少しずつ前へ進む
――大切なのは、まず見ること。
実験台の近く、邪魔にならない位置に立って目をこらし、耳を澄ます。メモをとっていると、レカが苛立った様子でハイレーナの肩にぶつかった。
「レナちゃん、邪魔だよ。何してても良いけど、邪魔だけはしないで」
「レカ」
ジベルトの声が飛んだ。
ハイレーナはレカの手に握られている数本の回路ペンに目をやった。
「洗ってきます」
レカは虚をつかれたように一瞬動きをとめ、「お、おう」と言って回路ペンを乱雑にハイレーナの手に乗せた。
流しで一本ずつ分解して、隅々まで洗う。水分をしっかりと拭き上げて、実験台に戻した。
フェイドンが小さく頷き、ジベルトがちらりと視線をよこした。
それからレカは使い終わった器具をハイレーナに突き出してくるようになった。
「洗ったら、隣の部屋に入れといて」
とこちらを見ずに言う。
ハイレーナも無言で受け取って、洗った。
言われた通りに隣の部屋へ向かって、入り口で動きが止まった。
――なにこれ、汚い。
棚に乱雑に並んだ器具。部屋の半分は紙だらけ。これではどこに何があるのか分からない。
――お父様の研究室はあんなに綺麗だったのに。
器具の置き場を確保しようと棚の物を移動させて、指にざらっとした感触がある。
――埃がたまってる。
指についた埃を払った時、
「今日はここまでにしましょう」
とジベルトの声が聞こえた。
急いで実験台のほうへ向かう。
「なに、今日は。未消化の休暇でもたまってんの?」
「今日はな、孫が来てる」
「俺は早く帰れるならありがたい」
などと言いながら、皆、帰り支度を始めていた。
レカが、ハイレーナを振り返って、実験台を指し示す。
「洗っといて。よろしくね」
次の瞬間には背を向けてフェイドンに話しかけていた。
「メシ、付き合ってよ」
「いや、帰る。誘うなら独身者を誘え」
「……ぼ、僕も帰ります……」
その背中から目を逸らし器具に手をかけると、ジベルトが鍵を目の前に置いた。
「終わったら鍵をかけて。事務課に戻しておいて」
「……はい」
そしてハイレーナは一人残された。
翌日、早朝に第四研究室へ入った。倉庫部屋へ入ると持って来た布で棚を丁重に磨きあげた。
昨夜、遅くまでかかって棚を整理した。器具を用途ごとに並べ見出しをつけた。埃取りの布が足りず、泣く泣く諦めた。資料はまだ手を出していない。時間を見つけて整理するつもりだ。
――読みたいし。
全員揃って仕事が始まると、近くに控えた。昨日と同じように見て聞く。できるだけ指示される前に動こうと決めていた。会議中は書記のようにメモを取る。チラチラとフェイドンが視線をよこすのが気になった。
反抗心はグッと堪えて、目が合うとにっこり微笑んで返した。
最後まで残って後始末と資料の整理。四階へ引き上げてレポートにまとめる。毎日夜中に帰っては早朝に出る。食事は昼だけ。食堂で一人。一週間たち、資料を整理し終わった頃から、先が読めるようになってきた。必要になる器具を揃え、台に並べてみる。ラザロが「お?」と言う顔でハイレーナを見た。
レカは面白くなさそうな顔で目を背けた。
「これじゃ足りないんだよ」
と聞こえよがしに言うと、倉庫へ入って行く。そして大きな声をあげた。
「なんだこれ!」
「うん?」
ジベルトが顔を上げ、フェイドンが駆け寄っていく。ラザロも急ぎ足で倉庫へ向かった。
「これやったの、レナちゃん?」
「あのゴミ溜めが!」
「……見やすい」
ジベルトが最後にやってきて、棚をじっくりと見た。無言のまま倉庫を出ると、ハイレーナの肩をポンと叩いた。
その後ろに器具を抱えたレカが通る。すれ違いざまにささやいた。
「さすが女子。整理整頓と掃除は一人前だね」
昼食から戻ってくると、研究室の扉が少しだけ開いているのが目に入った。取っ手に手をかけると中の話し声が耳に飛び込んできた。
「あーあ、せっかく新人が来たっていうのに、女じゃなぁ」
「レナちゃん、よくやってるじゃないか」
「そうかぁ?そのうちビービー泣いて、揉め事起こすに決まってる」
「……決めつけは良くない」
「だいたい三人中最下位だったっていうじゃないか」
取っ手を握る手に力が入る。もう十分。
力一杯扉を押して、中へ足を踏み入れた。
「ただいま戻りました」
「やはり、今のやり方じゃ上手くいかないな」
会議スペースに座り込んだ面々の表情が暗い。
「数日前の実験でできたあれ、使えるんじゃないか?この形にするなら、ウォードの配置をこうして」
「なるほど、ウォードの位置を変えるなら、アリだな」
「回路の配置の見直しか?伝達物質の割合なんだったか……」
「レカ、メモは?」
「あ、どこかに……あれ、どこだっけな……」
そこかしこに散らばったメモを探し始める。
ハイレーナはレポートを取り出して、ページを繰った。
「三日前の実験です。円形回路のインクを白5番と赤21番を3:7で使ってます」
ノートに書き写した回路の図面を見せる。
全員の動きが止まる。
ジベルトが体を寄せて、メガネを持ち上げじっとノートに見入った。
レカがハイレーナの手からレポートをひったくり、一ページ目から読み出す。ラザロも首を突き出して覗き込んだ。
「……これは?」
ノートの端にあるメモを指差してラザロが問うた。初めて、ラザロと目が合った。
「疑問に思ったことと、浮かんだアイディアを書き留めてます」
ラザロがレカの手からノートを奪い、一点を差し示してジベルトに見せた。
「ほう、面白い」
「ったく、……いい気になるなよ。小賢しい」
レカが腕組みをして椅子の背に沈み込んで、吐き捨てるように言った。
「よし、やってみますよ。フェイドン、図面を起こしておくれ。レカはインクの配合。ラザロは回路を再構築して」
皆立ち上がる。ラザロからレポートを受け取ったフェイドンが近づいてくる。ハイレーナは体を硬くした。
「これ、一体何で書いてる?インクじゃないよな。いつも持っているあれか?あれは何だ?」
レポートを突き出したフェイドンは文字を指で突いた。ハイレーナはほっと息を吐く。
「鉛筆、といいます」
「いや、俺の知ってるやつはもっと太い、こんな細い線は書けない」
「友人が作ってくれました。近々市場にも出るそうです」
と言って、オットーに作らせた鉛筆を見せる。前世の形に近いものだ。黒鉛に粘土を練り込んで強度を出し、木に挟んで細く整形した。
フェイドンは鉛筆を手に取って、端から端まで眺め、手に握って検分している。
「フェイドン!」
実験台そばから呼び声が飛ぶ。一瞬振り返って、渋々ハイレーナに鉛筆を返すフェイドンにハイレーナは言った。
「研究室に数本ありますから、一本差し上げます。あとで持って来ますね」
フェイドンが笑み崩れた。




