新しい名で生きる
目が覚めたのは夜明け前だった。ベッドから床へ足を下ろし、ひんやりとした木目の感覚を味わう。窓へ行ってカーテンを開けた。薄暗い空に光が淡く差し始めている。
――やっと。
机へ向かい「大切なもの」をひとつずつ手に取る。初めて作ったインク、引き出しから戻した小鳥のブローチ。お母様の日記。
「お母様。行ってきます。どうか、力を貸して」
額に当てて、祈った。
身支度は簡単に済ませた。ブラウスとスカート。髪はまとめて後ろでしっかり結える。
最小限の寝巻きと着替え。ペンとインクを鞄に詰める。机の引き出しから受験証と新しい身分証明書を取り出した。そこに記されている名は――ハイレーナ・ユルヴィナ――母の結婚前の名。
「名前を変えたい」と話した時の父の顔は忘れられない。驚愕と、悲哀を混ぜたような。何度も話し合い、遂にトニスの一言で決まった。
「イレーネの実家の名をもらったらどうだ?あそこは代替わりしてるが、貴族姓の『ディ』を省けば、否とは言わないだろう」
「名前が変わっても、お父様の娘でいさせてください」
「もちろん、ハイレーナは僕の唯一の最愛の……」
二人で泣いて、トニスを呆れさせたのだった。
着火具が発売されて半年ほどで、クズウォードの値は上がった。着火具は売れ行きが落ちた。トニスは「な、言ったとおりだろ?」とウィンクを寄越した。王家はクズウォードで大きな利益を得たとか。少なくともハイレーナとハロルドになんの咎めもなかった。
鞄をしっかり握って、階下へ降りてゆく。トニスとハロルドが待っていた。無言で朝食をとり、玄関へ行く。マーサが小さな包みを渡してくれる。
「甘いものは頭の疲れに効きますから」
「お嬢や、緊張するな。四年間、十分過ぎるほどやってきた。俺たちのお墨付きだ」
トニスに背中を叩かれる。眉をひそめながら、胸の塊がスッと抜けてゆく。
「ハイレーナ……」
ハロルドが両手を広げて待っている。
「お父様」
抱きしめあうと、背中に回されたハロルドの手にぎゅっと力がこもった。
「頑張っておいで」
頷いて見ると、父の目が潤んでいた。
「行ってきます」
門に向かってゆっくりと進む。門の前には二台の馬車と馴染みのシルエット。
「オットー、来てくれたの?」
「もちろん!」
手を取り合った。
あの後、オットーにはハイレーナから謝った。そして「力を貸して」と頼んだ。
ポロダン商会から馬車と護衛を借り、自由を手に入れた。図書館へも、街へも好きな時に一人で出かける自由を。
オットーの手を借りて馬車に乗り込む。
「行ってこい。全員蹴散らしておいで」
扉を閉めながら、オットーが言う。
破顔して、大きく頷いた。
馬車は走り出す。一人になると、足元から震えが這い登ってきた。手のひらにじっとり冷たい汗をかいている。
――大丈夫。絶対負けない。
白くそびえ立つ王城が近づいてくる。
王立図書館の前を通り過ぎる時、門の前に立つエルヴァの姿が目に入った。窓に張り付くと目が合う。エルヴァが両手を組んで顔の前に上げた。
「集中して、思いっきりやっておいでなさいませ!」
と、聞こえた気がした。
王城の門に向かって馬車がぐんと向きを変える。
もう、迷いは無い。
――これが、私の道。
第二部完結です。ここまでお付き合いくださった皆さん、ありがとうございました。
少し余韻を楽しんでいただきたく、ショートブレイクを設けます。
いよいよ第三部。終結に向けて頑張って楽しく書き進めています。第三部は成長したハイレーナが仕事に邁進し、それに恋愛も……。
5月21日(木)19時、公開予定です。
感想、評価をいただけたら活力になります。よろしくお願いします。




