メンテナンス部
荷馬車の揺れに振り回されながら、後から後から涙が溢れ出てくる。暗闇に手を伸ばして何かに捕まる。車輪の大きな音に被せるように声を上げた。
――庶民の何を知っている?
あの娘の針金のような腕と虚ろな目が頭から離れない。車が急カーブして横の木箱に頭をぶつけた。頭の痛みが、少しだけハイレーナの気持ちを引き戻す。
「……だめ、仕事中……」
声に出す。震えが止まらない。
『涙は止めろ。邪魔だ!』
トニスの声が蘇る。
『見るべきものが見えなくなる。感情を揺らすのはあとだ』
――心の箱にしまって、鍵をかけろ。
馬車のスピードが落ちてゆく。
――見るべきものから目を逸らさない。
「そうだ。あとでゆっくり泣けばいい」
緩やかに馬車が止まる。話し声が聞こえ、もう一度走り出す。そして、御者の声と共にもう一度止まった。人の気配がして、扉が開いた。
アリスティッドは馬車から降りると御者を労って、荷馬車のほうを伺った。カマルが扉を開けている。顔を覗かせた娘は、腫れぼったい目をしていたが、泣いてはいなかった。
――ほう?
新人でなくともあの貧民街は緊張する。不衛生で危険度も高い。護衛が二人余計に付くほど。
――育ちは良さそうだが、案外肝が据わっているのか。
初回は男でも吐いたり泣き出したりする。
彼女は青白い顔で、誰の手も借りず馬車から降りた。カマルが自分の道具箱を取りながら、話しかけている。
「レナちゃん、びっくりしたろ。俺はカマル。フェイドンから話は聞いてる。よろしくな」
ハンネスも後ろからレナに手を差し出す。
「僕はハンネス。回路師。災難だったね。最初がアレでは可哀想だ」
華奢な娘だ。屈強な体つきのカマルと並ぶと余計に頼りない。
――グレンも残酷なことをしやがる。
アリスティッドは荷馬車を倉庫へ送り出すと、レナに近づいた。近くで見ると意思の強そうな緑の瞳が印象的だった。スカートの裾が黒く汚れているのが目に入った。
「メンテナンス部長のアリスティッドだ」
「全員一度、部屋へ戻るぞ」
と言って背を向ける。後ろからカマルの太い声とハンネスの猫撫で声が聞こえてきた。
「あそこは危険だから、ピリピリしてるんだ。護衛の数も多かったろ?」
「こんな可愛い子にあんなところに行かせるなんてねぇ」
目の端にハンネスが手を伸ばしてレナの髪に触れようとしているのが映った。
――そういや、ハンネスは女好きだったな。目を光らせておかんと。
そう考えながら第二研究所の扉を入った。
部屋へ戻ると秘書が茶を入れて待っていた。自分の机の上に積み上がった書類を見てため息が出る。一番最後にレナが入って、全員着席したところで茶が配られた。
レナに秘書を指して紹介する。
「イヴァン。うち専属だ」
レナは無言で頭を下げる。肩が震えているのが目に入った。動作がぎこちない。
カマルがごくごくと音を立てて、茶を飲み干す。その横でハンネスが眉を顰め上品にティーカップを持ち上げた。自分も一口茶を啜って、カップを置くと机をコンコンと叩いた。
「今日はご苦労。何か報告はあるか?」
カマルが手をあげる。
「うっすらですが、盤をこじ開けようとしたような傷がありました。ちょっと気をつけたほうがいいかもしれません」
「そうか、扉の鍵は異常なしだったがな」
「明かりとりの窓がありませんでしたか?」
「まさか、あんな高所から?」
「あいつら、何やるかわからないよ。必死だからな」
ハンネスの広い額にシワが寄っている。こいつは貧民を嫌っている。
「わかった。報告しておく」
イヴァンに目で指示をする。
「今日のレポートは、遅くとも明日の昼までには出すこと。明日は北区の風呂屋、時間が許せば東区もやる。今日はゆっくり休め。解散」
カマルとハンネスが立ち上がった。
「レナは残れ」
「……はい」
硬い返事が返ってきた。
イヴァンが二人分のカップを片付け、レナの茶を入れ替えるのを待つ。背もたれに寄りかかってため息をつく。最近年のせいか、疲れが溜まる。
「レナ」
「メンテナンス部の仕事は現場だ。必要があればどこへでも行く」
「場所によっては危険を伴う」
背もたれから体を起こした。
「今日はアレで済んだが、集団で襲われることもある。うちの荷馬車に積んでる物は高額だからな」
イヴァンが黙々と書類を捌いてる。カリカリとペンの走る音が響く。
「正直、現場でお前の面倒を見ている暇はない」
アリスティッドは片肘を机について顎を乗せた。レナは俯いていて表情は見えない。自分の娘と同じくらいの歳だろうか。
「見ての通り、やることは山積みだ」
イヴァンに目をやり、自分の書類の山をポンポンと叩く。
「どうだ、イヴァンとここで仕事をするか?」
「それでも良いぞ、グレンには適当に言ってやる」
グレンの名を口にした途端、彼女の顔が上がり、燃えるような目がきらりと光った。
「現場に、行かせてください。みなさんと同じように!」
息を整え落ち着こうとしている。
「足手纏いにはなりません。……私にできることはなんでもします。必要なら書類仕事もやります」
――なるほど。ジベ爺の見立てどおりか。……いや、まだ早いな。
頬杖をついたまま、アリスティッドの目が鋭く光った。
「……そうか。なら、まず今日のレポートをここで書け」
――さて、どこまで『見て』いたか。面白そうだ。




