物質の棚の中から、目当てのものを探している最中だった。
「赤の7、緑の24を9対1だ!いつまでかかってる!」
貯蔵室の中へ大股で入って来たグレンはハイレーナを押しのけた。
「もういい、俺がやったほうが百倍早い」
初日からずっとこうだ。初めて怒鳴られた時は、その場で固まって動けなくなったが、五日もするとだいぶ慣れた。
「覚えが悪い。手が遅い。無駄だらけだ」
と言うグレンの手つきは正確無比。どんなに朝早くハイレーナが来ても、グレンはすでに実験台にかがみ込んでいる。少量ずつ配分を変えては実験し、細かく記録を取っていく。伝達物質の抽出も、膠や松脂を使わないインクの作りも、今までに見たことのないやり方だった。機を狙って尋ねてみたところ。
「高圧縮用」
と睨まれた。
傍に立ってグレンの手を追っていると、大きな瓶を一つ渡され、顎をしゃくられた。
――ったくもう、怒鳴る以外の口の使い方知らないのかしら。
実験台に戻ると、記録用紙と鉛筆を押しやってくる。
内心でため息をつきながら、目を凝らした。
その時、コンコンとノックの音が響き、返事も待たず、ガチャリと扉が開いた。
「グレン様。まだ居たんですか。超過勤務だと申し上げましたでしょう。帰ってください。私の方で誤魔化すのも限界です」
入って来たのは秘書の制服姿の男だった。立ち上がったハイレーナに目を留めると、一瞬目を見開いて、にっこり笑う。
「あなたが、見習いの……。グレン様の専属秘書、シュテファンと申します。どうぞお見知りおきを」
返事をしようと口を開いた瞬間、
「うるさい!」
グレンの怒声が響く。シュテファンはハイレーナに黙礼して、ずんずん実験台に近づいて行く。
「昨日だって泊まったでしょう」
「……風呂は入ったぞ」
「当たり前でしょうが!」
拳を実験台にどんと当てる。
「今日、これから半日と二日休日です」
「バカ言うな」
グレンは顔も上げない。シュテファンはグレンの顔の前に手を出して遮った。
「規則です。伝達物質は逃げません」
グレンが手を振り払う。シュテファンは台の上に両手をついて、覗き込む。
「それとも一ヶ月の強制休暇が欲しいですか?」
グレンはそのまま攪拌の手を止めない。
「私がクビになっても?」
「……別に」
シュテファンが身を起こして腕組みをする。グレンを見下ろし冷たい声を出した。
「別の秘書官でやっていけるとでも?」
「……」
「――では、セラード秘書官にでも……」
「待て!」
セラードの名が出た途端、グレンの手が止まった。シュテファンを睨みつける。頰がわずかに膨らんでいる。しばらく睨み合いが続いた。そしてグレンの顔が、わずかにハイレーナの方を向く。口角がわずかに上がり、シュテファンに向き直る。
「わかった。じゃ、今日半日と三日休んでやる」
シュテファンの顔に安堵の表情が浮かんだ途端、グレンがニヤリと笑った。
「その代わり、フィールドワークに出るぞ」
「何言ってんですか!」
ハイレーナに視線を投げる。
「連れて行かれるつもりですか!?」
「当たり前だろ。見習いなら当然だ」
「……何日間ですか」
「そうだな、二泊三日。ちょうどレジノス甲虫のサンプルが足りなくなったところだ」
シュテファンが気の毒そうにハイレーナを見る。その視線はしばらくハイレーナの上に留まった。
「では、四日。今日半日と四日」
「……いいだろう」
と、グレンが立ち上がる。白衣を脱いでシュテファンに放り投げた。
「帰る。フィールドワーク、説明しとけ」
あっけに取られるハイレーナとシュテファンを残したまま、扉が音を立てて閉まった。




