メンテナンス部 その2
ハイレーナは鞄から紙と鉛筆を取り出し、頭の中で映像を流し始めた。アリスティッドが鍵を開け、中へ入る。明かり取りの窓に照らされた給湯器……。
――よし。
エルヴァに記憶の方法を尋ねたことがある。
『初めから覚えるつもりで。読みながら要約を頭の中で書くことも』
今の方法には自分なりに工夫を凝らしてたどり着いた。ハイレーナの記憶力はトニスが唸るほど伸びた。
頭の中に映るものを無心で紙に書き起こす。
外へ出る一歩手前で強引に映像を切る。
それなのに手が震え、体の芯が冷えていく。刃の煌めき。
――あんな小さな子が……。
風呂屋の前だったのに、あの子は何日体を拭いていないのだろう。
――どうしたら……。
溢れそうになる涙をこっそり拭い、首を振って雑念を追い出す。再びペンを握った。
――私にできること。
二度、見直してから立ち上がった。
ハイレーナが近づくとアリスティッドは書類から頭を上げ、メガネを下にずらして無言で手を出した。黙って読み進める。
「回路メモ、やけに正確だな。全部は見えなかったはずだが?」
「一度では無理でした。給湯器の回路を予測していましたので、場所を変えて……断片を繋ぎました」
「……盤の傷まで覚えていたか?」
「いえ、それは……カマルさんのお話を伺って……あれがそうだったのではと……」
ふん、と考え込んだ後、つぶやくように言った。
「……良い記憶力を持っている」
ハイレーナは無言で頭を下げた。アリスティッドの手が最後のページにたどり着いた。
「で、これはなんだ」
アリスティッドがメガネの上から鋭い視線を投げる。
「……余計なことかと思いましたが……」
スカートの端を握る。
――書くべきじゃなかったか……。
「イヴァン!」
アリスティッドの声にイヴァンが顔を上げる。
「読んでみろ」
レポートを受け取ったイヴァンは、示された最後のページを時間をかけて読んだ。ハイレーナの心臓の鼓動がどくどくと手まで伝わってくる。
「……面白いですね。炊き出しに入浴券をつける、ですか。慈善医療の巡回で、入浴を安価で提供?」
「うちの領分は超えているが――」
「ですね」
息が漏れ、肩が落ちる。
イヴァンがレポートを握って、ハイレーナに視線を合わせた。
「ちょっと、預からせてくれますか?」
「え?」
口を開けたまま、イヴァンとアリスティッドを見比べる。
「こいつは王城の元官僚でね。それなりのツテをもってる」
アリスティッドがニヤリと笑った。
「おかげでこっちは大助かり」
じわりと涙が盛り上がり、慌てて手で拭った。
「通るかどうかは分かりませんが。不法侵入の件と一緒に、一応上に挙げておきますよ」
イヴァンが淡々とアリスティッドに言った。
三週目に入った。王都の風呂施設を見回った後、カマルとハンネスは本来の職場に戻った。現場によってアリスティッドが人選するらしかった。事あるごとに触ろうとするハンネスがいなくなって、正直ホッとした。
休み明けの朝、メンテナンス部の扉を開けるとそこにアリスティッドが立っていた。
「レナ、お前、平民出身だな?貴族の相手はどうだ、できるか?」
「あ、はい、一応は……」
アリスティッドは一歩下がって、ハイレーナをつま先からてっぺんまで見まわした。ふんと唸る。
「ま、口を開かなきゃいいか」
「いいか、所作は俺を真似ろ。余計な口はきくな。ついてこい」
いつもの荷馬車の影はなく、一番豪奢な馬車が待っていた。工具箱と機材を乗せ、ハイレーナも中へ入る。アリスティッドの向かいへ座った。
「どこへ行くのですか?」
「王城だ」
ごくりと唾を飲み込んだ。
走り出した馬車の窓を見ながら、アリスティッドが続ける。
「緊急要請だ。王太子妃の送風機が壊れた。ついでに広間のシャンデリアも見る」
「王城は、……そうか、お前、行ったばかりだな」
ハイレーナはこくりと頷いた。
貴族院の面々に囲まれ、正面に王族が並ぶ。王家に忠誠を誓い、豪華な羽ペンで誓約書にサインする。研究所に入る1週間前の調印式。正面の王の隣に座っていた、ウイレム、その隣の王太子妃を思い浮かべた。
――あれ?内門も外門も通ってない。
窓に目を向けると、王家の森が迫っていた。驚いてアリスティッドを振り向いた。
「王城へ向かうのではないのですか?」
「裏口を通るのさ」
ハイレーナは目を見開いた。王族専用の通用門があるという。
「場合によって、だがな」
「……」
左に大きくカーブすると、城壁が現れ、馬車が1台通れるだけの小さな城門をくぐる。緩やかに走り続けた馬車は王太子宮の前に停まった。アリスティッドが素早く降り、ハイレーナが続く。近衛の制服を着た騎士がハイレーナの持っていた工具箱を持ち上げた。
迎えに来た中年の侍女とアリスティッドが話している。
「早々に来ていただいて、アリスティッド様」
「今は研究員ですから、呼び捨てで……」
「まあ、でも……」
「王太子妃様の、寝室の送風機ですか?」
「ええ、居間のものも調子が悪いのです。見ていただけます?」
「仰せのままに」
無言でアリスティッドの後をついて、王太子妃の寝室へ入る。その贅を尽くした部屋に一瞬足が止まった。香の匂いが漂う。ウォード暖炉の上に大きな帆船の模型が飾ってあった。
「レナ」
急いで近衛から工具箱を受け取ると、アリスティッドの元へ向かった。
大きな布を敷いて、ふかふかの絨毯が汚れるのを防ぐ。その上で作業が始まる。あっという間に解体されたウォード送風機。アリスティッドが回路を点検している間にウォード残量を調べる。そちらは問題がない。
「高濃度圧縮に入れ替えたな。古い回路だと負担が激しい。見ろ」
アリスティッドの手元を覗き込んだ。
確かに回路全体が薄くなっている。
「さて、書き換えるか。削ってくれ」
「はい」




